Part.17『先輩』

 放課後の文芸部の部室には、無機質な打鍵音だけんおんが響きわたっていた。


『彼の幼馴染は、なんとも名状しがたい顔で私を見た。例えるならばそれは、「なんだ、この女は」か、若しくは「邪魔しないでよね」だろうか。どちらにしても、好意的な眼差しには思えなかった。「なんなのよ」はらわたが煮えくり返りそうになるのを宥めつつ、私は──』


 カタカタカタ……


「あ~……なんだこれ書けない~!」

五月蝿うるさいぞ加護君! 気が散るだろう!?」


 手を止めて天を仰ぐと、部長が怒気を孕んだ口調で叫んだ。

 すみません、ごもっともです。弁解の余地もありません。

 端的に言ってスランプです。いや、元々小説を書ける人間でもないのに、スランプなんて言うのはおこがましいだろうか。単純に、実力が無いだけなんだろうけど。

 物憂げに、天井を見つめて考える。このぶつぶつと穴が開いた模様の天井材は、化粧石膏けしょうせっこうボードというらしい。天井仕上げ材の中では最廉価さいれんか。まあ、学校の天井だししょうがないね?

 次は視線を床に落としてみる。

 床は今どき珍しくなった木の床だ。とは言え、落ち着いた色合いは、文芸部の雰囲気にもよくマッチングしてる。板の合わせ目に若干の浮き、傷や痛みの類が見られるね。

 どうやら、長年のダメージが蓄積されているようだ。今度から椅子を引く時は、少しばかりの気遣いを心がけようか。


 こんな風に――ここ数日間、著しく集中力を欠いているのを自分でも感じてた。

 部活動に毎日顔を出してはいるものの、執筆作業はずっと滞ったままだ。冒頭から中盤までは、なんとなく勢いで書けていたものの、一度つまづいてしまうと、特定の場所から一向に筆が進まない。

 書いては消して、書いては消す。まるで、蜘蛛の巣に絡まったまま無駄な足掻きを続ける、虫のような気分だった。


「調子悪そうだな」


 こちらに向いた今泉先輩の顔は、残念なものを見るソレだ。

 失礼ですね、と返したかったが、皮肉を言うだけの精神的余裕もなかった。


「ええ、はっきり言って悪いです」

 大きく息を吐き、先輩としっかり目を合わせる。

「何度書き直しても文章に違和感があるというか、納得できるものが書けません。気のせいなんでしょうけど次第に文字まで歪んで見えてきて、何度もフォントを変えたりしています。明朝体にしてゴシック体にして、また明朝体に戻して。問題はそこじゃないと、分かってはいるんですが……」

「なんかわかるよ」

「先輩でも、そんな事があるんですか」

「そりゃあね」


 先輩は一旦手を休めると、私の方に完全に身体を向けた。両の拳を膝の上で握り、私も聞く体勢になる。


「俺だって、しょっちゅう書けなくなるんだよ。何度書いても文章がダメに見えるときは、その箇所だけ手直ししない方が良いよ」

「え、そうなんですか?」

「そう。違和感の正体が、もっと根底の部分に潜んでいることも多いからね。例えば、前後の文章との繋がりが、そもそも悪いとか。だから一度気持ちを真っ新にするため、少し前のところから書き直してみるといい。なぜか突然、すんなり良くなったりするから」

「あ~なるほど。根っこから悪いのかもしれませんね」

「気分転換にお茶でも飲む?」


 私達の会話を斜向はすむかいから聞いていた未来さんが、気遣うような口調で言った。


「でも、一度外に出て、頭を冷やしてきた方がいいかもね。部長でもないけれど、外の空気を吸って気を紛らわせるのも、大事なことよ」


 珍しく主人の居る部長席に、未来さんは目を向けた。


「なにかね、生天目君」

「いえいえ、別に」


 漂い始めた不穏な空気を払拭するように、もう一度「お茶でも飲む?」と提案した未来さんの好意をやんわりと断って、私は立ち上がる。


「やっぱり、気分転換してきます。このまま書き続けても、成果が上がりそうにないので」


「行ってらっしゃい」という未来さんと明日香ちゃんの声を背中で受け止めながら、私は部室を後にした。……とはいったものの、さて何処へ向かおうか。


 美術部が油絵を描く様子。書道部が大きな紙を床に敷いて筆を構える様子。隣り近所の活動状況を視界の隅に捉えながら、階段の方に向かう。そのまま一階に下りると、生徒用玄関の反対側にあるガラス戸を開けて中庭に出る。

