Part.19『説得』
夕食後、自室のベッドの上に座り、読み止しの小説から栞を抜き開いた。
ここのところ、遅々として進まない小説の執筆。そこで、気晴らしついでに何か参考なればいいなと購入してきた新刊の文芸書籍だった。
ページを捲り、読み進めていく。読めば読むほどに、自分とプロ作家との違いを痛感させられる。
整った文体。
斬新な比喩表現。
何気ない情景描写の中にまで垣間見える、多彩な表現力。
これまで読んできたどの小説と比べても違うというか、文章力も技法も抜きんでていて、感嘆の溜め息しかでない。
一度本から顔を上げた。
ちょいとばかり、レベルの高い作品を選び過ぎただろうか。過ぎたるは猶及ばざるが如し、とでもいうべきか。ここを目指しても手が届くはずがないという落胆と、では、自分はどんな作風を目指すべきなのか、という困惑とが、纏めて押し寄せていた。
目標がよけい見えなくなった。こりゃ不味い、前途多難だ。
茫然自失となり天を仰いだとき、チャットアプリの着信音が鳴る。
ん、誰だろう、とスマホを拾い上げた。
明日香【それで、明日は何時?】
咲夜 【十四時だよ。明日香ちゃんは、アパートから二人が出るところを確認して報告してくれると嬉しい】
明日香【了解。じゃあ、少し早めの時間に出て、真っ直ぐアパートに向かうね】
京 【本当に明日で大丈夫なのか? なにか勝算でもあるの?】
咲夜 【勝算は正直微妙……。でも、色々な可能性を考えた結果、死因はほぼ自殺で間違いないと思うんだよね。そうなってくると、予定を遅らせる理由がない。待てば待つほど、状況が悪くなっていく気がする】
京 【それはまあ、確かに。善は急げか】
その時階下から、「風呂が沸いたから入りなさい」と言う母親の声が聞こえてくる。「わかった」と返事をして、次のメッセージを打った。
咲夜 【親に呼ばれたので、お風呂行ってきます】
明日香【いってらっしゃい】
京 【後でこっそりと、エロい写真送ってね】
咲夜 【グループチャットで、こっそりも何もないでしょう? バカなんですか】
京 【え、こっそりなら送ってくれるの?】
咲夜 【死んで下さい。そもそも、私の裸でエロくなるわけないでしょう?】
普段通りのやり取りに忍び笑いを漏らす。スマホを床に置き、着替え用の下着とパジャマを手に取り立ち上がろうとしたその時、もう一度だけ着信がある。何、と疑問に思いつつメッセージを表示させた。
明日香【なるよ】
京 【なるよ】
「あんたらは……」
本気なの、と思った。
湯船に深く身体を沈め、ふう、と心地良い溜め息を吐いた。吐いた息は、浴室に立ちこめている湯気と交じり合ってすぐに消えた。お湯の暖かさが全身に染み渡ってくると、心身ともに落ち着いてくる。
水面に目を落とすと、細い髪の毛が数本絡み合うようにして漂っていた。
私の髪の毛は細くて切れやすいので、ちょっと強めにブラッシングするだけでも、不安を煽るように抜け落ちて死んでいくのだ。
瞼を閉じて顔を揉む。そして、明日のことに考えを巡らしていった。
いよいよ明日、高橋三枝子さんを説得すると決めた。
二人の行動パターンを、復習を兼ね思い出してみる。彼女らはアパートを出たあと大きい通りに抜けると、北東の方角にある
接触を試みる場所は、高台にある散歩道の中央付近を選定した。
私達三人に加えて娘の梓さんも呼んでいるため、広い場所が望ましいのが理由の一つ目。二つ目は、自宅アパートに押しかけてもし警戒心を抱かせてしまった場合、施錠して閉じこもられると手も足も出せなくなるからだ。
チャンスは恐らく一度きり。失敗は絶対に許されない。
彼女達が、いつ、どんな方法で死ぬのかは、最早大した問題ではない。自殺しようという考えそのものを改めさせない限り、二人を救い出す手立てはないのだから。
三枝子さんは、私の声に耳を傾けてくれるだろうか。成功の鍵は、先日声掛けをした梓さんが来てくれるかどうかに大きく左右されるだろう。
「……」
出し抜けに思った。私、結構とんでもないことをしているな、と。
思えば中学にあがる頃まで、寿命一年の人物を見かけても、見てみぬ振りばかりをしてきた。
深く関わり合いになればなるほど、救えなかった時のショックが相応に大きくなると知っていたから。
それがどうだ。
小学生の命を救い、見ず知らずの高橋さん親子を救おうと奔走している。
全ては、先輩と出会ったからなんだ。
彼の寿命が一年なのを見かけて屋上まで駆け上がったあの日以降、彼を救うため行動を共にするようになり、あまつさえこうして手を貸してもらっている。
本当に、お人よしというか──変な人だと思う。
明日、三枝子さんに声がけをした時、妙な顔をされないだろうか? 本当に死因は自殺でいいんだろうか、ということ含め不安は尽きない。
