花駆ける春(4)

 盛夏八月。

 [モルシア・]サネおうが持病の腰痛を理由に、東部州の州都アイル=ルアレ行きを嫌がったので、近北公きんほくこう[ハエルヌン・スラザーラ]の一存で、サレに御鉢が回って来た。「いちばん暇な私が行っても構わぬのだがな」とのことだった。

 ぜひ、お願いしたかったが、サレは生まれてはじめて海を船で渡り、アイル=ルアレに向かうことになった。

 サレが東部州行きを告げると、身重の体でありながら、公女[ハランシスク・スラザーラ]が行きたいと言い出したのには呆れ果てた。

 「お子を産んだら、好きなだけ行かれればよいではないですか?」とサレがたしなめると、「そういうことではない」と怒りだした。

 公女の心の変調は、子を産む前からはじまっていた。


 アイル=ルアレの港の賑わいはラウザド以上であった。

 最初はめずらしかったとうの巨大な船も、あまりにも目にするものだから、サレは滞在中にすっかり見飽きてしまった。それは、東夷の者たちにも同じことが言えた。


 滞在一日目の夜、サレは、オルベルタ[・ローレイル]の旧友の屋敷でゆっくり過ごす予定であったが、きゅうきょ、「歌劇を観に来い」と鵑黒館けんこくかんへ呼び出された。

 近北公の急な呼び出しに慣れていたサレは、そういうこともあるだろうと予想していたので、とくに慌てはしなかった。


 鵑黒館にサレが入ると、大広間で歌劇はすでにはじまっており、きらびやかな衣装に身をまとった美男美女が、歌と踊りを披露していた。

 東州公[エレーニ・ゴレアーナ]は椅子に身を沈めて、つまらなそうに劇をながめていたが、サレの到着を知ると彼に微笑みを与えた。

 その場には、十名以上の東州公の近臣たちが同座していたが、その表情はみな重苦しいものにサレには思えた。彼らはだれも劇を見ながら見ておらず、常に東州公のけはいに神経を集中していた。それが、近北公にはべる者として、サレには痛いほどわかった。


 高貴な女性らしく、夏でも一切肌を見せない東州公を見て、いつもだらしのない格好をしている公女とついつい比較をしてしまい、サレは思わず、ため息をつきそうになった。

 無刀のサレが東州公に近づき、あいさつをしようとしたところ、強い芳香に襲われた。サレが彼女の背後を見ると、無数の果物と花が置かれていた。後から聞いた話によると、それらを日に何度も替えさせて、匂いを保たせているとのことだった。それは金のかかる話だったので、こちらは、公女にまねさせるつもりはサレにはなかった。


 東州公から「劇は好きか」と問われたので、「都にいる頃は、庶民に混じってたまに観ておりました」と答えたところ、東州公から失笑がもれた。それから数瞬遅れて、家臣たちが追従の笑い声を立てた。

「そういえば、せんちょうは都にいたころ、自分を風刺する劇を客席で楽しんでいたそうではないか。心の広い男だな、おまえは」

「自分が出て来る劇というのは、なかなかおもむきのあるものですよ。実物より顔の良い役者が演じてくれましたし」

 そのようにサレが口にしたところ、「それはよかった。……私ならば絶対に許さないがな」と東州公が応じたので、場に緊張が走った。

 その張り詰めた空気を和らげるつもりはなかったが、サレが公女の懐妊を従姉いとこである東州公に告げたところ、彼女はとくに感心を示さなかった。とうの昔に知っていたのだろう。


 東州公から、「まあ、劇でも見ていけ。そのために呼んだのだからな」と言われたので、彼女の傍近そばちかくの席に坐り、サレは歌劇を見た。

 高尚過ぎてサレには退屈なものであり、船旅の疲れもあったが、彼は自らを律して、眠らぬように我慢した。

 その最中、東州公の従者が公に近づき、何事かを耳打ちすると、彼女は舌打ちをひとつしてから、指を一つ鳴らして、劇を止めさせた。それから、しばらく席を離れたのち、装いを替えて場に戻ると、再度、指を鳴らして、劇を再開させた。

 おそらく、ハアティムの件で何かあったのだろうと判じたところ、「気になるか」と声をかけられたので、サレが劇から目を離すと、片肘に頬をのせた東州公の斜視の瞳が、彼をすくめた。

「気にならないと言えばうそになりますが、怖いものには近づかないことにしていますので……」

「……ハエルヌン・スラザーラは怖くないのか?」

「怖いというよりも、えたいがよく知れません」

 サレがそう答えると、東州公が鼻で笑った。

「えたいのしれない不気味なものの傍にいるのは恐ろしくないのか?」

「よくわからないものを怖がっても仕方がありません。それに……」

「それに?」

「そういうたぐいのものは、案外、近くにいる方が安全な場合がありますから」

 サレの言に、東州公は再度笑うと「つまらない冗談だな」と言った。


 歌劇後の短い酒宴が終わると、サレは辞去を許された。

 東州公や家臣たちとまつりごとに関わる深い話は交わさずじまいで、何のために呼ばれたのか、サレにはわからぬ夜であった。

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