 若草色の芝生に覆われた四角い空間には、人の姿はまばらにしかない。数本の桜が植えられており、木々の梢を揺らす暖かい風が頬を撫でた。

 四月には満開だった桜の花びらも、その殆どが散ってしまってた。移ろいゆく季節を景観の変化から感じつつ、中央に置かれたベンチに腰を下ろした。中庭には幾つかのベンチが置かれているため、複数人が集まっても場所の取り合いには殆どならない。遠くの方から、吹奏楽部がロングトーンの練習をしている音が聞こえてきた。空を見上げると、眩い太陽の光が、瞼の裏に一瞬焼きついた。

 そういえばここ最近、雨らしい雨が降っていないなあ。雲ひとつない空を恨めしそうに眺め、ふとそんなことを思う。


 目を閉じて、しばし瞑想に耽ってみる。

 深く静かに巡らせていく思いは、次第に高橋家の事情へと移り変わっていった。

 あれから散々周辺に聞き込みを続けた結果、わかった事は大きくわけて三つある。


 先ず一つめ。

 高橋三枝子たかはしみえこさんは、元々三人家族だった事。

 三つ年上の旦那さんと、高校生になる娘が居た。

 但し案の定というべきか、二人は四年前に離婚が成立。離婚を経て三枝子さんの姓も、中村から高橋に変わった。離婚の原因は諸説聞かれたが、もっとも有力だと私が感じたのは、DV=ドメスティック・バイオレンスの存在。ようは、旦那さんから三枝子さんへの暴力が、中村家では常態化していたらしい。

 DVが起こる背景には様々あるだろう。だが、どんな理由がそこにあったとしても、女性に対する暴力など許されるべきではない。

 それなのに──夫が妻に暴力を振るうのはある程度は仕方がないといった社会通念。妻に収入がない場合が多いといった男女の経済的格差。そういった構造的問題を多く抱え、社会的な理解度もまだまだ低い。それがDVの本質だ。


 また中村という男には、DVとはまた別に、数々の悪い噂が存在していた。

 どんな仕事をしても長続きせず、転職を繰り返していた事。

 休日はギャンブルにのめりこむ時間が多かった事。計画性に乏しく、浪費癖のある人物像が浮かび上がる。

 それなのに、離婚後の娘の親権は、父親の方が持つことになった。

 これも解せない。なぜ浪費癖のある父親が親権を持ったのか。離婚に至った場合、家事や育児に時間を捻出し易い母親が親権を持つのが一般的なのだが。

 それはさておき。せめて娘が傍らに居れば、三枝子さんも励みにもなるんだろうけど、こればかりは致し方ない。


 二つめ。

 三枝子さんは離婚後、横浜市郊外にある実家──但し、戸建てとはいえ借家である──で生活していた。

 しかし、離婚後まもなくして病床にあった父親が他界すると、その借家も出払って現在のアパートに移り住んだ。こういった事情を鑑みると、現在の高橋家は、かなり生活が苦しいのでは? と推測される。

 これもやはり憶測の域を出ないが、離婚後の慰謝料を十分に貰えていない可能性が高い。娘の親権を手放したことも含めて、謎は深まる。


 三つめ。

 現在アパートに住んでいるのは、三枝子さんと母親の二人だけだということ。

 三枝子さんは元々横浜市中心街にある保険会社に務めていた。だが、離婚が成立する直前に退職して、その後はアパートの近くにある縫製工場でパート勤務をしていた。

 そう──過去形である。一年程前より悪化した母親の認知症が原因で、退職してしまったのだから。他に家族が居れば、若しくは母親を施設に預けられるだけの金銭的余裕があれば、と思わずにはいられない。

 今も短時間で働ける仕事を探しているようだが、良い職場は見つかっていないようで、日々認知症の症状が進んでいく母親を、散歩に連れ出す事が唯一無二とも言える日課だった。

 ふう。自然と溜め息が零れて落ちる。


「救いが無いんだよなあ……」


 ここまでの情報を精査した結果、二人の死因は自殺ではないだろうか、と私は推論を導きだしていた。だが一方で、具体的な対策は何一つ構築できていない。

 時間をかけ考えた末に、親子での死を人生の完結であると答えを固めた三枝子さんに、一介の女子高生である私は何ができる? 彼女を説得して、決心を変えさせる手段はあるのか? 家族も、金銭も、平穏な日々の生活も。彼女が欲している生きるための対価を、私は何一つ準備してあげられないというのに。

 血が滲むほど強く唇を噛んで俯いた。

 でも、なんだろう。

 まだ、重要な何かを見落としている気がしてならない。本当にこれで情報は十分だろうか。本当にこれだけで、彼女は自殺を決意するだろうか?


