第11話 落ち着く匂い
11話 落ち着く匂い
「じゃあ、いってらっしゃい。サボっちゃダメですからね」
「うぅ、はい……」
寂しげに丸くなった背中を見送り、幽霊は閉まった扉に音を立てないよう鍵をかける。
部屋に一人。時計の針が動く音だけが響く、それだけの空間。さっきまで太一と仲良く話していた分、いつも通りのその光景は余計に静かに映った。
「……もう。私がこんなんじゃ、ダメだよ」
まだ太一が家を出てほんの少ししか時間は経っていないというのに、幽霊の心の中を支配した感情は圧倒的な孤独感と、寂しさ。
太一を諭し、サボらないよう念まで押して送り出したのは自分。しかし心の中でどこか、思ってしまっていた。
『ずっと家にいてほしい』
と。
たまに変なことを口走ったりする事もあるけど、それでもやっぱり太一と話をするのは楽しい。これまでの一人ぼっちだった生活の影響もあってか、幽霊の中での太一の存在は、とても大きなものだったのだ。
でもその事は、伝えられない。伝えてしまえば太一は幽霊につきっきりになり、きっと他のことを疎かにしてしまうから。太一がそれを迷惑だなんて思っていない事は分かっていても、彼女自身がそれを許せない。
「朝と夜はいてくれるし、休日だってお話はいっぱいできるもんね。……よし! 太一さんが帰ってくるまで家事でもしておこう!」
ならばせめて、太一に負担をかけないように。自分にできる手伝いをして、喜ばせよう。そう思いたった幽霊の第一の家事は、掃除である。
一人暮らしの大学生。当然、そんな男の部屋が綺麗なはずもない。それは太一も例外ではなく、汚部屋とまではいかないものの、服が少し散らかっていたりゲームが仕舞われていなかったりと、胸を張って綺麗だと言える部屋をしてはいなかった。
「えっと、まずは服から……」
幽霊に一番最初に目に入ったのは、脱衣所に脱ぎ散らかされた裏返しの服。それは昨日、太一が風呂に入る際に脱いだものだ。
勿論洗濯機はあるのだが、毎日使った服をきちんと洗うほどに太一はしっかり者ではない。数日分をまとめて不定期に洗濯機にぶち込むため、それまでの期間は服が散乱しているのである。
「……」
靴下、パンツ、羽織るタイプの薄い上着……そして、肌着であるTシャツ。裏返っているそれら全てを元に戻し、その場に畳んでいく。
何もおかしな点の無い、普通の光景。しかしそれは数秒後、幽霊の奇行によって崩れる。
「……すんっ」
誰もいるはずがないのにキョロキョロと周りを確認して、小さく深呼吸してから。彼女は太一のTシャツを、そっと顔に近づけた。
「すんすんっ。ん、太一さんの、匂い……」
そう、匂いを嗅いだのである。それは寂しさゆえか、それとも幽霊の中の隠されていた癖か。一度嗅ぎ始めると止まらず、やがて顔をTシャツに思いっきり埋めると、ゆっくりとした呼吸を繰り返し、匂いを堪能した。
(なんかこの匂い……落ち着く。嗅ぐの、やめられない……)
いい匂いなわけでも、かといって臭いわけでもない。何の匂い、と例えることのできない、その人独自の匂い。言い換えるならば太一の匂いを、幽霊は知らぬうちに好きになっていたのだ。
まるで実家のように心が安らぎ、それでいてほんの少し男らしい。そんな、太一の匂いを。
「もう少し……もう少しだけ……」
気づけば、顔を離せないでいた。この後彼女が正気に戻り、赤面しながらTシャツを洗濯機に放り込むのはまだ一時間も先の話である。
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