Part.16『高橋家』
平日の夕暮れ時。
帰宅ラッシュがそろそろ始まり、混み始めた車の列。
歩道を行き交う人の数も、相応に多くなっていた。
学校帰りの中高生。主婦にオーエル、サラリーマン。様々な人の姿に紛れて歩いて行く。こんな時、私の平々凡々とした容姿が思いがけず役に立つ。これといった違和感もなく、街の景観に溶け込む事ができるのだから。
今回の尾行は、前回と比べて随分と気楽なものだった。
二人が最初に曲がる路地も知っているし、一度距離を詰めてさえしまえば相手は所詮車椅子。不摂生な私の脚力でも、見失うことは無いだろう。
彼女たちは、先日と同じ路地を左側に折れたのち、更に左に一回、右に二回曲がった。横浜市中心部とは思えない程人通りが少なく、日が傾き始めた時間帯では、薄っすらと肌寒さすら感じる
なるほど、これだけ頻繁に路地を曲がられたのでは、先日見失ってしまった事にも合点がいく。
やがて、廃れた雰囲気の二階建てアパートの前に辿り着いた。僅かに錆の浮き出たトタンの外壁。所々塗装が剥がれた階段の手摺りが、築年数を雄弁と物語る。そんなアパートの一階、一番奥側の扉に二人は入って行った。
二人の姿が完全に消え人心地ついた頃合いに、私は隠れていた物陰から顔を出した。
アパートの手前を流れる側溝の中は苔生し、敷地の境目のアスファルトはひび割れ、その隙間から雑草が顔を覗かせている。
人目を気にしながらアパートの前を進み、二階に至る階段を見上げると、錆びた手摺りの隙間には、主を失ったくもの巣の残骸が無数に残されていた。
二人の姿が消えた扉の前に立ち、表札に書かれている名前を確認した。
これで二人の名字とアパートの場所は特定できた。尾行しながら寿命の数字を注意深く観察していたが、明滅していたり、色味が損なわれているようには見えなかった。彼女らの命が失われる瞬間までは、多少の猶予があるとみてよいだろう。
取り敢えずの用件は済んだ。立ち去ろうと考え始めた矢先のこと。
「あら、こんにちは。あまり見かけない顔ね……このアパートの子だったかしら?」
突然背中からかけられた声に、心臓が飛び出そうな程驚いた。
別に疚しいことをしている訳でもないのに。苦笑を愛想笑いに差し替え振り向くと、裾の長いワンピースを着て、エコバッグを提げた中年女性が立っていた。
ここの住人だろうか? ちょいとばかり面倒な人に目撃されたかもしれない。
「いいえ、違います」
一旦否定したのち、二の句の内容を思案する。
「ええと……このアパートに私の友達がいるんですけど、残念ながら留守だったみたいで」
「という事は、もしかして」
言いながら彼女は、口元を歪めて目を細める。
「渡辺さん家の息子さんの恋人って、あなたの事なのかしら?」
渡辺さんって誰だろう。傾げそうになった首を正して考える。素直に否定してもいいんだけど、アパートの住人の中に居る高校生が渡辺宅の息子だけだった場合、露骨に怪しまれる材料になりかねない。
「あ、はい。渡辺君とは知り合いです」
一先ずここは、話に乗っかるという無難な選択をした。嘘を嘘で塗り固めているけど、恋人とは言ってないし大丈夫だろう。まあそのうち、不自然な点があればバレるだろうし。というか、ほとぼりが冷めた頃合にバレて欲しい。
彼女は、睨め回すように私の全身を見つめ、「あらそう、あなたが」と語尾を濁した。そこで言いよどむのは、私の印象が悪いみたいでなんだか釈然としないんですが。
それではこれで──と頭を下げ、立ち去ろうとして足を止めた。
「そういえば」
「はい?」
「渡辺君が前に言っていたんですが、高橋さんの家、結構大変なことになっているみたいですね」
どうせついた嘘だ。存分に利用してやろうと考え、かまを掛けてみた。これで彼女が口を滑られてくれれば儲けものだ。
「そう、そうなのよ」
と案の定、彼女は話に食いついてきた。
「お母さんの認知症も、結構進んじゃってるみたいでね」
