再生(九)

 近北公[ハエルヌン・ブランクーレ]がラシウ[・ホランク]を連れて、天幕から去った。

 サレ、[タリストン・]グブリエラ、学者どの[イアンデルレブ・ルモサ]の三人は、その場にとどまり、打ち合わせを終えたゼヨジ・ボエヌを加えて、改暦問題について協議を行うことにした。


「指示が出た以上、早急に動かねば、火の粉が我々に飛んできます。とにかく、一刻も早く、建白書を鳥籠[宮廷]へ渡し、あちらの返答待ちの状況にしなければなりません」

 そのようにサレが告げると、「わかっている」とグブリエラは静かに応じた。しかし、その右の拳は震えていた。

 学者どのはあいかわらず、顔を青ざめ続けており、先ほどから一言も発していなかった。

 その様子を一瞥したのち、サレは話をつづけた。

「学者どのが草案を考えている間に、わたくしは南左どの[ウベラ・ガスムン]宛ての書状を書きます。早く、この話を南左どのに投げてしまいましょう」

「そうだな。それがいちばんいい。しかし……」

と言いながら、グブリエラが学者どのに近づいたので、サレはふたりの間に割って入った。

「そういうことは、わたくしたちがいなくなったあとにしていただきたい」

 しばらくの間、グブリエラはサレと視線を交わしたのち、大きく息を吐いてから、微笑を浮かべた。

「私も多少は泥水を飲んで、感情を抑えられるようになったと思ったが、まだまだのようだな」

 グブリエラの言に、サレも微笑を返した。

「感情を抑え込むことなど、いくら泥水をすすっても、それはかなわぬ願いかもしれません」

「そうなのか?」

「東南公[グブリエラ]は、わたくしの新しい二つ名をご存じありませんか。執政官殺しですよ」


 「そうだったな」と言いながら、グブリエラは席に戻り、酒杯を口にした。

ひゃっちょう[サレ]。私が裏書きするから、南左どのへの書状を早く頼む。イアンデルレブも奏案の作成を急いでくれ」

 まだ、自身の舌禍から立ち直っていない学者どのを見て、「手伝ってやれ」と、サレはボエヌに耳打ちした。


「しかし、相手をするのがむずかしいお方だ。百騎長はよく平気で仕えていられるな」

 ガスムン宛ての書状を書いているサレに向かって、グブリエラが声をかけた。

「平気なわけがありません。お会いしたあとは、長々と煙草を吸わねば、心が持ちません」

「百騎長は百騎長で苦労をしているのだな……。ところで、改暦の建白だがな、近北州と連盟で出すということで、時間は稼げぬか?」

「言えれば、あの場で申しております。おそらく、機嫌を損ねられるだけで、聞く耳は持っていただけなかったでしょう」

「……英主でありたいのだな、近北州の民に対して。おうわさどおり」

「今から言いに行くわけにも参りませぬし。ともかく、一刻も早く、南左どのに仕事を押しつけなければなりません」

「百騎長はこの件、どうなると思う?」

「鳥籠[宮廷]は話をはぐらかそうとするでしょうな。すくなくとも、時間稼ぎには走るでしょう」

「それを許す近北公ではない。……公には、鳥籠の権威をそこねる目的もあるのだろうか?」

「それはわたくしなどにはわかりかねぬ話ですが、あの場の様子からすれば、思いつきではないでしょうか。だいぶ、酒も入っていたようですし」

 サレは言いおわると立ち上がり、ガスムン宛ての書状をグブリエラに差し出した。


 文面を確認しているグブリエラに、今度はサレが声をかけた。

「失礼ながら、以前お会いした時に比べて、東南公もずいぶんとお変わりになられましたな」

「この乱世を生き抜きたいと思えば、変わらざるを得んよ」

と視線を書状に落としたまま、グブリエラが答えた。酒のためか、白皙の肌が紅潮していた。

「東州軍な。あれは手強いぞ。じょ婿せいのオアンデルスンもやっかいだが、ゾオジ親子は怖いよ。私も殺されかけた。息子のなまえは何だったかな……」

「ズヤイリどのです」

「そうだ、ズヤイリだ。さすがだな、百騎長は何でも知っている。……まだ、少年と呼んでいい年らしいが、刀技もなかなかのものらしい。百騎長の敵ではないだろうが」

 グブリエラが書状を裏返し、花押を書きはじめた。

「そのような若者とは、いくさ場で会いたくありませんな」

「私だってそうだよ。このまま、いくさがなくなってくれればよいのだが……」

「東州公[エレーニ・ゴレアーナ]次第ですか?」

「いや、女婿のオアンデルスンだな」

 断言すると、グブリエラは筆を置いた。

「東部州に付け入る隙があるとすれば、オアンデルスンだ。夫婦仲は最悪らしい」

 「なるほど……」と答えたサレを横目で見ながら、「すでに知っていることを、そのような顔で聞き入るのが、百騎長の処世術か?」と、グブリエラが嫌味を口にした。


 完成した建白書に裏書きを記しながら、グブリエラが告げた。

「改暦の建白書は、近北公のなまえで出す。公女[ハランシスク・スラザーラ]さまの名を出しては、いろいろと差しさわりがある。その点は、百騎長が近北公を説得する。それでいいな?」

 同意を求められたサレは「ぜひに」と応じた。サレとしては、政争になりかねない問題に、公女を巻き込むことだけは避けたかった。

「改暦の内容について、摂政[ジヴァ・デウアルト]などからもんがあった場合に備えて、建白の使者には、近北公と私の代理として、イアンデルレブを遣わせる。よいな、イアンデルレブ?」

 ようやく顔色が元に戻りつつあった学者どのは、主の指示に、無言でうなづいた。


 まだ酔いが残っていたが、それどころではなかったので、サレはグブリエラに一礼したのち、天幕から早足で出ようとした。

 するとグブリエラがサレを呼び止めた。

「百騎長。余計な仕事が増えたのは確かだが、私としては、民草が楽になるというのならば、改暦はやるべきことだと思っている。そこのところを踏まえて、よろしく頼むぞ……。あとな、これは私の口からは言いにくいことだが、この件に関しては、エレーニ・ゴレアーナを巻き込んだ方がいい。あの雀蜂がこちらにつけば、鳥籠ごときに打つ手はないよ」

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