Part.2『自殺志願者』

 舌打ちをしながら生徒用玄関から中に入ると、素早くローファーを脱ぎ捨て鞄の中から上履きを取り出した。


 ──あれから何秒経っただろうか。


 さっき私が見たものは、屋上に設置されたフェンスから身を乗り出している、一人の男子生徒の姿。次の瞬間、いてもたってもいられなくなり駆け出していた。

 彼がフェンスを完全に乗り越えるまで何秒掛かる? 下界を見下ろし、逡巡が完全に解けて消えるまで何秒掛かる? 彼が命を絶ってしまうまで何秒──


「くそっ」


 暫し悩んだのち、脱いだ靴を来客用の下足入れに押し込んだ。後で咎められるかもしれないが、自分の下足入れを悠長に探している暇などない。今は、彼の安否を確認するのが最優先事項。

 上履きのかかとも潰したまま、新入生に配られてる小冊子をふんだくってまた走る。

 ああ、入学式早々、上級生に与える心証も最悪だ。一先ずそのことは忘れておいて、階段っと……。


「ごめんなさい」


 すれ違いざまに何度か肩がぶつかり、その度に謝罪する羽目に陥った。怪訝な目を向けられながら走ること数十秒。階段のある場所は間もなく見つかる。


「よし」


 階段を、一段飛ばしで駆け上がる。

 大抵の人は、屋上から身を乗り出す男子生徒がいても、大して気に留めないだろう。だが私は違う。だって彼の寿命──一年だったのだから。

 今、違和感を感じているのは私だけ。誰かに説明をして、協力を仰ぐ時間ですら惜しいと判断した。時間的猶予がどれだけあるのか、わからないのだから。

 走りながら胸を鋭く抉られるような重圧に心をかき乱される。どうしてこんなに息が上がるのか。どうしてこんなに胸が痛むのか。

 いや、そんなことはわかっている。今の状況は、あまりにもあの時と似すぎているから。

 思い出されるのは白いブラウスを着た女性の姿。

 アスファルトに広がっていく赤黒い染み。

 あの日私は、手を差し伸べれば救えたかもしれない命を見捨てた。

 目の前で人の命が失われてゆく瞬間を見届け、一生償うことができない罪があることを知った。

 あの時のように、けたたましく響いたサイレンの音すら聞こえてくるようで……。

 大丈夫、とうわ言のように繰り返した。死因が自殺だと分かっている今なら、きっと救える。彼を救うことが、自分なりの贖罪になると信じて。


 さて、三階までは無事到達。やはりと言うべきか、階段はここで途切れていた。次は、屋上に登るための階段を探さなくてはならない。

 だがこのご時世、屋上に通ずる道なんて解放されてるんだろうか? 非行を防ぐため。転落事故を防ぐため。様々な理由により、屋上への階段は封鎖されている事が多い。もしあの男子生徒が、一般には知りえない裏ルートで登ったとしたら……少々話は厄介だ。

 三階は、一年生の教室に割り当てられているらしく、人の姿はまったくなかった。連なる教室の前を走り抜け、廊下の最奥さいおうまで辿り着いたところで、屋上へ至る階段は見つかった。幸いにも、『立ち入り禁止』の貼り紙はされていない。


「マジで?」


 半分は呆れから、半分は安堵のため息を漏らしながら、勢いもそのままに階段を駆け上がる。

 ほんと何が悲しくて、こんな運動音痴の陰キャ少女が、入学式の朝から全力疾走 (しかも階段)せねばならんのか。

 薄暗い階段を上りきると、そこには金属製の扉があった。扉のノブに両手を掛けて、一息に……一息に…………ってなにこれ、凄く重いぃ。心中で不満をぶちまけ渾身の力で開けた瞬間、溢れ出てくる光に目が眩んだ。


 太陽を遮るもののない屋上。しかし、寒さは未だ朝の空気の中にひそんでおり、じっとしているだけで鳥肌がたってくる。空を仰げばあまりにも青く、喉元まででかかっていた愚痴が吸い上げられた。はたしてその空間に彼は居た。ただし状況は先程より悪化していて、屋上を囲む鉄製の金網フェンスの向こう側に、胡坐あぐらをかいて座ってた。