「ん~……」無意識のうちに呻きが漏れ、視線を芝生の上に縫いとめた時のこと。

「あれ……? 誰かと思えば加護じゃん。随分と久しぶりだね」


 響いてきたのは、どことなくざらつきを感じさせる女の声。


「三枝先輩……」


 ベンチに座る私を見下ろしていたのは、トランペットを片手に腰に手をあて、冷たい視線を向ける二年生の女子生徒。

 彼女の名前は三枝千鶴さえぐさちづる

 私が中学校時代に所属していた吹奏楽部の先輩であると同時に、最も会いたくなかった人物。

 私だけが知っていることだが、三枝先輩の寿命はそんなに長くない。恐らくは、三十代の時に大病でも患うのだろう。思えば、それが元凶だった。私は彼女の不自然な寿命が気になってしまい、度々視線を向けてしまう。

 元来プライドの高い三枝先輩にしてみれば、常々無遠慮な視線を──たとえそんな意図がなかったとしても──向けてくる後輩のことが気に入らなかったのだろう。何かと因縁をつけては私を虐め抜いた先輩達のリーダー格が、この三枝先輩だった。

 実に迂闊だった。吹奏楽部の練習の音が聞こえてきた時点で、中庭を離れるべきだった。


「そういえば加護ってさ、今、文芸部にいるんだっけ?」

「ええ、そうですけども」


 目を合わせることなく、答える。


「ああ、やっぱり。生天目の奴が同じクラスだからね。風の噂で聞いていたけれど」


 なら、訊く必要ないでしょう。返事をせず俯いていると、彼女は馬鹿にしたように鼻で笑った。


「まあ、根暗のアンタにはお似合いの部活ね。誰とも話さなくていいし、黙々となんか適当なことを紙に書いてりゃいいんでしょ? 気楽なもんよね羨ましいわ」


 あはは、という乾笑かんしょうが中庭に響きわたる。嫌味を言っても言わなくても、その嘲笑じみた笑い声だけでも十分に悪意が伝わってくるようだ。

 強い奴には媚を売って傘に着る一方で、口ごたえをしない弱い相手と見るとどこまでも高圧的な態度を取る。

 分かり易く言うと、嗜虐性しぎゃくせいと承認欲求の塊のような人。それが三枝先輩だった。


「はあ」と私は全身で息を吐き出した。「そんな簡単じゃないですよ」

「え? なに? 全然聞こえないんだけど」

「そんなに簡単じゃないって言ったんです。小説を書くことの難しさも知らない癖に、わかったような口ぶりで言うのはやめて下さい」


 言った後で、失言に気がつき口を塞いだ。

 小説が書けずに行き詰ってる最中だったので、苛々がつい口調にも現れてしまった。自尊心だけは強い人なので、間違いなく突っかかってくるだろう。

 次の瞬間、三枝先輩に頭頂部の髪の毛を掴まれると、抵抗する暇もなく、無理矢理顔を上げさせられた。


「いたっ」


 髪の毛が数本抜け、激痛に短く悲鳴が漏れる。


「加護のくせに随分と偉くなったもんね。なに? 私の言ったこと間違ってる? 何か気に入らないことでもあった?」


 覗き込んでくる侮蔑の眼差し。合わせたくもないのに目が合って、斜め下に視線を逃がしながら答える。


「すいません、少しばかり気に触ったもので」

「私が言ったことのどこが気に触ったの? 全然わからないわ? 私の頭が悪いのかしら。ねえ、悪いけど、ちゃんと教えてくれない? どこが気に入らなかったのか!」

「──……!」


 白々しい人だ。どこが気に入らなかったのか、ちゃんと言葉にして説明したでしょう。都合の悪い部分だけ聞き流して、自分の意見のみを通そうとする人の典型的な反応だ。


「だ・か・ら、なにが気に入らなかったの? ちょっと、何か言いなさいよ!? そういうスカした態度が、気に入らないって言ってんのよ!!」


