第38話 矢野すみれ、襲来1

38話 矢野すみれ、襲来1



「ったく、酷い目にあった……」


 なんとか難を逃れ、まだ一人講義を受けなければならない親友を学校に置いて、太一は帰路に着く。


 幽霊にアイスでも買って帰ってあげようと、コンビニに入り、ついでに無くなっていた文房具の補充などもしてからお会計をし、ビニール袋片手に店を出た、その時だった。


「ん? 電話?」


 ズボンのポケットの中で、スマホが振動する。短い一度きりの振動であればトークアプリやゲームの通知だろうが、それは継続的。ズボン越しに太ももを揺らされ、太一は空いている右手でスマホを取り出した。


────そして画面に表示された名前を見て、全身から血の気が引いていく。


「……もしもし」


「お、やっと出たか。久しぶりだな、太一」


 硬派な喋り方と、少し低めの声質。太一が幼少期から、親の声と同じくらい聞いてきた声だ。


「どうしたんだよ────姉ちゃん」


 矢野すみれ。太一の姉に当たる人物である。年齢は五つほど上で、既に社会人。今は実家からさほど遠くない会社に勤めており、立派に一人暮らしをしている。


「いや、な。実は今ちょうど仕事の用事で太一の大学があるところの近くにいるんだ。そのついでと言ってはなんだが……お母さんに、様子を見てきてくれと言われてな。今日はお前の家に泊めてもらおうと思ってる」


「は!? 聞いてないぞそんなの!!」


「当たり前だろ。さっき決まったんだから」


 すみれはこういう女なのである。いつも色んなことを勝手にすぐ決める上に、弟に対して一切の遠慮がない。


 しかも────


「あと、お前への仕送りがこの先無事に行われるかどうかは私にかかってる」


「……まじか」


「マジだ」


 こういった脅しも、容赦なく使ってくる。


 仕送りが止まれば、たちまち一人暮らし生活は崩壊する。実家に戻ることになったしまえば、幽霊との同居ライフも終了だ。それだけは、絶対に阻止しなければならない。


「まあ安心しろ。お前の元気な顔を見て帰るだけの話だ。どうせ一人暮らしなんだし、問題はないだろ?」


「おい、なんでその感じで俺の家に泊まることになるんだよ。元気に過ごしてるところだけ見て帰るじゃダメなのか?」


「……ホテル代が、浮く」


「ゴリゴリの私情じゃねぇか」


 はっきり言って準備なんかも面倒くさいしさっさと断って電話を切りたいところなのだが、仕送りの脅しのせいでそうもいかない。


「そう邪険にしないでくれ。この間京都に行った時のお土産の八つ橋も持っていくから。あと、どうせ散らかってるだろうから掃除なんかも手伝うぞ?」


「いらないっての。八つ橋はまだ欲しいけど、姉ちゃんの掃除はマジでいらない」


「贅沢な弟だな。こんな美人な姉が泊まりに来てくれるシチュなんて、滅多にないぞ?」


「自分で美人とか言うな」


 口ではそう返してみるものの、本当に美人だから厄介だと太一はため息を吐いた。


 長く綺麗な生まれつきの茶髪とその整った容姿から、すみれはよくモテていた。芸能人顔負けなそのルックスに惚れて告白した男の数は二十を超えている。


 だが、変わり者で堅物なすみれはそのうちの一人とも付き合うことはなく、五つ下の太一と家で過ごしていることがほとんど。


 実は太一がこれまで女子と付き合うことがなかったのは誰のことも本気で好きになれなかったからなのだが、の直接的な原因がこのすみれの存在だったりする。身近に芸能人レベルの美人がいたせいで価値基準がズレてしまったのだ。まあ、ズラした張本人のことを好きになることは、無かったのだが。


 嫌い、とまでは言わないが、何を考えているのか分からないことが多すぎて少し苦手なのである。


「はぁ……まあいいわ。それで何時くらいに来るんだよ?」


「夕方には仕事が片付くから、夜の七時くらいに向かうつもりだ」


「分かった。それまでに準備しておく」


 どうせこのまま何を言っても来る雰囲気だったので、太一は諦めてそう告げて電話を切った。


 準備。家は片付けてもらっているから、問題は幽霊をどうするかだ。一晩隠し通すのか……もしくは、紹介するのか。


「面倒なことになったな、ほんと」




 野外での長話ですっかり溶けてしまったであろうカップアイスで濡れているビニール袋に視線を落とし、それはそれは大きなため息を吐きながら。太一はどうしたものかと頭を悩ませて重い足取りでアパートへと戻るのだった。

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