Part.18『娘』

 高橋三枝子さんの一人娘が通っている女子高は、横浜市中心街にある私立の中高一貫校だ。

 私の自宅最寄り駅から見ると、四駅先にある。私立なのだから、授業料だって安くはないだろう。三枝子さんが娘の親権を手放さざるを得なかった理由の一つが、こんな所にも潜んでいるのかもしれない。


 金曜日の放課後。私は一人、彼女が通う学校を目指していた。

 混雑した電車に揺られること数十分。横浜駅を出た私が、スマホの地図アプリと睨めっこしながらたどり着いた目的地は、昇降口の脇に石造りの階段を備えた、立体的な構造をした白い建物だった。


「ここか」


 弾むような笑い声とともに、校門から三々五々溢れ出てくる女生徒たち。人目につかぬよう、校門を一望できる物陰に私は陣取った。

 そうして、湧き出てくる女生徒の顔をチェックし続けること三〇分。

 長髪を首の後ろで一本に結わえた少女が、友達と談笑しながら出てくる。間違いない。あれが三枝子さんの一人娘である中村梓なかむらあずさだ。この女子高に中学時代の知り合いが居るという先輩に頼み込んで、顔写真を確保してもらった甲斐があった。

 彼女らが通り過ぎるのを見送ったのち、一定の距離を置いて、気付かれないよう後を着けた。

 高い声で交わされる会話が、たびたび聞こえてくる。

 女子高生同士の会話は、よくわからない固有名詞だらけだ。おまけに彼女らは、一言会話をするたびに大きな声で笑いあう。何がそんなに可笑しいのか、と絶え間なく笑い続ける女子高生を遠い存在に感じ始めたところで、自分も女子高生なのに気がついた。


 なんだろう。バカみたいだ。


 笑いながら歩いて行く二人の背中を、付かず離れずの距離で見守る私。こんな時、存在感が薄いことが役に立つ。


 皮肉なもんね。


 尾行を続けること約十分。梓さんは友人と別れてようやく一人になった。私は忍び足を解消すると、早足で彼女との距離を詰め背中から声を掛けた。


「あの、すいません」


 怪訝な顔で振り返ると、彼女は私の姿を一瞥して眉をひそめた。


「あんた……誰?」

「突然声を掛けてごめんなさい、中村梓さんですよね?」

「……そうだけど。あたしがどうかしたの?」


 名前を呼んだことで、彼女の顔にさっと警戒の色が浮かぶ。こんな時は、直ぐにこちらも名乗った方がいい。


「私、加護咲夜という者です。お話をしたいことがあるんですが、ちょっとだけ時間いいですか?」

「あんた、本牧ほんもくにある公立校の子でしょ? まあそれはいいとして、どうして、あたしのこと知ってんの?」


 先程までとは打って変わった低い声。値踏みするように向けられた視線には、強い警戒の色が浮かんでいた。まあ、無理もないだろう。私とて、初対面の他校生徒が突然声を掛けてきたら、身構えざるを得ない。

 だからこそ、彼女の警戒心が強まる前に、本題を切り出してしまおうと考えた。


「あなたの母親について、少し話を聞きたいんです。たぶんここだと話しにくいと思いますので、近くの公園まで行きましょうか」

 すると彼女、「面倒だな」と言わんばかりに表情を曇らせたが、私が重ねて懇願すると、不承不承頷いた。


 静まり返った住宅地の中に、その児童公園はあった。周辺を常緑樹に囲まれた、キャッチボールをするのも難しそうな手狭な公園だ。

 遊具で遊ぶ子供たちのはしゃぎ声と、談笑する母親らの声をすり抜けて公園の奥までたどり着くと、背の高い木の下にあるベンチの前で立ち止まる。梓さんはベンチにどっかりと腰を下ろすと、「で?」と私の顔を見上げた。


態々わざわざ電車賃をかけてまで、母親の何を訊きたくてやって来たのかしら?」

「少しでも失礼だと感じたら言ってください。直ぐに話を止めますので」


 最初に予防線を張っておいた。無理に訊き出すつもりはない、というアピールだったが、彼女の警戒は余計に強まったようにも見える。逆効果だったろうか。


「最近、お母さんに会いましたか?」

「最近」

 梓さんが反芻する。

「もしかして、うちの両親が離婚したこと知ってんの?」


 ここで話を誤魔化すべきではない。私が無言で頷くと、「ふうん」と梓さんが鼻白む。


「ま、いいわ」

 と呟いた後で語り始めた。

「会ったよ。一ヵ月くらい前に一度だけね。三十分ほど、昔の話をしておしまい。でも、もう会うつもりはないよ」

「どうしてですか?」

「そんなの、あんたに関係ないでしょ」


 とたん、彼女の表情が険しさを増した。母親との間に、何か確執でもありそうだ。


「分かりました。では、質問を変えます。お祖母ちゃんが認知症を患っていることは、知っていますか?」

「知らないよ。そんなの初耳」


 素っ気なく否定してみせる彼女。だが動揺を隠し切れず、口元が僅かに歪んだ。


「……そうだったんだ……。あの人、全然言ってくれなかった。でも、あたしにはもう関係ない事。あたしの母親はね、あたしと父さんを裏切って出ていった人だもの」

「裏切って、出て行った……?」


 私が息を呑むと、「なんだ」と彼女が目を丸くする。


「色々知ってる上で嗅ぎまわっているのかと思ってたのに、両親が離婚した原因については知らなかったの?」

「……すいません」


 殊勝な態度で頭を下げる他なかった。父親のDVが原因じゃなかったの?

