再生(十)
八月二十八日。サレが
模型の様子を、天文台から見下ろしていた公女[ハランシスク・スラザーラ]に、サレは改暦について報告した。
聞いているのかいないのか、公女は何も答えず、模型をながめつづけていた。
やがて、めずらしく大声で「よいぞ」と、職人の
落ちてもらっては困るので、天文台から身を乗り出すように水の流れを注視している公女の細い腕を、サレは掴んだ。
水が行き渡ると、公女はサレの手を振り払い、危なっかしい足取りで、天文台から降りていった。
仕方がないので、サレも公女に倣って模型へ近づいた。
「やはり、ここで運河の流れを変えているのは、
模型の一か所に立ち、熱弁を振るっている公女の声を、職人たちは片膝をつき、首を垂れて聞き入っていた。
公女が、
「しかし、ここは意味がわからぬ。むだに水の流れを妨げているように思えるのだが。なにかのまじないか?」
と公女が、模型の一角を指して、職人の頭に下問した。
職人の代わりに、「いくさで必要です。削らないでくださいよ」とサレが答えると、その日においては初めてのことであったが、公女はサレと視線を合わせて、「なるほど。おまえもたまには役に立つな」と口にした。
それから、職人の頭に「問題点を洗い出して報告してくれ。それをもとに、模型へ新しい運河を引いてみよう」と指示した。頭は深々と頭を下げ、「かしこまりました」と応じた。
公女は書斎に戻ると、椅子に坐り、異国の建築に関する書物を食い入るように読みはじめた。
その様子をすこし離れた場所で見つめながら、サレが声をかけた
「ところで、改暦の件ですが。なにかご意見はありますか?」
「ない」と一言、そっけない言葉が公女から返って来たので、サレが苦笑していると、彼に茶を差し出しながら、タレセ・サレが口を挟んだ。
「むだよ。だいぶ前に、天文学には飽きてしまわれたから」
「もう遊び飽きたのか。あのおもちゃをつくるのに、いったい、いくらかかったとお思いなのか」
とサレが苦言を呈すと、タレセが笑いながら、「しかたないわ」と応じた。
「あなたさまのお遊びのせいで、私が迷惑をこうむっているのですがね」
そのようにサレが言うと、「私はわるくない」と公女が本をめくりつつ応じた。つづいて本を閉じながら、「この世は因果応報だ。すべておまえがわるい」と断言した。
「近北公[ハエルヌン・ブランクーレ]は急がれているようだが、改暦するとなれば、細かい推算をしたうえで、
茶を飲みながら話す公女に、「そういう話を聞きたかったのです」と言いながら、サレが小さく首肯した。
「その推算、でしたか。していただけますか?」
公女を知らぬ者には無表情のままに見えるが、サレには、彼女の表情が不機嫌なものに変じたのが見て取れた。
「断る。私は忙しいのだ」
「しかし、ほかにできる者がいなければ、やっていただかなければ困ります。近北公がからんでいるお話です」
サレの言に、公女は忌々し気に思案顔をつくり、しばらく沈黙したのち、代わりの者の名を口にした。
「遠北州の田舎者だが、なかなかの学者だ。その者に任せれば、つつがなく、改暦の問題は片付くだろうよ。とにかく、私は知らん。いいか、ノルセン。改暦の問題などで、私をわずらわせるな。私はおまえとちがって忙しいのだ。のんびりと月など見ている
「さようですか……。しかし、遠北州か。それは参りましたな」と言いながら、サレは公女に近づくと、広い机の上に置かれていた、橋の模型を手に取った。
「これは何ですか?」
とサレが問いかけると、公女は「いいだろう」と目を輝かせた。
「それは海外の工法でつくられた橋の模型だ。短い工期で造れて、材料も少なくてすむのに、我が国の橋よりも丈夫で長持ちする。都にあたらしく架ける橋は、すべてこれにさせるつもりだ。……あやつの名は何だったかな。コルネルヤとかいう」
「トオドジエ・コルネイアですか。執政官のなまえぐらいはおぼえてくださいよ」
「あの者にはすでに話してある」
自慢げに語る公女から目を離し、サレは模型をまじまじと見つめた。そして、「好きにさせておくのがいちばんだな」とつぶやいた。
サレの言に、「何の話だ」と、公女がきょとんとした顔をつくった。
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