第6話「明日をも知れぬ逃走」
旅立ちは突然にやってきた。
それは、僕がようやく
突然、部屋に侵入者が現れた。
すかさず僕は、目覚めると同時に毛布をはねのけ飛び起きる。
「何者だい? 僕は今、睡眠を楽しんでいたんだ……って、ありゃ? ジェザド?」
そう、ジェザドだ。
僕の今の肉体、ナナの父親である。
彼は、酷くバツが悪そうに
愛想笑いというのは『とりあえずお互い本気になるなよな』という
しかし、娘の病室に忍んで入ってくるなんて、どんな要件だろう?
「ジェザド、
「シーッ! 物騒なこと言わないでヨ。しかも、二重の意味で不謹慎。静かに静かに」
訳がわからない。
テレビで色々な番組を見て、僕も少しは学習している。
男が女の部屋を夜訪れるのは、生殖行為が目的の
だが、ジェザドは人権や差別がどうとか、難しい話をする。ムムム、そのへんはよくわからない。表現というか、僕の言葉選びが不適切だったようだ。
とりあえず僕は、短刀を直輸入に本題を
あ、間違った、単刀直入だった。
「いや、なにね……そろそろ病院暮らしも飽きただろうなーと思って」
「フッ……なるほど、危険な夜遊びで
「どこでそゆの覚えてくるの。って、それはないって。死んだ女房に殺されちまうヨ」
「お、それは比喩的な表現だな。死人が人を殺せる訳がない。つまり、ジェザドにとってそんな非現実的な現象があたかも――」
「恥ずかしいから詳細を解説するのやめてくれる? そのロボロボしぐさ、おじさんには結構刺さって痛いのよネ」
ここ最近はこんな調子だ。
ジェザドとの対話にも慣れてきたし、ナナの肉体も支配率が日々向上している。
そして、なにより精神的な安定が衝撃を和らげてくれた。
予備知識として、以前暗示的な夢を見ているのも大きかったかもしれない。
そう、やはりナナの母親は死んでいたのだ。
では、あの夢は……母親の葬儀に出席したナナの記憶?
おかしい、ナナの記憶は人格ごと吸い出されて外部保存されてるのでは?
しかし、どうやら今はその考察と議論をしている余裕はないらしい。
「早速だけどナナオちゃん、出発しようか。ほい、服。リクエスト通り、動きやすいのを何点か。好きなのに着替えた着替えた」
大きな紙袋を渡され、その中を覗き込む。
例のひらひらの白いワンピースは入ってなかった。パンツスタイルのものが少しと、あとは下着とか靴下とか。
それを僕は雑に床にぶちまけて、並べ直してから仁王立ちで見下ろす。
スタティック・ディスプレイというやつで、基地の感謝祭とかでこれをやると喜ばれる。僕は寝間着を脱いで全裸になったが、ジェザドはさして興味を示そうとしなかった。
「実はね、ナナオちゃん。娘の……ナナの全てを保存したんだけど、その媒体を取りにいかなきゃいけない。少し長い旅になるかもだねえ」
「ずさんな管理だな。この病院内に保管されているのではないのか?」
「ちょーっと複雑な事情があってね。ささ、外に車を用意してあるからさ」
「わかった。今の僕に選択の余地はない、同行しよう」
手早く下着を身に着け、一番安全性の高そうな服を選ぶ。
人間の着衣は、特別な場合を除いて防御力が低い。皆無といってもいい。見た目や色、形に意味があるのであって、防弾処理とか耐火性能などは一切考慮されていないのだ。
であれば、被弾はイコール致命傷という前提条件を許容する必要がある。
同時に、可能な限り攻撃を避けて受け流す戦闘スタイルが求められた。
僕はホットパンツに丈の短いタンクトップ、サスペンダーを適当に身に着けた。
「うん、いい感じだ。動き易い」
「あのねえ、ナナオちゃん。率直に言って、センス微妙よ? 色彩センス」
「そうか? これは警告色だ。昆虫やなんかと一緒だな」
「毒の花みたいなことしなくていーの。ま、今はそれより脱出だネ」
「脱出? 逃げるのか。自由への闘争か?」
じゃない、逃走、か。
僕の疑問符にジェザドはニヤリと笑ってみせた。
これは悪い顔だと思ったけど、僕は黙って笑顔のバリエーションを一つ増やす。
「施設は借りたけど、技術までよこせってのは……ねえ。お金はちゃんと払ったし」
「保険は適用されるか?」
「いんや? 非合法な手術の連続だったからね。という訳で、トンズラさ」
やれやれ、地上最強だった僕がコソコソ脱走とはね。