 私が立ちっぱなしなのに気がついたのか、梓さんはベンチの端に寄る。「ずっと立ってたら疲れるでしょ」と隣に座るよう促してきた。彼女の申し出に従い、隣に腰を下ろした。

「でも、離婚をした原因は……」と恐る恐る推論を述べようとすると、「ああ。父親の暴力が原因だって言いたいんでしょ?」と彼女が被せ気味にそう言った。


「そうです。それだけじゃありません。何度も転職を繰り返して定職に就かなかったり、ギャンブルにのめりこんで多額の借金を作ったこともあると聞いてます」

「なんだ、意外と知ってるんじゃない」


 諦め。失望。様々な負の感情が、梓さんの顔に混じって浮かぶ。


「……そうね。お父さんは今でもギャンブル依存症が治ってないからね。借金を作ったのも、一度や二度じゃない。……その度にお母さんあのひとに土下座して謝って、それでもまた繰り返して。そりゃあまあ、愛想も尽かされるでしょうね」


 それでも、と梓さんが声を張り上げた。


「どうしようない父親だけど、感謝はしてるの。あたしが小さい頃から文化祭も運動会も欠かさず見に来てくれたし、自分にとってはなんら問題なく、良い父親だったからね。まあ、時々お母さんあのひとに手を上げる所を見るのは、心苦しかったけどね。二人が仲良くしてくれることを、あたしもずっと願ってた。それでも、どんなに辛かったとしても──やっぱり、浮気はダメだよ」


 ガチャン……! あまりにも衝撃的な告白に、思わず持っていたスマホを落としてしまう。困惑を隠せない私の顔を、梓さんが「大丈夫?」と覗き込んできた。

 続いた沈黙に、何か言わなくちゃと心だけが急いていく。


「浮気って、三枝子さんがですか?」


 彼女は無言で首肯した。そうか、だから娘の親権は父親の方に渡ったし、慰謝料も払われてないか、あるいは限りなく小額なのだろう。疑問に感じていたことの全てが腑に落ちた。


「相手は勤務先の上司だったかな。しかも相手も妻子持ちの、いわゆるダブル不倫ってやつ。……だからさ、やっぱり許せないよ。確かに暴力に借金に転職ばかりで堪え性のない父親だったろうけど、結局は、自分が『女』であり続けるのを優先したってことなんでしょ? だから不倫をした挙句、実の娘を置いて出て行ったのよ」


 吐き出すようにそう言うと、梓さんは、昂った気持ちを抑えられずに握った拳をふり上げる。だが、怒りの矛先を向ける場所がなく、また拳を膝に下ろした。

 彼女の叫びを聞いてるうちに、私も胸が苦しくなってくる。確かに、彼女の主張は間違いではない。父親にしろ、母親にしろ、自分の不満を押し殺して、百%犠牲になることはできなかった。だからこそ、離婚に至った。

 彼女の視点で見るならば、結局、『不倫をし、子供を置いて出て行った母親』=『自分を捨てた母親』だ。

 なるほど。三枝子さんが保険会社を退職した理由も、自身の不貞だったわけだ。


「そろそろこっちから質問をしてもいいよね? 結局、あんたって何者? あたし達の家庭の事情に首を突っ込んだとしても、なんのメリットも無いでしょ?」


 返す言葉を失った私に、梓さんが尋ねてきた。

 どこまで話すべきなのか……慎重に頭の中で、会話の筋道を組み立てていく。


「確かにそうですね。正直なところ、私にメリットなんてありません。でも、三枝子さんの事情を知ってしまった以上、見過ごせなくなった……とでも思って頂ければ。そんな感じの、ただのお節介焼きなんですよ、私は」