 私が何も言わずに睨み返したことで、彼女の怒りの火に油を注いでしまったらしい。遂に三枝先輩は右手を高く掲げた。殴られると即座に判断して、私は瞳を閉じた。


 ──カシャ。


 その時響いたスマホのシャッター音。

 驚いて音がした方に顔を向けると、スマホカメラのレンズをこちらに向けた明日香ちゃんが、腰に手をあて仁王立ちしていた。


「撮りましたよ」と明日香ちゃんは冷め切った口調で言った。「吹奏楽部の先輩が、文芸部の後輩に手を上げる決定的瞬間」

「夢乃か……」


 先輩が、苦虫をかみ潰したような顔になる。


「相変わらずですね、三枝先輩。何年経っても変わらないなんて、見損ないましたよ。恥ずかしいとは思わないんですか?」


 明日香ちゃんに指を突きつけられ、三枝先輩は露骨に表情を歪めた。憤怒で紅潮していた顔に、さっと怯えの色が混じり合う。


「恥ずかしい? 私が?」

 それでも尚、威厳を保とうとする三枝先輩に、畳み掛けるように明日香ちゃんが攻勢にでる。

「少なくとも私には、恥ずかしい行為に見えましたけどね? ん~……そうですね。何をしていたのか、当ててみましょうか? 咲夜に嫌味でも言ってストレスを発散しようと考えた所、予想外に言い返されてカッとなった」


 明日香ちゃんの気迫に押されて、三枝先輩は言葉に詰まる。これでは無言の肯定だと自分でも分かったのだろう。益々表情が曇っていった。


「その挙句、咲夜の言うことがいちいち正論だったので、言い返せなくなって仕舞いには暴力に訴えた。どうでしたかね、この予想? 間違っていましたら、すいません?」


 決して逸らされない力強い眼差し。彼女の澄んだ声音も、慇懃無礼いんぎんぶれいな物言いとよく合っている。この威圧感こそが明日香ちゃんの真骨頂。

 三枝先輩は釈然としない顔を明日香ちゃんに向けていたが、スマホで撮った写真をチラつかせた彼女に一睨みされると、それもすぐに剥がれ落ちる。殊勝な態度で「悪かったよ」と呟いた。

 脇に置いていたトランペットを拾い上げ、私を一度睨み、その後もなにか言いたそうに口をもごもごと動かしていたが、やがて「覚えてろ」と言うわかり易い捨て台詞を吐いて立ち去って行った。

 張り詰めていた緊張感が解けた瞬間、私の心に沈んでいた重たい空気が、すっと雲散霧消うんさんむしょうした。


「大丈夫? 怪我は?」


 明日香ちゃんが心配そうな顔で覗き込んでくる。


「平気だよ。ごめんね明日香ちゃん、私が何にも言えないばっかりに」

「ううん、いいよ。なかなか戻って来ない咲夜を心配した部長さんに、ちょっと見に行ってこいと言われただけだから。むしろ、丁度良いタイミングで通りかかって良かったよ」


 眼前に広がった、抜けるような青空。背筋を伸ばして立つ明日香ちゃんの白い肌が、視界を埋め尽くす青の中にくっきりとした存在感を解き放つ。

 彼女の立ち居振る舞いに、私は何度でも目を奪われる。

 彼女の凛とした強い心に、私は何度でも救われる。


 じゃあ、戻ろうか。喜色満面、彼女は私の手を取った。力強く引かれることで、いつの間にか足元に纏わりついていた暗い心の澱みから抜け出す。

 私の手を引く彼女の澄んだ瞳にも、空の青が写りこんでいた。紫紺の瞳に意識ごと吸い込まれそうになり、私の伝えたかった言葉が飛んだ。


 ──ありがとう。喉元で弾けた私の声が、春の陽気に溶けて消える。


 私が物怖じしていえない言の葉も、彼女はさらりと言って除ける。今日も私は「ありがとう」の一言すら伝えることができずに、ただ彼女の背中を追いかける。


 見上げた空も心も快晴だ。当分の間、雨は降りそうにない。

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