「認知症、だったんですか?」
「らしいわよ。まだ七十代なのに大変よね」
と彼女は訳知り顔で空を見上げる。
「三枝子さんも、本当はお母さんを施設に入れたいんでしょうけどね」
そうか、あの中年女性は、
「彼女、パートを辞めてから結構経つでしょう? なかなか生活費が苦しいみたいでね。とてもじゃないけれど、養護施設に入れるお金なんて捻出できないんじゃないかしら」
放っておくとどこまでも喋りそうだなこの人、と思わず苦い顔になる。
「アパートの家賃だけでも大変でしょうしね。旦那さんは、何をされてる方なんですか?」
こちらから質問を返すと、「旦那さん?」と途端に女性の顔に警戒の色が浮かぶ。即座に失言だと気がついた。
女性はバツの悪そうな表情に変わると、誤魔化すように「おほほ」と笑みをこぼした。
「あら、もうこんな時間。ごめんなさい。ちょっとお喋りが過ぎたかしら。じゃあ、夕食の準備がありますので」
「いえ。こちらこそ時間を取らせてしまってすいませんでした」
深々と頭を下げると、立ち去っていく女性の背中を見ながらアパートの前を後にする。本音をいうと、旦那や子供の存在も訊きだしたいところだが、流石に潮時というもの。それに、なんとなくだが察しがついていた。
あの二人は、鍵を開けて部屋の中に入って行った。つまり──家の中に、待っている家族は存在しない。
そして、私は高橋家の前に佇んでいたのにも関わらず、渡辺家の息子の知り合いではないかと勘ぐられた。ここから、高橋家に子供は居ないと推測できる。少なくとも──私のような年齢の子供は。
それと、旦那という単語に女性は露骨に表情を曇らせた。つまり旦那は居ないのか、もしくは居たとしても、何らかの理由があって今は生活をともにしていないと容易に推測できる。
ここから私が導き出した推論は、死別、または離婚。
思わず全身で溜め息を吐いた。
認知症を患う母親。苦しい生活費。存在が見えてこない家族の姿。
あの親子は、何らかの事故か事件に巻き込まれるのだろうと勝手に解釈していた。だが、その予測ですら少々甘すぎたのかもしれない。一番良くない結末を、覚悟しておく必要があった。
私の両親も仲睦まじい夫婦とまではいかないが、それでも普通に仲良く暮らしている。普通であるという当たり前のことが、実はとても貴重で尊いことなんだと、唇を噛み締めた。
考えごとをしながら歩いていると、眼鏡をかけ、グレーのスーツ姿のサラリーマン風の青年が向こうからやって来た。スマホにメモを残しながら歩いている私は注意力散漫だ。あまり他人に接近しない方がいいだろうと、さり気なく方向を変えた。
大通りに戻ると、途端に人の姿も増える。先輩たちと合流しなくちゃ、と視線を商店街に走らせたとき、背筋にぞくっと悪寒が走った。
──なんだ?
心臓は強く脈打ち、凍えるようなうすら寒い感覚が全身を駆け巡る。手のひらはじんわりと汗ばみ、胸中に困惑の雲が広がった。
なんだろう? 両手で身体を抱いて身震いをした。
いま、重大な何かを見落とした気がする。高橋家の事情とは異なる、重大な何か。
商店街? 薄暗い小路? アパートで会った女性、若しくは周辺の民家? 違う、どれも違う気がする。
その時「加護!」と私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あの二人のこと、何かわかった?」
声がした方に顔を向けると、先輩と明日香ちゃんが駆け寄って来るのが見える。「ああ、うん」戸惑いを隠せぬまま、彼女らを迎えた。
いや……きっと、気のせいだろう。今は目の前の問題事に集中しよう。とにかく、もう少し情報が必要だ。
すっかり西に傾いた太陽を、暗褐色の雲が覆い隠した。商店街に差し込む影が濃くなると、気温が数度下がったように感じられた。
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