Part.7『転機②』

「あ」と驚きの声が口をついて出る。極限まで潜めた声で、隣の明日香ちゃんに話しかけた。


「明日香ちゃん、驚かないで聞いて。……寿命一年未満の人がいるの」

「え、嘘でしょ? どの人がそうなの?」


 困惑気味に、明日香ちゃんが視線を左右に走らせる。だが、彼女の戸惑いももっともな話。

 ここは横浜市の繁華街。時刻も昼下がりのため通行人も多い。連れ立って歩く学生に、下校途中の小学生。買い物に向かう主婦。仕事で外回りをしているであろうサラリーマンにオーエル。雑多な人々でごった返している平穏なこの場所に、死が目前に迫った人物がいるなんてどこの誰だって想像しない。

 かくいう私も困惑していた。見つけた寿命一年未満の人物は、とてもそうとは思えぬ容姿をしていたのだから。


「明日香ちゃん。前の方を歩いている小学生数人の列見える? その最後尾を歩いている男の子。彼が寿命一年の人物だよ」

「そんな──。だってあの子まだ小さいよ? たぶん一年生か二年生。どう見たって、来年までに死んじゃうなんて思えない」

「それについては、私だって同感。でも──残念ながら、何度見ても間違いないんだ」


 とはいえ、取り急ぎ何かが起こるとは思えない。むしろ、何も起こらない可能性の方が高いだろう。でも、なんだろう。この酷い胸騒ぎは。ここで見過ごしてはならない、と私の心が警鐘を打ち鳴らす。


「取り敢えず、近くまで行ってみよう」


 私の声を合図に二人は歩調を上げると、周囲に不審がられぬよう、極々自然を装いながら小学生の列の最後尾につく。

 そして、男の子の寿命が点滅していることに気がついた。

 通常、白色で表示されている『一』の数字は明らかに色味が失われ、至近距離じゃないと認識できない微細なレベルでこそあるが、明滅を繰り返していた。

 なんなの、これは。

 困惑が余計に深まる。寿命が点滅している状況なんて、生まれて初めて遭遇する。この数字の変化が意味していることは何? まさかと思うけど、なにか危険が迫っている?

 事件? それとも、事故かな?

 ここは、歩行者も車の交通量も多い場所。ある意味どんな出来事だって起こり得るし、逆にいうと、何が起こるのか全く予測できない。一時も気の抜けない緊張感に、手のひらも自然と汗ばんだ。


 やがて交差点に差し掛かると、横断歩道の前に男の子は立ち止まる。歩行者用の信号はまだ赤だ。ところがその直後、男の子の視線が横断歩道の先に向けられる。彼の目線を追って注意を飛ばすと、セーラー服を着た女子中学生の姿が見えた。


「お姉ちゃん!」


 男の子の叫びが上がる。そのまま周囲の人の波を突っ切るようにして、彼は姉の方へと駆け寄ろうとした。未だ赤信号のままの、横断歩道を横切るように。


「危ない!」と言う明日香ちゃんの叫びを背に受けながら、私は反射的に駆け出した。──次の瞬間周囲の音が損なわれ、奇妙なまでの静寂が私を包み込んだ。

 路上に広がる、赤黒い染み。

 動くことのない背中。

 鳴り響くサイレンの音。

 心中に陰鬱な影を落とし続けている過去のトラウマが、嫌味なほど鮮明な映像となって脳裏に去来する。


「ダメ!」


 悪夢を掻き消す勢いで叫びを上げると、時々通行人と肩がぶつかりながらも必死に手を伸ばした。男の子の腕を掴むと、そのまま渾身の力で引っ張った。

 けたたましく鳴り響くクラクションと共に、男の子の鼻先を間一髪で車が掠めていく。一方、強く手を引きすぎたことで、私と男の子は一緒に尻餅をついてしまう。

 転んだ時の痛みと乱暴な扱いに驚いたのか、泣き出してしまう男の子。「なんだなんだ」という声が上がる。「なあにこの? こんな小さい子どもを転ばせて泣かせるなんて」という非難めいた声までも。「大丈夫?」と気がかりそうに、若い女性が声をかけてきた。


 ──かごめ、かごめ。籠の中の鳥は。


 様々な視線と声が向けられる中、信号が青に変わり再び動き出した時間の中で、全ての顛末を見届けていた二人が私の顔を覗きこんでいた。一人はもちろん明日香ちゃん。もう一人は、横断歩道を渡ってきたショートカットの女子中学生。


「……すみません、弟を助けて頂いて。……ほら、アキラ。あんなことしちゃダメじゃない。ちゃんとお姉ちゃんにお礼を言って」

 と中学生は、青褪めた顔で頭を下げた。弟の頭にも手を添えると、無理やりに下げさせる。

「……ごめんなさい」

 消え入りそうな声を漏らした男の子の頭を撫でながら、私はしゃがみ込んで目線を合わせた。

「もう、あんな無茶なことしたらダメだよ」

 気づかれないよう、彼の頭上に視線を移すと、如何にも子供らしい寿命に変わってた。

 良かった、と私の口から弛緩した息が漏れた。立ち上がろうとしたその時、右の足首にズキっと痛みが走る。きっと転んだときに、捻るかなにかしてしまったのだろう。

 息を切らせて走ることになるわ、足首を捻って痛めてしまうわ、道行く人に不審な目を向けられるわで、本当に散々な目にあった。

 それでも気分は――最高だ。


 何度も頭を下げながら、遠ざかっていく二人の姉弟。見送る私の心も晴れやかだった。


「ちゃんと助けられて、良かったねぇ」


 明日香ちゃんが、満足げに両手を上げて伸びをする。


「うん。ほんとに間に合って良かった」と答えた私は、今日、二つの事実を新たに知ることとなった。


 一つ目。

 寿命の数字が明滅を繰り返し、かつ薄くなっている人物は、死期が目前まで迫っているということ。

 二つ目。

 死期が迫っているときにフラグを折ることができれば、その人物を救えるということ。


 そしてこの二つ目は、長年頭を悩まし続けてきた疎ましい能力に対する考え方を、百八十度変えてしまう重大な発見だった。

 救えるんだ、私の力で。他人の運命、変えられるんだ。


「明日香ちゃん。私、やっぱり文芸部に入って良かった」


 私が呟くと、なんだか神妙な面持ちに変わった彼女も、そうだね、と小さく笑った。


 大丈夫。きっと今泉先輩の事も救える。あの日と同じ過ちは繰り返さない。

 強くなり始めた西日に目を細め、少しずつオレンジ色が濃くなり始めた夕暮れ色の空を見上げた。

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