第3場 ヨハネスの気持ち

 いつものようにトレーニングルームで筋トレをこなし、学校の周囲を3キロ走る。こうやってトレーニングをすることは最初は大変で辛かったが、今では自分の中で溜め込んだ悩みを全て忘れることが出来る貴重な時間だ。今ではランニングも息が上がることはなくなったし、夏と違って秋の涼しい風を受けながら走れるのが心地いい。学校裏手の河川敷を走っていると、夕日に照らされた水面がキラキラ輝き、爽やかな風がサッと俺の肩を撫でる。


 俺が軽快に河川敷を走って行くと、俺の行く手に、金色の髪をなびかせた、爽やかな美しい青年が立っているのが見えた。あれ? あいつは何処かで見たような……。ゲッ! ヨハネスじゃん。一週間前に地区大会で初めて出会ってから一度も航平の前には現われなかったし、京都でも観光に行ったのだろうと思っていたのだが。何でわざわざここに戻って来たのだろう?


「Hey, Tsumugu!」


 え? 俺の名前叫んでるし。地区大会で初めて出会った時だって、自己紹介だってまともにしなかったのに。俺、どうやって声掛けたらいいんだ? 外国人なんて、英語のALTの先生としか話したことないよ。ここは英語? いや、ヨハネスはドイツ語だよな。あー、どうしよう。何て話しかければ……。


「あ、あの、は、ハロー」


「あはは、キミは日本語で話しても大丈夫だよ。こんにちは、ツムグ」


 ヨハネスはその美しい顔でにっこりと俺に笑いかけた。そうか、ヨハネスは日本語を勉強したって言っていたっけ。それにしても、その笑顔は反則だ。その笑顔を見ているだけで顔が独りでに赤くなっちゃうよ。


「よ、ヨハネスさん……ですよね? ど、どうも。はじめまして。一ノ瀬紡です」


「うん。キミの名前はコーヘイから聞いてる。ボクはヨハネス・シュレーダー。はじめまして」


俺にヨハネスはその白くて繊細な手を差し出した。俺と握手を交わすヨハネスの温かい手に、俺は思わず胸がドキドキした。


「あ、あの……。こんな所で何を?」


「コーヘイの今通っている学校がどんな所なのか気になってね。それに、ボクは今日でコーヘイとお別れだから、彼に挨拶をしようと思って」


「ドイツに帰るんですね?」


「うん。秋休みは二週間しかないから、ボクはそんなに長くここにはいられないんだ」


「そうなんですね……」


 やべえ。これ以上話すことがねえ! 俺たちの間に暫しの沈黙が流れる。俺の背中を冷や汗がつたう。どうしよう。俺、ここで何かを言った方がいいのかな? いや、でも俺にヨハネスに何を話せって言うんだよ。全然頭が働かねぇ! やっぱり、こいつは俺の恋敵だからか。いや、こいつが超絶イケメンだからか。それとも……。


「ボクはね、コーヘイが日本に帰ってからも、ずっとコーヘイとWhatsAppで連絡を取っていてね。たまに話したりもするよ。でも、ここ最近はあまりボクにメッセージもくれなくなって、どうしたのか気になっていたんだ。でも、ツムグとコーヘイがこの前やっていた舞台を観て、あんなに楽しそうなコーヘイを見て、ボクはびっくりしたよ。ボクの前であんなに楽しそうな顔をコーヘイは見せたことがなかったからね」


へぇ……。そういうものなんだ。確かに航平は中等部から演劇部に通い倒すくらいには、演劇大好きだしな。初舞台で滅茶苦茶張り切っていたのもわかる。


「コーヘイはツムグに誰よりも心を開いているみたいだったね」


「え?」


「キミと一緒に主役だったから、コーヘイはあんなに楽しそうだったんだろうなってボクは思ったよ。コーヘイはキミのことを誰よりも慕っている。キミはコーヘイにとって特別な存在なんだろうね」


「そんな、俺なんて……。ヨハネスさんこそ凄いじゃないですか。俺なんか足元にも及ばないというか……。だって、ヨハネスさんが航平と小学校で一緒だった時、航平をいじめっ子から守ったって話、本人から聞きました。それからずっと航平はヨハネスさんのことを大切な存在だと思っている。俺はヨハネスさんみたいな勇気もないし、顔もカッコよくないし、ヨハネスさんが航平のために日本語勉強したような努力もできないし……。俺は、ヨハネスさんには敵わない。だから、航平は俺といるより、ヨハネスさんと一緒にいたいと思っているんです。仕方がないですよね。俺はヨハネスさんに勝てる所なんか何一つなくて、航平がドイツに戻りたいっていうのも当然というか……。だから、俺は……俺は……」


