第3場 美琴ちゃんと青地鼓哲
結局、俺たちは看護師に追い出され、すごすごと元来た道を引き返した。
「でも、元気そうで良かったじゃん。美琴ちゃん、ただの検査入院だって言ってたしさ。これで戻って来たら、またパワフルでバリバリやってくれるよ」
航平は皆を元気付けるためか、そう明るく言った。
「そう……だね。うん。そうだよ。あんなに元気そうなんだもん」
「大腸の影」というのは少し気になるが、俺も航平に同意する。他の部員たちも口々に航平に同意した。恐らく、全員そう言うことで、自分自身を安心させたかったのだろう。だが、その時、
「そんなのわからないですよ!」
と将隆が叫んだ。
「え? どうして? だって、美琴ちゃんだって大丈夫だって……」
航平がそう言いかけると、将隆はさらに大きな声で続けた。
「だから、大丈夫かどうかなんて、わからないんだって!」
将隆は今にも泣きそうな顔をして肩で息をしている。俺たちは息を吞んだ。
「マーシーに、何かあったのかな?」
部長が努めて穏やかに将隆に尋ねる。将隆は震えながらポツリポツリと話を始めた。
「俺には、母親がいないんです」
「え?」
「つむつむ先輩にはこの前話しましたよね、俺が小学校でクラスに馴染めなかったって。あれ、俺には母親がいなくて、いつも父親は仕事で忙しいから授業参観や運動会に俺の親だけ誰も来なくて、そのことを同級生に
何で俺が母親がいないかというと、俺がまだ保育園に通っていた時に、病気で死んじゃったんです。後から、母親は大腸がんだったって聞かされました。俺、母親が病気になって初めて入院した時のこと、未だにはっきり覚えてるんです。今美琴ちゃんと全く状況が同じだった。いつもと変わらない元気な姿で、ちょっと影が見つかっただけだって。心配ないって笑ってました。でも、それからどんどん母親の体調は悪くなっていった。そして、俺が年長になる年に、母親は死んだんです」
俺たちは誰一人、言葉を発することが出来なかった。将隆はただ一人、涙を堪えるように口を真一文字に結んで、前を見据えていた。海翔がそっとそんな将隆に寄り添っている。俺たちは黙ったまま、バスに揺られ、聖暁学園まで引き返そうとした。
その時、俺は美琴ちゃんの病室に忘れ物をしたことに気が付いた。
「あ、ごめんなさい。俺、次のバス停で降ります。病院に忘れ物したっぽい。俺、後で一人で戻るんで、先に帰っていてください」
「だったら、僕も一緒に行くよ」
航平がそう申し出たが、バスの運賃を往復分余計に出させるのも悪い。
「大丈夫。すぐに行って戻って来るから」
俺は航平にそう告げると、一人で次のバス停でバスを降りた。
また俺が忘れ物を取りに戻ったことを知られたら、美琴ちゃんに何か言われるかな。「つむつむはおっちょこちょいなんだから」と笑われたりするのだろうか。俺が病室で忘れ物を取って来るまでの間、美琴ちゃんには病室を空けていて欲しいな。そう願っていた俺だったが、果たして、美琴ちゃんはベッドの上にいなかった。よかった。俺は安堵して大きな溜め息をつくと、忘れ物を拾い上げ、病室を出た。
だが、帰ろうとした時、病棟の奥の共有スペースに美琴ちゃんと青地が二人で佇んでいるのが目に飛び込んで来た。二人で何を話しているんだろう。気になった俺はこっそり二人に見つからないように隠れながら、共有スペースの近くまで忍び足で近寄った。そして、そっと中を覗き込みながら聞き耳をそばだてた。
「本当に大丈夫なのかい?」
青地は美琴ちゃんの背中に手を回しながら、いつになく優しい口調でそう美琴ちゃんに尋ねた。
「大丈夫……と言いたい所なんだけど、もう、あの子たちも帰ったしいいわよね。正直、怖い。主治医からは、内視鏡手術の検査結果を見ないと、悪いものなのかどうか判断は出来ないと言われているの」
「そんな……」
青地が言葉を失う。俺も息を吞んだ。大丈夫だなんて笑っていたのは、美琴ちゃん精一杯の強がりだったのかよ……。俺の心がざわつく。ショックを受け、一言も発せない青地を美琴ちゃんは軽く肘で小突いた。
「やめてよ。こんな時くらい、カッコよく大丈夫だよって励ましてくれてもいいじゃない」
「だって、君に何かあったら……」
青地はそう言うなり、眼鏡を外して涙を拭った。俺はその時、青地の素顔を初めて目にした。俺は驚いて思わず「あっ!」と声を上げる所だった。眼鏡をかけている普段の姿は、可もなく不可もない冴えない男に見えたも関わらず、眼鏡を外すや、切れ長の綺麗な目が現われ、驚く程端正な顔立ちが露わになったのだった。
