第5話 猫のマグカップ

昨日ぐっすり眠れたおかげで目覚めが良い。


車を実家から取り寄せていたので、今日から車で通勤できる。


昨日の満員電車を思うとうんざりするが、山本は毎日あれに乗って通勤しているかと思うと、やはり根性がある奴だなと思った。


昨日、朝早くに山本は会社に来ていたがあれはたまたまなのか、それとも朝早くから来る奴なのかと思いを巡らせる。


ふと、昨日山本が言っていた言葉が脳裏によぎった。


みんなマグカップを会社に持ってきているから、持ってこいと言っていたな。


いそいそと起きるとアメリカから送っておいた段ボールを開けて、マグカップを探した。


アメリカの雑貨屋で目に留まって買った、青色の猫のマグカップだ。


持ち手が猫のしっぽになっていて、中々お洒落なデザインだと思っている。


ただ、家で使う分には自分の好みで誰にも文句は言われないが、これを会社に持って行くのはちょっと可愛すぎるかな。


そう思うと他にまともなマグカップがないかごそごそとさがしてみるものの、他にまともなマグカップは見つからない。


誰も俺のマグカップになんか興味ないか、と思い青色の猫のマグカップを鞄に入れた。


今日は山本は朝来るかな、昨日あれだけ怒ったから普通だったら来ないよな。


昨日淹れてくれたコーヒーは中々で朝からいい気分で仕事に入れたから、今朝も来てくれればいいが。


そしてふと、俺は朝から何で山本のことばかり考えているんだ、とまた頭が痛くなってきた。


一度、思考をシャットダウンし黙々と会社に行く用意をする。


香に怒られないよう、朝ごはんを早めに食べきちんと片付けをして家を出る。


会社に着き企画部に向かう。


山本がいるかソワソワしている自分がいる。


企画部のフロアに着いたが、ひっそりとしていて人気が無かった。


山本がいない事実にがっくりきている自分がいた。


鞄から猫のマグカップをそっと取り出し、給湯室へ向かう。


食器棚にマグカップを置くと、自分の席に向かった。


そりゃ、あれだけ怒ったら来ないよな、俺と二人っきりなんて気まずいよな。


地味に傷ついている自分は分かっていたが、この気持ちがどういう感情なのか認めたくなくてパソコンを広げメールチェックを始める。


しばらくメールを確認していると、エレベータが着く音がして人が下りてくる気配がした。


期待を胸にばっと顔を上げると、朝から待ち望んでいた奴がこちらに歩いてくる。


「おはようございます。」と山本は俺に声をかけると


続けて「コーヒーいりますか。」と聞いてくれた。


俺は待ってましたと言わんばかりに


「おはよう、昨日あれだけ怒ったから、今朝は来ないかと思った。助言通り、マグカップを持ってきた。猫がついた青色のマグカップが俺のだ。コーヒーよろしく。」


自然と頬が緩んでくるのを見られたくなくて、すぐにパソコンに目を目を戻した。


まさか、来るとは思っていなかったので、驚きと喜びで自分を上手くコントロールできる自信がなかった。


コーヒーを淹れ終えた山本が


「コーヒーどうぞ。」と猫のマグカップを渡してくれた。


パソコンを見ながら「ありがとう。」と言ってマグカップを受け取ろうと思ったとき、視線の端にマグカップを持つ白くて細い手見えた。


衝動的にマグカップを受け取る時一瞬手に触れてしまった。


しまったと思うとすぐパソコンに視線を戻し、何事もなかったかのように振舞った。


内心は何をやっているんだ俺は変態か、と心臓はバクバクしている。


変に思われていないか気になって一瞬顔を上げると、頬を赤く染めた山本が視界に入る。


想定外の表情をしていてこちらが驚いてしまい、また慌ててパソコンに視線を戻す。


そして、山本が自分の席に向かう気配を感じると、体中の力が抜けるのを感じた。


朝から俺は何をやっているんだ。


昨日寛太から変なことを言われて意識してしまっているだけだ、冷静にならないとと自分に言い聞かせる。


ただ、やはり朝二人で共有する時間は俺にとって特別心地良い時間だということには間違いなかった。


そんな時間も時が経てば続々と出勤してくるので終わり、毎朝繰り広げられる山本と高岡のじゃれ合いを目の前にしてイライラしている。


早く始業のチャイムが鳴れと念じながら、横目で二人を見ている自分にうんざりした。