でも、今のこの肉体じゃ満足に戦えないことは知っている。人間の成長というのは実に遅く、昨日今日の筋トレで屈強な肉体が形成されることはないのだ。
まあ、やらないよりマシだから毎日鍛えてるけど。
「なら、急いだ方がいいな。ジェザド、もう勘付かれている。追手が来るぞ」
「えっ? マジかー」
「マジだ。人数は三人、歩調からして兵役経験者か兵士そのものだな」
「……なんでわかるのかなあ。僕の娘、耳がいいんだね」
僕が聴覚で気配を拾っていると、瞬時にジェザドは見抜いた。
早速僕はジェザドと共に部屋を出て、暗闇の中を走り出した。
すぐに背後で、応援を呼ぶ敵の声が連鎖する。
全速力で走ると、すぐに
それでも、捕まるのはゴメンだから懸命に全身を押し出す。
「聴音能力は生身の人間そのものだ。ただ、僕が識別できる音が多いだけで……ハァハァ」
「な、なるほど。人間の鼓膜は空気の振動を全て拾ってるけど、脳は無意識に必要ない小さな音を切り捨ててた訳か」
「
「はひー! 運動不足には堪えるなあ! 出たら右へ、そこに車がある!」
その頃にはもう、病院にサイレンが響き渡っていた。
そして、気付く。
この建物、普通の病院じゃないな。
どうりでここ数日、他の入院患者や外来患者を見なかった訳だ。
大通りに飛び出て、手を振るジェザドを追う。
もう二人共、息も絶え絶えの酸欠状態に近かった。
「あれに乗って、ナナオちゃん!」
「武器は!」
「ない!」
「知ってた!」
「なんだよもー、それー! ってか、かわいい娘に銃なんて持たせられないのよね」
「僕はナイフや素手でもやれるけど!」
でも、今の身体じゃ自信がない。
ネフェリムだったら、両肘に内蔵された高周波ブレードがあるんだけどね。
っていうか、雑に触っただけで人間なら殺せる。
ただ、問題はそれが
僕たちは黄色い中型トラックに駆け込んだ。
「よーし、ナナオちゃん! 掴まってて!」
「了解し、った!? ンググ……舌を噛んでしまった、痛い」
そう、痛い。
これも最近学んだものだ。
ようするに、不快な刺激の一つである。自分に対して害のあるもの、ダメージの強弱を伝える感覚である。痛覚はいわば、ネフェリムでいう自己診断アラートのようなものだ。
むずがるようなエンジン音が響いて、のっそりとトラックが動き出す。
追いつけないと見るや、病院の職員たちが銃を取り出し発砲してきた。
「う、撃ってきたぞ! 反撃を!」
「ノンノン、逃げるが勝ちでござるよー? ニンニン!」
「翻訳不能だ! 人間の言葉で喋ってくれ
背後の荷台に弾丸が当たる音が聴こえる。
貫通はしてないし、拳銃の口径でどうこうなるようなものじゃないらしい。
改めて僕は、少し落ち着いて車内を見渡す。
運転席も助手席も割と広くて、それでも乗り心地は最悪だった。
ジェザドの運転は荒っぽくて、タイヤを鳴かせながら町中をサーキットに変えてゆく。
徐々に銃声がまばらになり、やがて追ってこなくなった。
その頃にはもう、トラックは山の方へとバイパスを疾走していた。
「よーし、巻いたネ。ふう……さぁて、忙しくなってきた」
「ジェザド、今後の見通しはあるのか?」
「大学時代の友人をまずは頼る。私以上の変人だが、貸しがあってね。それを返してもらうとしよう」
「ふむ。それと、この車両は」
「メルセデスの特別仕様! ちょっとした装甲車だよ。さあ、お嬢さん、ベルトを締めて」
ギリギリ市販車だと言わんばかりに、車体はようやく静かになった。
本当の装甲車なら、すぐに僕が
でも、そうか……メルセデスか。
確か、軍用の車両や航空機にも関わっていたような気がする。
そして僕は、部下との最後の会話を思い出した。
「このメルセデスは、ポルシェとかいうのとどっちが高価なのだ?」
「んー? ものにもよるんじゃなーい?」
「そ、そうか」
「どしたの、ロボットの間ではスーパーカーブームかい?」
「いや、なんでもない」
僕はそれ以上は会話が億劫になって、外の景色に意識を逃がす。
深夜の静まり返った闇が、その中に山野も市街地も沈めてしまっている。
恐らくまだ、戦災の復興
僕たちを乗せたメルセデスは、
その果てにまさか、驚くべき出会いと別れがあるとも知らずに。
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