 おい。やめろよ。何で、俺ってばこんなほぼ初対面の外国人の前で泣いているんだよ。最悪だ。こんな全てが完璧で爽やかなイケメンの前で、顔くしゃくしゃにして不細工な泣き顔晒したりしてさ。


「大丈夫?」


 ヨハネスが心配そうに、俺にハンカチを手渡した。何て紳士なんだよ。俺、こんな紳士な対応されたこと、生まれて初めてだよ。俺はヨハネスに貰ったハンカチで涙を拭った。


「ツムグは自分の価値がよくわかっていないみたいだね」


啜り泣く俺の背中を優しく撫でながら、ヨハネスがこれまた優しい口調で語りかけた。


「コーヘイは、ボクと一緒にいた時よりも、今の方がずっと充実した顔をしている。それは全部ツムグのおかげだとボクは思う。ねえ、コーヘイとキミはどういう関係なの? ただの友達? それとも……」


「恋人……です」


「そうか。やっぱりね。ボクは最初からそうじゃないかと思っていたよ。正直に言おう。ボクがコーヘイに会いに来た理由。それは、ボクがコーヘイを好きだったから」


やっぱりな。この人は俺から航平を連れ去って行くつもりなんだ……。俺はヨハネスの顔をまともに見ることが出来なかった。ヨハネスは続けた。


「コーヘイは小学生の時からとっても可愛い子でね。ボクは知らず知らずのうちに、彼を好きになっていた。コーヘイを助けたのも、ボクが彼のことを好きだったから。コーヘイが日本に帰ってから、ボクは彼のことが恋しくて、彼にまた再会したくて、彼を喜ばせたくて日本語を勉強した。今まで五年間もの間ね。大分ボクの日本語も上達したし、折角秋休みで時間も出来たから、サプライズでコーヘイに会いに行こうと思いついたんだ。でも、コーヘイと一緒にいるキミを見て、ボクはキミには敵わないことに気付いたよ。ツムグはボクが何年努力して日本語を頑張っても届かない、コーヘイにとって特別な何かがあるんだ」


 同じセリフを以前に漣から聞いた気がする。あいつも俺に対抗して特進クラスまで頑張って入ったのに、俺には敵わないと言っていたっけ。でも、俺にそんな魅力があるようには思えないんだよ。特に、このヨハネスのような完璧男子を上回る魅力なんて、の俺の何処にあるっていうんだよ。


「俺にそんなものないですよ。ヨハネスさんは、航平にとって誰よりも大切な存在じゃないですか。苛められていた航平を助けて、初めての友達になったんですよね? それだけでも、俺はヨハネスさんに敵わないのに、ヨハネスさんは俺よりずっとイケメンだし、優しいし、気配りも出来るし……」


「あはは! そんなに褒めてくれてありがとう。でも、ボクは残念ながら、コーヘイの一番にはなれなかったみたいだ。コーヘイがドイツに戻って来ても、ボクはコーヘイとは友達のままだ。9000キロ離れた場所で暮らすことになっても、コーヘイはキミのことを好きだと思い続けるだろうね」


「そんなこと……」


「そんなこと、あるよ。ボクのことでコーヘイと何かあった? 今日、別れの挨拶をしようと思ってコーヘイに会ったら、ツムグと同じ様にボクの前で泣いていたよ。ツムグが、ツムグがって繰り返してね。キミたちは行動までそっくりだ。お似合いのカップルだと思うよ。もっと自信持ちなよ」


「航平が俺のことで泣いた?」


 俺はそんな航平の行動が理解出来なかった。俺は思った。何でだよ。だったら、何で、俺に葉菜ちゃんと付き合えなんて言ったんだよ。自分にはヨハネスがいるなんて言ったんだよ。意味わかんねえよ。


「うん。だから、もっとコーヘイの気持ちを理解してあげて。コーヘイ、ああ見えて素直じゃない所があるから」


ヨハネスは少し寂し気に俺に笑いかけた。

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