北へ(3)
旧教徒が多数を占める
無数の民衆が道々で出迎える中、公女はスグレサへ入ると、近北公[ハエルヌン・スラザーラ]が造らせた郊外の屋敷にて、新しい生活をはじめた。
近北州へ下向することになり、
ちょうど、前の大公[ムゲリ・スラザーラ]の事暦をまとめている最中であった学者[イアンデルレブ・ルモサ]どのが、公女の下向直後にスグレサを来訪していたので、その意見を聞いて「北州略史」は完成した(※1)。
多忙を極めていたのに、サレは清書を命じられたので、その中身を読んだが、事実の羅列でおもしろくとも何ともない
「北州略史」を受け取った人間で、まともに読んだのは、東左[ルウラ・ハアルクン]どのと侍女長のタレセ・サレくらいであったろう。
そのタレセも、寝る前に読むとよく眠れたと言っていた。
近北公に至っては「本なんてものは、読まないに越したことはない。ほとんどは紙の無駄だよ」と言いのけた。それはサレも同意するところであった。
飽きやすい公女は、それで歴史を研究することはやめてしまい、近北公が東州公[エレーニ・ゴレアーナ]から贈られた、東夷の精錬技術に関する書物の翻訳に取りかかった。
そのために、公女は技師を招き、長時間質問攻めにした。当初、睡蓮館(※3)は身分の高い者を寄越そうとしたが、サレは、金山にもっとも詳しい者を
公女は話を聴くだけでは満足せず、自ら鉱山に出向き、色々と下問した。その際、鉱山で働く者どもに、菓子と酒を配られた。
公女が翻訳した内容をまとめて、近北公へ報告したところ、彼はたいへん喜んだ。
実際に金の産出量が増え、鉱山の研究が一段落すると、公女は算木を机の上に散らしながら、代数学とやらに取りかかった。公女が言うには、「数学には感情がない。静かだ。そこがよい」とのことだった。
このように学問上についてのみ言えば、近北州に来てからの公女の生活は順風満帆であった。
気候が肌に合わないらしく、その点でサレは文句を言われたが、それはサレにはどうにもできない話であったし、彼女としても耐え切れぬものではなかった。
問題は、近北公との房事にあった。
初夜の翌日、公女は荒れに荒れ、サレとタレセでなだめるのに苦労した。
紙で指を切っても騒ぎ出す公女であったから、初夜の痛みは論外であったのだろう。
それに対してサレは、「それがあなたのゆいいつの仕事なのですから、耐えてください」と言うしかなかった。
「いつまで、何回、あのようなおぞましいことをしなければならないのだ」
公女の怒声を受けたサレは「女のお子さまが産まれるまでです」と失言を口にしてしまった。
「女を産めばよいのだな。男は知らんぞ。……なぜ、わたしがあのような目に合わなければならないのだ」と公女がめずらしく泣いたので、「だれでも、何かしらの苦労や嫌な思いをしながら生きているのです。あなたさまは特別なお方だが、それでも逃れることはできないのです」とサレは
その後、サレが近北公に会った際、「抱いてもおもしろくない人形だが、スラザーラ家の
上の夫婦の問題に巻き込まれたサレが、何でもよいから、早くお子を授からせてくださいと、めずらしく月に祈ったところ、公女ではなく、妻のライーズがまた懐妊した。
※1 その意見を聞いて「北州略史」は完成した
加えて、ハランシスクは、近北州の古老を呼び寄せて記述の確認をさせているので、スグレサに来てすぐに完成したようなサレの記述は誤りである。翌年から翌々年(九〇一~九〇二)にかけて書き終わったと思われる。
なお、ルモサが著した「ムゲリ大公記」のほうは、彼の死を受けて、息子のズニエラが完成させた。全十六巻。
※2 事実の羅列でおもしろくとも何ともない代物であった
それまでの史書は物語的な叙述を基本としていたが、「北州略史」は本邦ではじめて、客観的かつ実証的な叙述を徹底した史書として、後世に多大な影響を与えた。
記述は、ハアリウ家による植民の開始から、ブランクーレ家の台頭直前までの近北州の歴史を対象としている。ブランクーレ家が頭角を現した後の叙述については、ハエルヌンを
※3 睡蓮館
ハエルヌンの屋敷。彼の私室が池の中にあり、そこに睡蓮が浮かべられていたので、この名がある。
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