それなのに、不思議と心は凪いでいた。大丈夫だと思えるようになっていた。私の『寿命が見える』という能力を理解し、受け入れ、行動を共にしてくれる仲間が今は居るから。
ちゃぽん、とお湯の中に半分だけ顔を沈めた。
* * *
翌日の天候は、生憎の曇天。
厚い雲が太陽を覆い隠し、私の胸中に渦巻く不安を煽るように、一筋の光も射しこまない。
身震いしそうなほど冷たい風が吹きつける中、私と今泉先輩の二人は、本牧山頂公園の散歩道に居た。
高橋さん親子がアパートを出たという連絡が、明日香ちゃんから届いてから既に
ジョギングをしている男性や犬の散歩をしている女性の姿に紛れ、自転車を漕いでいる女の子の姿が見えてきた。
「ごめん、遅くなった」
私達の側までやって来ると、明日香ちゃんはターンするように自転車を急停止させる。
「あれ、梓さんは?」
明日香ちゃんの質問に、先輩が首を横に振った。
「残念ながら、まだ来てないね。まだ、というか、そもそも来ないのかもしれないけど」
行き交う人の姿に目を向けながら、先輩の顔が失望の色に染まる。
「しょうがないよ。来てくれたら儲けもの、くらいに考えていたし」
相槌を打つ私も、落胆を隠せない。実の娘が来てくれたなら、どんなに心強かっただろうか。
「そっかぁ」一方で、明日香ちゃんの声は淡々としている。「あと十分くらいで見えてくる?」
「たぶんね」
私も先輩に倣って、散歩道を歩く人の姿に目を配る。もっとも、車椅子を押して歩く二人の姿は目立つため、万が一にも見逃すとは思えないのだが。
散歩道の脇に設置された石造りのベンチに腰を下ろして、二人の到着を待ち続ける。不意に肌寒さを感じると、制服の上から着ていたパーカーの前を閉じ、裾をぎゅっと握り締めた。
そのまま暫くの間、誰も口を開かなかった。
続く沈黙が、不安と心細さを加速させる。
五分。
十分。
十五分。
「ねえ」「なあ」
明日香ちゃんと先輩の声が同時に上がった。
「流石にオカしくないか」
明日香ちゃんが譲ったことで、二の句は先輩だけが紡いだ。
確かにおかしい。スマホを取り出して、時間を確認してみる。
明日香ちゃんから二人がアパートを出た連絡を貰ってからもう二十五分。私の見立てよりも、到着は五分以上遅れていた。寄り道をしているだけだろうか。そう思いたいのに、不安だけがかきたてられる。
「うん、確かにちょっと遅い。でも、もう少し待ってみようよ──」
「それでいいの?」
被せられた声にハッとすると、先輩が食い入るように私の顔を覗きこんでいた。
「でも、待つ以外にないじゃないですか」
「例えば、二人が自殺するのが今日だとしたら?」
「え?」
「加護はさ、二人が自殺を決意するのが、
今日、死ぬ? 言葉の意味に戦慄を覚えると、背筋がぞくりと冷え込んだ。
「根拠なんて、ある訳ないです……。まさか? え、どうすればいいのかな?」
天地が引っ繰り返るような感覚。足元が覚束なくなってしゃがみ込んだ私の肩に、先輩がそっと手を置いた。
「落ち着け加護。仮にそうだとしても、俺たちは三人いるんだ。手分けして捜せばまだ間に合う」
「横浜市
明日香ちゃんがスマホの画面をタップしながら、ボソッと呟いた。
「なに、それ」
「自殺の多い場所を調べてる。ホントはこんなの、調べたくないけど……」
整った眉根を寄せつつも、尚も検索を続ける彼女。
「そっか……、この本牧公園も、結構自殺のあった場所、あるのね。
「中区か、ちょっと遠いな……。でも、彼女らがタクシーを利用すれば、あるいは」シャツの裾を捲り腕時計を確認しながら先輩が言った。「今日だと断定はできないが、可能性は潰した方がいい。じゃあ、その橋は俺がバスを利用して向かってみる。元々俺だけ歩きなんだし、その方がいいだろう」
彼の言葉に、うん、と明日香ちゃんが
「じゃあ私は、今スマホで確認した情報を頼りに、公園内を探し回ってみるね。まっかせてー、こう見えても脚力には自信あるからさ」
自転車に跨りながら、明日香ちゃんが不安を吹き飛ばすように拳を握る。
「それと、咲夜」
「あ、うん」
「咲夜は急いで高橋さんのアパートに戻ってみて。彼女らの散歩コース、把握してるんでしょ? 行き違いにならないよう、コースを逆に辿るようにしてさ」
「分かった」
私が自転車に跨ったのを確認してから、先輩が総括する。
「んじゃ、高橋さんらが見付かったら必ず連絡入れる事。それと結果はどうであれ、十六時迄には各自一報を入れる事。おーけー?」
「りょーかい!」「分かりました」
私と明日香ちゃんの返事を合図に、三人は別々の方角に走り始めた。
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