第30話 お引っ越し

30話 お引っ越し



 すんなりと降参し、幽霊が太一を案内した場所。それはリビングから別の部屋へと進む途中にある廊下の、押し入れの前であった。


 木製の扉を横にスライドさせてそこを開けると、二段式になっている押し入れのうち下の部分が、彼女のテリトリーとして綺麗にリフォームされていた。


 荷物は全て上の部分にまとめて丁寧に仕舞われ、その代わりに下には来客用の布団を丁寧に広げ、枕が二つ。頭の下に敷く用と抱きしめる用だろうか。


「最近、こんな形にしたんです。太一さんに私の存在が知られる前は、畳まれた布団の中に籠って寝ていました」


「そ、そうだったんですか。どうりで気づかないわけだ……」


 たしかに今のここは、明らかに誰かが暮らしている形跡を残している。彼女の事を知っていない頃に押し入れを開けてこんなことになっていたら、一種のホラーだ。


 だが、今は最悪バレてもそうなることは無い。というわけでこうして、堂々と押し入れの中を使って寝ているのである。


(なんか、ド◯えもんみたいだな……)


 かの国民的青狸もこんな感じで寝泊まりしていたなぁ、なんて事を考えていると、幽霊はさっさとその場でしゃがみ、中へ入ろうとする。


 それを見て太一は、すぐに彼女を止めた。


「幽霊さん、ちょっと待ってください」


「なんですか? 言っておきますが太一さんは入れてあげませんよ」


「そ、そんな事しませんから! そんなことよりも、本当にそこで寝るんですか!?」


「……? 何か問題でも?」


 キョトンとした顔で太一を見つめる幽霊。彼女にはこの押し入れで寝泊まりを続けるということの恐ろしさが、理解できていないようだった。


 当然、太一は気づいている。あの青狸は快適そうに過ごしていたが、少なくともこの押し入れではそれは不可能なのだ。


「幽霊さん。今はいいです。でもこの先、そこで暑い夏を乗り切れるとでも?」


「え……?」


 何故なら、この押し入れのある場所は冷房や暖房の効く部屋の中ではなく、廊下だからである。


 暑い夏、寒い冬。リビングで寝ている太一はどうとでも快適に過ごす方ができるが、廊下ではそうはいかない。ここにはそう言った空調機器の恩恵が一切無いのだ。


 今は六月末。そろそろ暑さも本格化し出し、クーラーなしでは過ごせない日々が訪れる。外と床一本で繋がっているこの廊下は、さぞかし暑くなる事だろう。


「悪い事は言いません。引っ越しましょう? リビングなら、快適な夜を過ごせますよ」


「か、快適な……夜!?」


 幽霊は、身を持って知っている。


 押し入れで過ごす、地獄の猛暑の夜を。指先が凍りそうになる、真冬の極寒の夜を。


 太一がここに引っ越してくる前、彼女の存在を知らない住人がいた頃。荷物の関係上からこの押し入れではなく使われていない部屋の押し入れの中であったが、幽霊はその二つの地獄を体験していた。


 部屋の押し入れでも、空調が効いていないというだけで地獄を見ることになる。それがもし、廊下に面したここであったら? 想像するだけで、身体が震えた。


 リビングで寝れば、空調の恩恵を受けて幸せな睡眠時間を手に入れられる。この引っ越しは、メリットしかない。


 はず、だったのだが────


(た、太一さんと同じ部屋で……寝る!?)


 寝顔を見られるという恥ずかしさと、謎の、緊張にも似た感情が彼女の即答を止めた。


 それは、幽霊歴一年未満の若々しい乙女心ゆえのこと。数時間前のキスの件もあってか、ただ同じ部屋で寝るだけだというのにどこか心に引っかかるものがある。


(ど、どうしよう……)


「幽霊さん? リビングにはクーラーも扇風機もありますよ? 脚を好きに伸ばすこともできますし、寝返りだって打ち放題です。さぁ、行きましょう?」


「う、うぁ……ぁうぅ……」


 簡単に。あまりに簡単に、幽霊の中にあった抵抗の感情の類は、消えていった。それほどにこれは魅力的な提案で、手放すことなどできないものだったのである。


「さようなら……私の押し入れ……」


 こうして、幽霊は狭い寝床に別れを告げた。





 数時間後、寝顔を撮られるなんてちんけなものではない、もっと恥ずかしい思いをすることになるなんて……知りもせずに。

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