「何であんたが泣いてるのよ。本当にしっかりして欲しい時に、ちっともしっかりしてくれないんだから」
「そんなこと言われたって、君のことだとどうしても他の人以上に、いろいろ考えてしまうんだよ。それに、君は僕の言うことなんか何も訊かないだろ? 僕が君に演劇の世界に残るように説得した時だって、わかったと言いながら、結局演劇の世界を去ってしまった」
「そうね……。でも、あの時、わたしは本当に嬉しかったのよ」
「え?」
「あんたは何だかんだ言って、わたしの一番の理解者だったし、あんたがわたしのことをいつも気にかけてくれていること、悪い気はしていなかった。あんたが、演劇の世界に残っても美琴ならやっていけると言ってくれて、自然と大丈夫かもしれないって思えた。でも、やっぱり冷静に考えてみれば、わたしより上の才能の人なんか五万といる。だから、やっぱり演劇の道で生きていくのは無理だと思った」
「だったら、もっとそういうことだって相談してくれれば良かったじゃないか」
「ごめんなさい。でも、あんなにわたしのお芝居を好きでいてくれて、応援してくれているあんたを、どうしてもがっかりさせたくなかったのよ。きっと、あんたはどうしたって、わたしが演劇の世界から去ることを止めようとしたでしょ? それを思うと、とても心苦しかったの」
「美琴……」
「わたしは演劇の世界を去って教師になった。でも、今の生活、わたしは嫌いじゃないわよ。あの子たちね、本当にいい子たちなのよ。勿論、問題起こして揉めたり、喧嘩したり、手が焼ける子たちだけど、わたしを全国大会まで連れて行くんだって、一生懸命頑張ってくれた。つむつむなんて、最初は演劇部に入るのを本気で嫌がっていたのに、今では全国大会で優勝して、演劇界を去ったわたしにもう一度、わたしが高校時代に全国大会で優勝した時の景色を見せたいんだって意気込んでいるのよ。本当、参っちゃうわよね、そんなことされたら」
美琴ちゃん……。俺たちについて、そんなことを思ってくれていたんだ。俺は目頭がじーんと熱くなり、静かに涙を拭った。
「だからね、これからもずっと、あの子たちと新しい景色を見ていきたいの。こんな所で倒れていられない。でも……」
「でも?」
「やっぱり不安なの。もし、これで悪い結果だったら? いいえ、悪い結果だけならまだいい。もし、全身に病気が広がっていて、もう手の施し様がないなんて言われたら……」
美琴ちゃんの肩が小刻みに震えていた。すると、青地がギュッと美琴ちゃんを自分の方へ抱き寄せた。美琴ちゃんは青地の胸に顔を埋め、その背中を震わせた。どれだけ二人はその体勢でいただろうか。美琴ちゃんはふと顔を上げると、
「本当にあんたって人はもう。だから、大丈夫だよって安心させるような気の利いた一言くらい言ってっていってるじゃない」
と冗談めかして青地に言った。すると、青地は美琴ちゃんの目の辺りを指で優しく拭った。
「ごめん。でも、僕にはそんなこと軽々しく言えないよ。僕に出来ることといえば、美琴が無事でいられるように、祈ることだけだ」
「よく言うわ。演劇の世界でやって行ける、だなんてお世辞を言っていた癖に」
「何を言うんだ! 僕はあの時、本気で君が演劇の世界でやっていけると信じていたんだよ」
「もう、鼓哲ったら。ありがとう。……でも、そうよね。気休めに大丈夫だよ、なんて言われた所で、気なんか休まらないもの」
「美琴、今日は病院に泊まって行くよ」
「え、いいわよ。あんた、明日も仕事でしょ?」
「いいんだ。明日の朝は病院から行くから」
「でも……」
「こんな時くらい、一緒に居させてくれよ。僕は君への好意をいつも拒否されてばかりだけど、今日くらいは素直に受け取って欲しい」
「もうっ。仕方ないなぁ」
「一旦家に戻って明日の準備をして来るから、美琴は病室で大人しく待ってな」
「言われなくてもそうするわよ。子どもじゃないんだから」
どうやら、美琴ちゃんは病室へ、青地は家へと戻るようだ。ヤバい。このままだと共有スペースを出る二人に見つかってしまう。俺は慌てて病棟を飛び出して行った。
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