第二章「不貞と親権と」

Part.11『考察』

 今日の一時間目は数学だった。

 頭の薄い四十代の数学教師が、黒板に難解な公式を書き入れながら、因数分解の解き方を説明している。因数分解とは、「足し算、引き算で表されている数式を、かけ算の形に変形することです」とかね。

 なんとも退屈な授業だが、まあそんなことはどうでも良い。

 教室の窓から物憂げに外を眺めてみる。

 学校の前で行われている、道路工事現場が見えた。ローラーにて路盤材ろばんざい締固しめかためする鈍い低音が響いて聞こえる。

 しかし、それらの音にも耳を傾けることなく、まるでドビュッシーの月の光、若しくは、バッハのG線上のアリアといったバッググラウンドミュージックの如く聞き流しながら、昨日見かけた二人の女性のことばかり考えていた。


 車椅子に乗せられていた老婦人は、白髪混じりの短髪。

 彼女が乗せられていた車椅子を押して歩く中年女性の方は、長い黒髪が印象的で、背が高く痩せ型だった。だが、ここで浮上してくる問題点が、二人とも肝心の顔を視認できていない事。

 目撃したのは短時間、かつ途中で見失ってしまったのだから、それもやむを得ない話なのだが。

 外見の情報が少なすぎるため、普通の人であれば彼女らとすれ違ったとしても特定するのは困難だろう。だが、はそうじゃない。寿命が一年であるという事実。車椅子を押して歩いているという状況。これら二つの情報から複合的に判断すれば良いのだから。

 ところが、である。話はそこまで単純明快でもない。

 顔や名前はおろか、年齢すら曖昧な今の現状では、聞き込みを行って二人の情報を入手する方法・手段が存在しない。詰まるところ、自分の足を使って直接見つけ出す以外に、方法がないのだった。


 こいつは思っていたより、前途多難ね。


 それにしても、彼女らが命を落とす要因ってなんだろう。

 当初私は、なんらかの事故に巻き込まれるのではないか、と予測していた。だが冷静になって考えてみると、二人同時に命を落とす事故なんて有り得るのだろうか? あまりにもレアケースなんじゃ?

 何度考えを巡らしても事件の影がちらついてしまい、私は身震いをしてかぶりを振った。

 兎にも角にも、あの二人の名前と住所を確認するのが第一目標。それが、昨日見かけた二人に対する私なりの方針であり結論。


 そしてもう一つの問題。──今泉先輩。

 どうして寿命一年の人が短期間で立て続けに見付かるのか、と頭を抱えてしまいそうになるが、実際に抱えてる訳にもいくまい。

 優先順位を付けるべき事項ではないし、こちらも並行して情報を集める必要があった。


 だけどこちらはもっと難題。いったい誰に何を訊けばよいのだろう?

 先輩はまだ高校二年生なのだし、残り一年という寿命を考えても、真っ先に病死は除外できる。

 必然的に、他殺、自殺、あるいは事故に限定される。

 事故となると実に厄介だ。何時起こるのか特定出来ない以上、常日頃、先輩の動向を確認する必要がある。だが、自殺、または他殺の方面で疑うならば、彼の生活環境や交友関係を調査していけば、潜んでいる何らかの問題点が見えてくるかもしれない。


「じゃあ今のところ、加護、解いてみろ」

「は? ……はい!?」


 先生の声に、私は慌てて立ち上がった。

 今のところって、どんなところ?


* * *


 午前中の授業も終え昼休み。私はクラスメイトの佐藤亜矢に話しかけた。


「兄貴の部活、入ってくれたんだってね。悪いね~」


 もとい、話しかけられた。私の隣に空席を見つけて、彼女はどっかりと腰を降ろした。


「いやいや。入ったのはあくまでも自分の意思。だから、何も気にしなくていいよ」


 実際、この言葉に嘘はない。

 むしろ、部活動に入る気すらなかった私に切っ掛けをくれたのだから、感謝しても良いくらいだ。少なくとも、彼女が後ろめたい気持ちを抱える必要はないだろう。


「それからさ、ちょっと質問いいかな?」

「お? 加護ちゃんから話題を振ってくるなんて嬉しいね~。で、なんだい?」


 好奇心旺盛な瞳が私を捉える。どうやら、聞く気になったらしい。


「亜矢ちゃんって確か、今泉先輩と同じ中学だったよね?」

「そうだけど。それがどうかしたの?」

「ええとね。先輩なんだけど、心なしか昨日、落ち込んでいるように見えたんだよね。それでさ、何か悩み事でも抱えてるのかなあ……なんてね。何か、心当たりない? 家庭内のトラブルとかそういうの」

「直接聞けばいいじゃん」


 うっ……痛いところを突いてくる。確かに私も下手な嘘だな、と自覚はしてますけどね。


「いや、まあその通りなんだけど。まだ知り合って数日だし、踏み込んでは訊き難いといいますか」

「ふ~ん……」


 思案げに呟いた後、彼女の丸い瞳が細められた。


「ははーん? 話しかけづらい事情なら、それこそ星の数だけありますもんね」

「星の数って」


 そんなにある訳ないじゃないですか、と笑い飛ばそうとして止めておいた。こういうタイプに余計な情報を与えると、確実に墓穴を掘るのだから。

 曖昧な笑みを浮かべてやり過ごそうとした私だったが、数秒思案したのち続いた亜矢ちゃんの言葉に、息を呑むことになる。


「家庭内のトラブルなら、あるね」

「あるの!?」

「いや正しくは、『あった』と言うべきかな。父親の経営している会社が事業で失敗したとかで、多額の借金を抱えたことがあるみたいよ。それが引き金となり、母親とも離婚している系なんだ」


