花、咲き乱れる丘にて (3)

 七月三日早朝。

 サレは「兄上」という自分の声で目が覚めた。

 近北公[ハエルヌン・スラザーラ]の幕舎から、自分の天幕に戻っても眠れなかったサレは、オントニア[オルシャンドラ・ダウロン]を相手に酒を飲んで夜を過ごした。さかなは昔の話で、いくさの話はしなかった。

 眠れぬままにいくさを迎えると思ったが、酒のおかげか、いくばくかの時間、サレは眠りにつくことができた。

 天幕の外に出ると、入り口付近でオントニアがやりを抱き抱えながら、胡坐あぐらをかいて静かに眠っていた。

 サレが蹴って起こすと、オントニアは空をしばらく眺めてから「まだ、いくさの臭いがしない。もう少し寝させてくれ」と言った。それから、転がっていた酒瓶を手に取って口をつけたのち、ふたたび目を閉じた。大いくさを前にして、たいした男だとサレは思った。

 空はこれ以上ないほどの快晴であった。


 サレの軍三千は、連合軍の左翼後方に、主力である東南州軍のづめとして陣取っていた。

 サレは身支度をすませると、オアンデルスン軍の様子を探るため、オーグ[・ラーゾ]と、鉄砲を扱える者を十名引き連れて、[タリストン・]グブリエラの陣へ向かった。


 途中、東南州軍が陣取っていた丘のひとつで、咲き乱れる花々にサレは目を奪われた。

 丘には心地よい風が吹いており、このまま過ぎて行くのは惜しいと思ったサレは、馬を降り、煙管に火をつけた。

「何だか、今日の煙草はやけにまずいな。それに……、いくさを前にして、花を美しいと思うのは何だか不吉だ。普段は何とも思っていないのに」

 同行していたオーグは、サレの話を聞いているのかいないのか、熱心に、景色と地図を交互にながめていた。

「お館さま。この丘は重要ですよ。ここさえ押さえておけば、我が軍の左翼の守りが崩れることはありません。逆に、敵軍がここを押さえれば、近北公[ハエルヌン・スラザーラ]さまの本陣が危うくなります」

 その後につづいた、オーグの細かい説明を聞き流しながら、サレは、確かにそうかもなと思うだけであった。このときは。

 「そういうものかな」とサレが言うと、「そうなのです」とオーグが自信ありげに言った。

「まあ、そこのところは、グブリエラもよく心得ていて、こうして兵を置いているのだから、大丈夫だろうよ。後詰の我々にはさほど関係のない話だ」

 話に身の入らぬサレは足元の花々を見た。

「この咲いている花たちにもそれぞれなまえがあるのだろうな。私にはさっぱりわからないが、百姓出のおまえならわかるのではないか?」

きん西せいしゅうの山に咲いている花ならわかりますが、このあたりに咲いているものは……」

「よくよく考えてみれば、花のなまえも知らずに死んで行くというのも、つまらん話だな」

 自分の話をしっかりと聞いてもらえないオーグは、少しねた声で、「隠居なされてから、ゆっくりと覚えられればよいのでは」と応じた(※1)。

「隠居か……。公が死ぬまではむりだろうな。人使いの荒いお人だから。ちょうどよい頃合いで死んでくれるとよいのだが」

「得てして、ああいうお方は長生きされるのですよね」

 オーグの言葉に、「怖いことを言うなよ」と言いながら、サレは煙管の灰を花の上に落とした。それから、吸い込まれそうな青空に目を向けて、「なんにせよ、こんな天気の良い日に死ぬ奴はかわいそうだな」と口にした。



※1 「隠居なされてから、ゆっくりと覚えられればよいのでは」と応じた

 サレに、花をでて過ごすような隠居の日々は訪れなかったが、家宰として多忙の中、ラーゾはホアラの草木に関する書物を残している。

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