第40話 矢野すみれ、襲来3

40話 矢野すみれ、襲来3



 ピンポーン。


 部屋中に、インターホンの音が響く。予定より一時間ほど早い突然の来訪に、幽霊は身体をビクつかせていた。


「すまないな、太一。仕事が思っていたよりも早く片付いた」


「あのなぁ。そういう時は連絡してから来るもんじゃないのか?」


「初めはそのつもりだったのだがな。……何も言わずに行った方が、面白いかと思った」


「相変わらず、変わってないな」


 面白い。それはすみれが一方的に、早く家に行けば準備のできていない弟の家で面白いものを見れるのではないかと思ったということだ。


 そして、その読みは当たっていた。


 太一の部屋なんかの準備はとうの昔に終わっていたのだが、一番大事な幽霊の準備がまだ整っていなかったのである。もう少ししたら着替えよう、なんて思っていたところにすみれが来たものだから、依然幽霊はくまっ子スタイルのままだ。


「む、むむむ? はっ!!」


「い、いらっしゃいませ太一さんのお姉さん! こ、こんな格好ですみません! すぐに着替えて────ひあぁっ!?」


「おい、姉ちゃん!?」


 刹那。太一の横を、茶色い髪が靡いて通り過ぎる。


 靴をぽいっ、と雑に脱いで駆けていったその女はやがて、数秒のダッシュの末にくまっ子に抱きついていた。


「なんだ、なんだこの生き物は!? もふもふじゃないか!!」


「あ、わっ!? ふにゃ……ぁっ!」


「もふもふもふもふ!!」


 冷血硬派な堅物。そんな彼女だが、昔から一つだけ目がないものがあった。


 そう、「可愛いもの」である。買い物に出かけた時やゲームセンターに行った時。平静を装いながらもぬいぐるみやマスコットなんかに目を光らせていたのは、太一の記憶にも新しい。


 そんな可愛い物好きな彼女にとってくまっ子幽霊は、今すぐお持ち帰りしたいほどに魅力的だったのである。


「姉ちゃんやめろって! 何してんだ!」


「うるさいぞ弟よ! 今日は予定変更だ!! 私はこの子を連れてビジネスホテルに泊まる!! そして一晩中、もふもふを堪能するのだ!!!」


「変な暴走の仕方してんじゃねぇ! その人は……その人をもふもふしていいのは、俺だけだぁぁ!!!」


 幽霊は思った。ああ、この二人、本当に姉弟なんだなぁ、と。そして、血は争えないんだな、と。


「あぁ、可愛い。こんな可愛い子が実在していたなんて……。生きていてよかった!」


 頭、背中。太一がした時と同じように、すみれは全力で幽霊を抱きしめながらもふる。


 だがこの二人においては、初対面だ。本来であれば幽霊は嫌がり、すみれをつっぱねてもおかしくはない。それだというのに……


(う、うぅ。いい匂い……太一さんのお姉さん、しゅごぃ……)


 包み込むような母性本能全開の抱擁に、太一と同じような手つき。加えてほんのりと甘い、男の匂いとは本質的に違う女性の香りに、幽霊は見事に堕ちかけていた。


 初めは抵抗しようと手で身体を押し返していたが、次第にその力は弱まっていく。顔を胸元の柔らかな双丘に埋められるともはや身体は脱力状態に入り、されるがままの状況に身体を委ねる。


「ふふっ、顔を赤くして可愛いな。よしよし……お姉さんに全てを預けていいんだぞ……」


「や、やめて、くだひゃぃ」


「大丈夫だ。大丈夫。身体の力を抜いて、リラックスだ」


「あ、あぅ……」


 とろん、と目が惚け始め、本能的にこの人には勝てないと察知した身体は、ゆっくり、ゆっくりとすみれの身体に沈み込んでいく。だがそれを、太一が黙って見ているはずがなかった。


「いい加減に、しろぉ!!」


 トドメの一撃と言わんばかりに幽霊の頭にそっとくま耳フードが被せられそうになったその時。太一はすみれの両腕が幽霊の背中から離れた瞬間を狙って、二人を強引に引き剥がした。


「う、ぁ……はっ! 私は何を!?」


「太一、貴様ッ。あと少しでその子を私のものにできたというのに! 邪魔をするなっ!!」


「何とんでもないこと口走ってんだお前は! こ、この人は俺の……大切な、彼女さんなんだぞ!!」


「…………何?」


 正気に戻り、さささっと太一の背後に避難する幽霊を追いかけようとしたすみれを止めながらそう叫んだ太一に、空気が固まる。


 言った者と言われた者は羞恥心で顔を赤く染め、そして聞かされた者はそっと手を引く。そして二人には聞こえないほどの小声で、呟いた。


「つまり、二人が結婚すれば……この子は、私の妹に……?」




 不敵な笑み。すみれの顔に浮かんだそれは、自分のやるべきことを瞬時に理解し、実行した先のビジョンを脳内で再生した証であった。

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