 系、ってなんだろう、という疑問は今は置いておく。


「じゃあ、今は先輩と父親の二人暮らしってこと?」

「そうだよー。もちろん私も立ち入っては訊けないから、詳しい事情は知らないけれど、結構な額の借金があったみたいよ」


 これはまったくの想定外。先輩は自分語りなんてしない人だし感情の起伏も穏やかだから、悩み事なんてないんだと勝手に決めつけていた。

 それにしても──借金、か。

 家に借金がある事自体はなんら珍しくない。だが、その金額が大きくなると話は別だ。

 借金を苦にした自殺、とかあり得るんだろうか? でもそれは家庭の事情なのだから、先輩一人が思い詰めて命を絶つとは考えにくい。取り敢えずこの話は、心の奥底に留めておこう。


「交友関係はどんな感じ? 悪い友達とか、妙な行動をする友達とか、関係を拗らせた友人とかそんなのいないかな?」

「加護ちゃんは交友関係に恵まれてないの?」と亜矢ちゃんは目を丸くした。余計なお世話です。「まるで、何か問題があった方が良いみたいな言い方だね」

「いやいや、そんな事は無いんだけれど……」

「何もないと思うよ。他人と積極的に関わる人じゃないから、友達が多くないのは確かだけれどね」


 それはなんか頷ける。自分が興味ない話になると、途端に無口になるよねあの人。


「そっか、有難う」


 用件は済んだとばかりに席を立とうとした矢先、がしっと彼女に手を握られた。……しまった。やはり見逃してはくれなかったか。


「何? 一番大事なことを訊かないままで行っちゃうの?」

「だ、大事なことって?」


 またまた惚けちゃって、と彼女はしたり顔で指を立てる。


「恋人の存在に決まってるでしょ。もう、晩熟おくてだなぁ加護ちゃんは。まー安心しなさい、今は彼女とか居ないみたいだから」


 亜矢ちゃんの瞳は、恋に憧れる無垢な少女のようにキラキラしています。なんだかとっても、眩しいです。でもすいません、それ勘違いなんです。お願いだからそんな目で見つめないで下さい。とてもリアクションに困ります。


「加護ちゃんもしかして、京先輩のことが気になってる系? 私に何か協力できることある?」


 自分でいた種とはいえ、結局他人に誤解を植えつける性分なんだな、私は。


「そんなんじゃない、誤解だよ、誤解。私が先輩の話を訊きだしたこと、他の人には言わないでよね。変な噂が立つと迷惑かけちゃうから」


 繰り返し、誤解であることを主張する。万が一、この話が彼女の口から部長の耳に入ったら大惨事になる。質問する相手を間違えただろうか。後悔先に立たずとは、正にこの事だ。


「了解だよ。これは私と加護ちゃんだけの秘密にしておくね。もし相談したくなったら、何時でも声を掛けてね。力になるから」


 彼女はびしっと敬礼を決めると、最後に「てへ」と舌を出した。……ダメだ、信用に値しない。いやな予感しかしない。


「本当に誤解だから……絶対に誰にも言わないでよね」と、もう一度だけ念押ししておいた。


 * * *


 結局、午後からの授業の中身も同様に頭に入らず、何処か集中力を欠いたままの私の溜め息を、ホームルームの終了を告げるチャイムが引き取った。大丈夫だろうか、私の成績。


「じゃあ部活行こうか」


 澄んだ声音が聞こえてきたな、と顔を上げると、私の席の隣に明日香ちゃんが立っていた。彼女はノートパソコンを脇に抱えている。おそらく、家にあるものを持ってきたのだろう。


「咲夜もパソコン買ったんだね、高かったでしょ?」


 二人並んで部室に向かって廊下を歩いているとき、明日香ちゃんが尋ねてくる。彼女の視線は、私が抱えているパソコンに注がれている。


「そうでもなかったよ。昨日今泉先輩に紹介してもらった店で、意外と安く買えたんだ。まあ、中古品なんだけどね」

「ふ~ん……」

「あれ? なんか機嫌悪い?」

「ううん、全然。そういう咲夜の方が体調悪そうだよ。今日は朝からずっと、青褪あおざめた顔してる」

「え、そう……かな?」

「そうだよ。無自覚なんだね」


 確かに、無自覚だった。

 私は元々肌の色素が薄いほうなので、体調が悪いんじゃないかと疑われることが多々ある。だが、そんな事情を心得ている彼女でさえ『青褪めてる』と指摘してくるのだから、自分が思うより酷い顔をしてたんだろう。

 思えば、先日小学生を救えたことだって、偶然あの場所に居合わせたから可能だったこと。立て続けに寿命一年の人物が現れたことで、私は能力以上の目標を自分に課そうとしていたのかもしれない。根を詰めて、考えるのは止めておこう。

 途端に、スッと肩の荷が下りた気がした。


「私は英雄ヒーローでも、正義の味方でもないんだから」

「なんか言った?」

「ううん、なんでもない」


 彼女の追求を誤魔化すように笑ってみせた。

 今泉家の借金の話はデリケートな案件なので胸の内に留めておくが、昨日の親子の件は後で明日香ちゃんに伝えよう。先ずは、やれることからコツコツと──だよね。気を取り直して部室の扉に手を掛けた。


「お疲れ様で~す」

「お疲れ様です……」


 対照的なトーンで、私と明日香ちゃんの挨拶が部室の中へと届けられる。「お? 美少女コンビが来たな」と色めきたった部長の後頭部を、未来さんがはたいていた。

 まだ、今泉先輩は来ていないようだ。


「部長、美少女は片割れだけですよ」と恥ずかしいので直ぐに否定しておいた。「ところで、何か飲みますか?」

「おお、気を使わせてすまないね。──恋する乙女」


 部長から返ってきた二言目の意味を悟って、私は力なくへたり込んだ。

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