「なにそれ……? はぐらかしているつもり?」


 決して嘘はついていない。とはいえこんな説明じゃ、彼女が納得できないのも、信用を勝ち取れないのも確かだろう。多少の嘘と脚色を散りばめる必要がありそうだ。


「少し、突飛な話をします。信じて貰えないかもしれませんが、聞いてくれますか?」

「いいよ。言ってみて」


 梓さんの瞳には、変わらず警戒の色が浮かんでいる。だが、私が自分の意見を出し始めたことで、多少薄らいだようにも見える。


「私は、他人の感情を薄っすらとですが読み取れます。喜びの感情。悲しみの感情。怒りの感情……例えば、そんな感じに漠然とですが、分かるんです」

「はあ?」


 流石に鼻で笑われてしまう。まあ、無理もないか。自分でも下手な嘘だという自覚はあるが、それでも、『他人の寿命が見えるんです』なんて告げるよりはきっとマシだ。


「先日の事です。私が梓さんの母親である三枝子さんを街角で偶然見かけた時、強い絶望の念を感じ取りました」

「絶望の念? 何言ってんの、あんた」

「信じてくれなくても構いません。ちなみに今、梓さんから読み取れている感情は、警戒及び困惑です」

「……! そんなもん……どうせ口から出任せでしょ?」


 反論しかけたものの、図星だったのか彼女は直ぐに押し黙る。

 無論、警戒及び困惑の感情、なんて指摘も、彼女の顔色や態度を見てカマをかけたに過ぎない。もし看破されたなら、真実を暴露してしまおうという逃げ道を準備した上での嘘だった。


「読心術、という言葉をご存知ですか? 顔色や表情筋の動き等から、直感的に相手の心の中を読みとるすべのことです。私が持っている力は、これと似たようなものでしょう」


 よくもまあ、こんなにスラスラと嘘が言えたものだな、と妙なところで自分に感心する。だがずっと沈黙している梓さんを見る限り、疑われている様子はない。


「大事なことなので、もう一度言います。三枝子さんから伝わってきた感情は、強い絶望です。そこで、彼女の周辺を色々と詮索させていただきました。その結果、彼女を救出する必要があると判断したんです」

「お母さんを助ける……? どういう事?」


 梓さんの瞳の奥に、微かな動揺が見え隠れする。『母親を助ける』という言葉に反応して、彼女の心が揺れ始めているんだろう。そこで伝えるべきか悩んでいた懸念事項を、包み隠さず話そうと決心する。


「これは私の憶測でしかありませんが」と断った上で、話し始める。「恐らくあなたの母親は、近いうちに命を絶ちます。認知症の母親と一緒に無理心中をはかるのではないかと」

「無理心中? ……あ、まさか」

「なにか、心当りがあるんですか?」

「いや、この間お母さんと会ったとき、こう言われたの。『少しばかり借金をした』って」


 借金か。高橋家の家計は、私が思う以上に火の車なのかもしれない。皮肉な話だが、これでまたひとつ、自殺を後押しする材料が見付かった。


「それで、額は?」


 不味い、と即座に口を塞いだ。いくらなんでも、そこまで首を突っ込むのは野暮というもの。


「ごめん、金額までは。たいした事ないよって、お母さんは笑ってたけど」

「そうですか」


 それっきり、口を噤んでしまう彼女。固く握られた拳と、一点を見つめたまま動かなくなった視線が、その動揺の深さを物語る。


「私は今週の日曜日、三枝子さんと接触を試みて、自殺を思い留まるよう説得してみる予定です。……もちろん杞憂であれば良いのですが、この心配事が当たっていた場合、少しでも説得の成功率を上げたい。そう考えて、今日、娘である梓さんに会いに来ました。もし、未だ母親に対する愛情が残っているのであれば、あなたにも来て欲しい。私はそう、願っています」


 一枚の紙きれを彼女に手渡した。書かれてあるのは、週末に彼女の母親と接触する予定の、時間と場所だ。

 受け取ったメモを広げて、梓さんが確認をする。


「絶望の念。そこから連想して自殺……ねえ。考えられなくもないけど、ちょっと短絡的なんじゃないかしら」

「……そうかもしれませんね」

「でもさ、所詮あたしは捨てられた娘。そんなあたしが行ったところで、お母さんは耳を貸してくれないよ」

「そんなこと、ないと思いますよ」

「あんたに何がわかんのよ」


 自虐的に笑ってみせるも、彼女の顔は苦渋の色に染まっていた。


「私は思うんです。きっとお母さんも、あなたの親権を手放したことを後悔しています。辛い日々の出来事から逃げるため、浮気をした事を後悔しています。だからきっと、あなたに謝りたいと思っているんじゃないかと」

「それだって、ただの憶測なんでしょ」

「まあ、その通りですけどね。それでも、あなたの母親が、強い悩みを抱えていることもきっと確か」


 念押しで母親の苦悩を伝え、私は最後に頭を下げた。


「では、そろそろ電車の時間もあるので失礼します。……差し出がましいことばかり言ってしまい、申し訳ありませんでした」


 彼女に背を向け、私は歩き始める。やはり梓さんと母親の間には、相応の確執が存在していた。親権を持っているのが父親である事実から、ある程度予測していたことだが。

 それでも、梓さんの態度は多少軟化したように思える。最初「あの人」だった母親の呼び名が、最後は「お母さん」に変化していたのだから。

 公園を出るとき一度だけ振り返ると、彼女はベンチに座ったまま、手元の紙片に目を落としていた。


 その時吹いた一陣の風が、微かに砂ぼこりを舞い上げた。

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