 冗談でしょ。だいたいフェンスが低すぎなんです。悪態をつきながら一息ひといきに距離を縮めると、喉元でつかえそうになる言葉を懸命に絞り出した。


「あ、あの、はやまっちゃ、ダメです!」


 ビクっと背を震わせた後、彼がゆっくりとした動作で振り返る。


 襟足が少し外跳ねした長めの頭髪。アーモンド型の瞳と長い睫毛まつげが印象的だ。整った目鼻立ちは何処か中性的で、一瞬女性かと見紛うほどだ。

 いやいや、見惚れている場合じゃない。彼の頭上に目を移して、寿命が一年であることを確認した。間違いない。この人は今、死のうとしてる。


「は、早くこっちに戻ってください!」


 先ずは、飛び降りる事を阻止しなければならない。羞恥で顔が真っ赤だろうな、と自覚しながら彼にそう促した。


「あんた、誰?」


 しかし彼、のんびりとした声を上げ、座ったまま首だけをこちらに向けた。


「私ですか? 私は……」


 質問で返されたことで、軽く狼狽うろたえてしまう。そもそも、なんて答えるべきなのこの場面?


「ええと、今日からこの学校に通うことになった、一年生です」

「へえ、そうなんだ。宜しくね」

「あ、はい、こちらこそ……じゃなくて! 私の話、聞いてましたか?」


 危うく関係ない話で流されるところだった。


「何があったのかは知りませんが、それでも、態々わざわざ今日という日を選ぶなんて悪趣味です」

「いや、なんで? 別にいつだっていいでしょ? 俺は、今やり遂げたいって決めてたんだから」


 興奮気味に彼は立ち上がった。こちらに向いた瞳にも、警戒の色が混じり合う。少々刺激し過ぎただろうかと、後悔が頭をよぎった。このまま後ろにダイブでもされたら、洒落にならない。


「確かに人の目を引くでしょう。みんなが同情してくれるでしょう。でも……死んだら終わりじゃないですか? もう一度考え直しましょうよ? 私で良ければ……相談に乗りますよ?」


 過度に刺激しないようにと慎重に言葉を選んだ。意図的に語尾を弱めながら。


「ん?」


 ところが彼、話が噛み合わない、という顔をして首を傾げると、視線を斜め上に逸らした。私も釣られて、その視線の先を目で追った。朝の太陽が、眩しい。


「もしかして君は、俺のことを自殺志願者かなんかだとでも思っているの?」

「は? あれ……違うんですか?」


 どういう事? 疑問に感じて彼の寿命に再び目を向けるが──なんど確認しようと一年だ。


「全然違うって」さも滑稽だ、とでも言いたげに、彼は大声で笑い始める。「俺、別に死のうとなんかしてない」

「じゃあ、どうしてフェンスから身を乗り出していたんですか? 紛らわしいことしないでください」


 寿命のことは流石に言えない。遠まわしに尋ねると、彼はキョトンとした顔をする。


「ああ、この場所は電波がいいからね」と言って彼は、手に持ってたスマホを左右に振って見せる。「ん~……。いい加減に機種変した方がいいのかな? 通信が遅いのは電波のせいだよな?」

「通信?」


 首を傾げた私の疑問を他所に、見晴らしいいんだぞこの場所、君も来る? と彼は歯を見せて笑った。


「見晴らしって……」

「今日は天気もいいからさ、ほら、ちょっとばかり遠いけど、富士山だって見えるんだぜ」


 彼が指さした先に見えるのは、頂きにうっすら雪化粧をした霊峰富士の姿。


「本当だ。凄い……」


 フェンスの上に手を掛け、興奮気味に身を乗り出したその時、予鈴の音が鳴り響いた。


「あ、ヤバい。入学式始まっちゃうぞ?」彼の声で、ようやく現実に引き戻された。「え、うわあ!?」



 これが──他人ひとの寿命が見える私と、来年までに死ぬ彼との、最初の出会いだった。

 だが、勘違いだったとここで安堵してはならない。来年の今頃、彼はこの世界に──いないのだから。

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