今日も朝から目を通していた資料について、担当者を呼んで資料を完成させていく。


昨日に比べみんなが委縮している感じがない。


慣れるのも早いし、飲み込みも早い。


修正を指摘する内容もレベルが上がってきており、指摘する回数も少なくなってきている。


こんな毎日がしばらく続いた。


朝コーヒーを貰うとき衝動的に手を触れた以外は意図的に触れることはなかったが、たまたま手が触れる瞬間は何回かあった。


その度俺の心臓は山本に音が聞こえてしまっていないか心配になるほど、早鐘をうっていた。


しばらくの期間、朝の心地良い時間と高岡とのイライラタイム、みんなを指導するという感情の波が激しく、俺も精神的に少し疲れていた。


今日また寛太の喫茶店に寄って帰ろうかとぼんやり思っていると、終業のチャイムがなり高岡が山本の近くに寄っていくのが目に入った。


そして山本に「唯、今日はこの辺にしてパーッと飲みに行こうぜ。」と話しかけ、山本も「そうだね、キリがついてるから今日は飲みに行こう。」と急いで準備をしている。


会社で堂々といちゃこらするなんて、どういうつもりなんだとイライラしてくる。


そういう意味も込めて山本を睨んでやった。


俺の視線に気づいたのか、「お疲れ様でした。」と控えめな声で言うと、高岡の後を嬉しそうに追いかけてフロアを出て行ってしまった。


猛烈にイライラした。


この感情の正体は自分でも分かっている。


というか前々から気付いていたが、気付かないふりをしていただけだ。


俺はどうやら山本のことが好きなようだ。


認めてしまうと案外気持ちが楽になった。


このままでは仕事にならなさそうだったので、後少し残っている仕事を片付けるために休憩室へ向かった。


休憩室に入ると偶然にも香がいた。


同じ家にいるが、しゃべることがほとんど無かったので、この際だからと香に


「毎朝、飯ありがとう。家も見つかったから、あと少しで出ていくわ。」と告げる。


「分かったわ。なんか最近お疲れのようだけど、大丈夫?」


「肉体的疲労より精神的疲労がひどくてな。今日寛太のところ寄って帰るから。」と告げると休憩室を出る。


休憩室に数人人がいて、明らかに俺たちの会話を聞かれていた気がする。


変な勘違いされてないといいが、と思いながら企画部に戻り仕事を終わらせた。


帰り道、寛太の喫茶店に寄った。


店に入るなり「オムライスね。」と言ってカウンターに座った。


寛太が俺の顔を見るなり「ひどい顔してるな。なんかあったか。」と心配そうに言いながら水を出してくれている。


出してもらった水を一気に飲むと、俺は意を決して聞いてみた。


「俺の部下から相談うけているんだが、毎朝みんが来る前に二人きりでいい雰囲気で時間を過ごしている女がいて、時々手が触れることがあって恥ずかしそうに顔をが赤くなるんだよ。その女には同期でめちゃくちゃ仲が良い男がいるんだよ。今日も二人で飲みに行っている。これってどう思う?」


寛太はオムライスを作りながら、ニヤニヤしながら俺の話を聞いている。


「お前の部下の話?お前の話じゃなくて?」とからかいを含んだ声で寛太が聞いてくる。


「俺の話じゃなくて、俺の部下の話だよ。勘違いするな。」と俺は慌てて言ったが、そもそも無理があったかなと恥ずかしくなってきた。


寛太は急に真面目な顔になり、


「俺に聞くな。俺はその女じゃない。今の話を聞くと、朝の男か、同期のどちらかが好きだ。ただ、二人で飲みに行くってことは、そっちのが親密な関係かな。朝の男は二人で食事すらしたことないんだろ。」


寛太の言葉にはっとした。


確かに毎朝20分程一緒に過ごしているが、ただ話すわけでもなく黙々と仕事をしているだけだ。


まともに山本と話したことがないし、山本のこと何も知らないじゃないか。


俺は何をやっているんだ、しかも何をいい気になって勘違いしているんだ。


段々、事実を把握してくると今までの俺の志向と行動が恥ずかしくなってきた。


寛太が熱々のオムライスを俺の目の前に置き


「頑張れ青年よ。遅く訪れた初恋だな。」


とだけ言って、他の客の相手をしに行った。


寛太に部下の話とか言ったが最初から俺の話だって、そりゃ分かるよな。


明日からは、まず山本を知ることから始めようと心に決めた。

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