沈黙、そして(2)

 サレがラシウ[・ホランク]を置いて、近北公[ハエルヌン・スラザーラ]の執務室に戻ると、公の側近があわただしく扉を開き、中へ入って来た。

 「騒々しいぞ」と酒を飲んでいた近北公にいっかつされた側近は、着衣の乱れを正すと、公に近づき、青ざめた顔で「良い知らせと、悪い知らせがあります」と告げた。

 それに対して公は「良い知らせをゆっくりと話せ」と応じると、円卓に坐って酒に付き合うように、サレへ手振りで示した。

「かねてから約定にありましたとおり、しゅうさかいに待機しておりました、近西きんせいしゅうぐんの騎兵千が、西管区のウブランテサに入った模様。ちょうどよく巡回されていたとのことで、指揮は西にしばんちょうどの[ロアナルデ・バアニ]がちょくせつられているとのことです」

 側近の言にりょうさいどの[ウベラ・ガスムン]が地図上の駒を動かしつつ、「それは朗報だ。西せい[オリーニェ・ウブレイヤ]と近西州の兵が固めれば、糧秣庫のウブランテサはこちらのものだ。いくさが長引けば、ポウラ[・サウゾ]を兵糧攻めにできる。いまの状況では、スグレサを押さえていることよりも価値がある」

「なお、万騎長、いえ、ポウラから近西州に対して使者が送られていたそうですが、その首はすでにねたとのことです」

 報告に近北公は「ロアナルデもケイカ[・ノテ]をしゅうぎょ使にするために必死だな」と興奮気味に言ったのち、「それで、悪い報告とは何なのだ。手短に話せ」と口にした。

 しばらくの沈黙の後、側近が「ふたつあります」と告げたので、公は「ふたつもあるのか」と激高し、両宰どのが不安そうに地図から顔を上げた。

 「マルトレこう[テモ・ムイレ=レセ]、ごほん」と側近が告げたとき、部屋の中でいちばん驚いたのはサレであった。

 「それでは帰れないではないですか」とサレがつい口に出すと、「私を見捨てて逃げ出すつもりだったのか」と近北公が怒鳴った。

 おそらく、マルトレの弱兵は広く七州に知られていたし、テモとは不仲であったので、成敗する良い機会を得たぐらいに近北公はとらえたのだろう。近北公の心にはまだ余裕があった、次の一言を聞くまでは。

「合わせて、ほくどの[クルロサ・ルイセ] ……、ご謀反の様子」

 その一言を聞いた瞬間、近北公は手にしていた杯を床に打ちつけ、「北左が私を裏切っただと。ばかな。うそに決まっている。私は信じない。ぎつねのほうではないのか」

 あるじの剣幕に身を小さくしながらも、側近は役目を果たした。

「ルオノーレ・ホアビアーヌどのは、ポウラ派と呼応したえんほくしゅうの軍勢と対峙するため、巨人の口[サルテン要塞]にこもったご様子」


 サレのような第三者から見れば、北左どのがポウラ派におどされるなりして裏切ることは想定できたように思えたが、両宰どのまでが、北管区の詳細な地図を探して、取り乱す様をみると、ある意味、北左どのはその勇気のなさを信頼されていたように見受けられた。

「これではない。もういい、自分で探す」

 両宰どのが声を荒げるのをはじめて聞いたサレは、もしや、これは負けるのかと思いはじめ、どうにかこうにか、この場から逃げ出すすべはないかと再度考えはじめた。

 近北公は公で、椅子に深々と座り、両宰どのの様子を無表情で見つめながら、つまらぬことを口走りはじめた。

「私は二度、自ら死を選んだことがある。一度目は首つり、二度目は毒薬を飲んだが、老人[モルシア・サネ]が薬をすり替えていて生き延びた。私は、いつの間にか、この七州にとって不要な、いや邪悪な存在になっていたのかもしれない。そんなに、この首が欲しいのならば、ルウラ、いやポウラにくれてやってもいいのだが。私はもう、生まれて来てしたいことは為し遂げた。とっくの昔に未練はない。余生を安楽に過ごしたいから、いくさを起こしていただけだ。今まで生き残って来たが、死ぬのによい機会が訪れたのかもしれない。死ぬには機会というものが必要だ……。おまえに首を斬ってもらうか。ずいぶんと痛いのだろうな。二度失敗しているが、三度目の正直だ」

 「ハエルヌンの病気」と、たびたび両宰どのが書状などで述べていた症状が、近北公に出たようだったが、サレもサレで自分が生き残る方法を考えるのに忙しかったので、つい、「お望みならば」と口にしてしまった。

 「せんちょう、おまえは死のうと思ったことは」と、近北公が酒杯を渡して来たので、「過日、公がセカヴァンで負けた時には……」と正直に話したところ、「それはわるかったな」と公が頭を下げた。

「州に安寧あんねいをもたらすために働いて来たつもりが、ここで州をふたつに分けての内乱とはな……。家臣たちはともかく、民百姓には不要な迷惑はかけたくない」

 なぜ、自分がこのような役回りをしなければならないのかよくわからないうちに、忙しそうな近北公の側近たちに代わって、サレは公をはげました。

「万騎長もその配下も、いくさびととしては優れていても、統治者としてはどうなのでしょうか。オアンデルスン・ゴレアーナにもそのきらいがあったようですが、いくさに強いだけの者が支配者となれば、彼らの考えるところの細かい話などというものは、どうにでもなると考えるのではありませんか。しかし、その細かい話が民草の暮らしの根幹こんかんであり、それが分かる者がせいしゃでなければ、下々しもじもの者はたまりません……。まあ、どうなされるかは、公がお決めになることですから、わたくしとしてはこれ以上何も言えませんが」

 近北公とサレが愚にもつかないことを話し合っていると、両宰どのが公の杯を奪い、一度に飲み干した。

「穀倉地帯を押さえるマルトレ候と多数の兵をもつ北左が敵に回ったとすれば、兵の質がいくら低いと言っても、こちらに勝ち目は薄い。……私の首で済むのならば、ポウラのもとへ持って行くか?」

 そのように両宰どのが弱音を吐いたので、こちらについては、サレは強く反対した。

「何も死ぬ必要はない。きみは近西州に逃げ込めばいい。きみは七州に必要な人材だ。死んではいけない」

 語調強く口にするサレに対して、「それなれば、私も一緒に逃げるべきかな?」と近北公が言って来たので、サレは「公は、いまさら人の家の軒先のきさきを借りたり、人の下についたりすることができるのですか。できないでしょう?」と事実を述べた。

 すると、近北公は大きくため息をついてから、「クルロサにテモ。やはり、おろかな身内がいちばん怖い」と吐き捨てた。

 それに対して、両宰どのが怒りをあらわにして、「おまえのそういう物言い、考え方が、今回の問題のほったんであることをよくよく考えろ」とえた。

 慣れない大声でのどいためたようの両宰どのに対して、近北公がふて腐れたのか無言になった。

 それをよい機会と捉えたサレが、「とにかく、北州公[ロナーテ・ハアリウ]と、近北公の二人のお子に、身重のラシウをスグレサに置いておくのはよくありません。このわたくしがウブランテサに連れて行きましょう」と言ったところで、近北公の家臣たちが一度に立ち上がった。

 サレが何事かと執務室の入り口を見ると、北州公が立っていた。

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