どれほどの土地が人にはいるのか(3)
ホアラにて、サレが自らの性分にあった仕事をしている間、北の方からは不穏な話が次々とサレの耳へ入って来ていたが(※1)、基本的に、彼は我関せずで通した。
生涯を通じて、サレにはお気楽なところがあり、何度も痛い目に合っているのにもかかわず、この場合も希望的な観測に基づき、自分に
しかし、サレが平穏な日々を送っている最中に、
※1 北の方からは不穏な話が次々とサレの耳へ入って来ていたが
新暦九〇六年十月、近北州にて、
よって、読者の便宜を考えて、以下に、ハアルクン(ポウラ)の乱にサレが関与するまでの過程を書き記す(すでに知っている者は読み飛ばすように)。
そもそもの事の発端は、ハエルヌンとハアルクンの性格の不一致、ハエルヌンの日頃の言動にあっただろうが、新暦九〇四年一月に行われた、ハエルヌンからハアルクンへの権限の委譲で事が
それまで、近北州の領地のほとんどは、名目上、ハエルヌン個人の所有であり、
それを、七州における権威権力を確立したハエルヌンは時期が来たと考えたのか、近北州東管区をハアルクンに与えた。
自分の隠居を
しかし、この権力の委譲がまったくうまくいかなかった。
ハアルクン自身の統治能力に問題があったうえに、家臣に人材を欠き、東管区の統治に手こずった。
ウベラ・ガスムンなどからの人材の提供は配下の抵抗でうまくいかず、騎士階級を優遇した
この状況に対して、平民の生活の安定をなによりも重視していたハエルヌンであったが、執政官トオドジエ・コルネイア宛ての書状にて「いろいろと
ハエルヌンの各管区への定例の巡行にて、東管区の長老から、ハアルクンの手腕について苦情が寄せられた際も、これをなだめている。モルシア・サネ宛ての書状で怒りを
しかしながら、東管区の巡行後、ハエルヌンに訴え出た長老が、ハアルクンの配下から嫌がらせを受け、それがハエルヌンに露見することで事態は大きく動いた。
ハエルヌンはハアルクンを呼び出し、強い譴責をあたえたうえで、譲ったばかりの権限の一部を奪った。
この際、場に居合わせたクルロサ・ルイセがハアルクンを
ルイセはとんだとばっちりを受けたわけだが、それを聞きつけたサレが彼を
ルイセの武名は地に落ちていたが、北管区内の統治はうまく行っており、領民の支持は高かった。
そのような情勢下の九〇五年三月、東管区にて百姓の逃散が起き、大問題と化した。
ハアルクンの家臣による悪政に耐え切れなくなった百姓が、主にルイセの北管区と遠北州(ルオノーレ・ホアビアーヌの領地)に逃げ込んだ。
ハエルヌンは話し合いで事を収めるように指示を出したが、この手の調整を得意としたサネが東部州における補佐監の任のためにおらず、ハアルクンはルイセだけでなく、ホアビアーヌとの間でも
ルイセは、ハアルクンの圧力に屈して、庇護を求めて来た百姓を東管区に返し、その評判をさらに落とした。
対して、ホアビアーヌは全員を保護したうえで、ハアルクンの行政手腕を非難した。
上のような雰囲気の中で、九〇五年六月、ハアルクンが乱を起こすに至る、直接的な原因となった、サウゾ追放事件が起こる。
事件のあらましは、反対するハアルクンの頭越しに、その片腕のポウラ・サウゾがハエルヌンに建白書を提出し、その怒りを買って、平民に落とされたというものである。
サウゾの上申の中身は、当時の近北州における騎士階級の不満、とくにハエルヌンによって押さえつけられていた旧臣派などの要望をよく表していた(旧臣派:ハエルヌンが祖父と対立した際、彼の祖父についた者たちおよびその子弟)。
近北州は、セカヴァンおよびロスビンの二度の戦役に勝利したが、それによって領土が増えたわけではなかったので、将兵に対する恩賞は代官地(実質的な領地)ではなく、基本的に貨幣で与えられた。その点、サレは
この領地問題に対して、ハエルヌンは一貫して冷淡であった。理由としては、少年時代から彼は莫大な富を生む金山の奪い合いの中で生き、実り多いとは言えない近北州の土地を軽視するきらいがあった。自分が価値を置かないものを、他者も価値を置かないという思い込みが、ハエルヌンにあったと言える。これに加えて、政治に興味を失いつつあったことが作用し、領地問題の放置につながったのだろう。
サウゾは建白書の中で、東部州に領地を求めた。そして、それが叶わぬのならば、兵を起こし、混乱している
これは、遠北州と遠西州が内紛で自滅するのを静観するという、ハエルヌンの基本政策と真っ向から対立する考えであっただけでなく、なによりも、いくさをなくし、近北州の民へ平和を与えた、与えつつあるという彼の自負心を傷つける要求であった。
結果、ハエルヌンは激怒し、サウゾの処刑を求めた。これに対して、ガスムンは
ハアルクンからすれば政敵であったザケ・ラミがハエルヌンをどうにかなだめ、サウゾの騎士の身分を
ハエルヌンとの反目、自身の統治能力の欠如、家臣からの突き上げ。これらから追い詰められたハアルクンは、主から言われた通り、新暦九〇六年十月六日に蜂起した。
なお、この後に、ウストリレ進攻反対派の頭目となるサレが、サウゾの建白書については、何の言及も残していない。サレの歴史的評価をするうえで、建白書に対してサレがどのような反応を見せたのかを示す新史料の発見が待たれる。
そのハアルクン派の文官が書いたであろう建白書は史上、重要な意味を持った。
内容に共感した若者たちが、サウゾを英雄視した結果、建白書は聖典と化し、ウストリレ進攻を是とするサウゾ主義、サウゾ派を生み出し、彼らは近北州を中心に一大勢力をもった。
しかし、皮肉なことに、乱の鎮圧後、ハアルクン(ポウラ)派の生き残りは後難を恐れて、反ウストリレ進攻派に回り、サレを助勢した。
最後に言及しておくと、近北州内の内紛については傍観を保っていたサレだが、事態が深刻化していくなかで、ラウザドのオルベルタ・ローレイル宛ての書状にて、次の文言を残している。
「七州において、近北州で反乱が起きないと思っているお方はひとりしかおられない状況です。中央集権、独裁の
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