第2場 当たり前にそばにいるやつ
奏多と一緒に転んだ衝撃で、俺は膝を擦り剥いて血が流れていた。あいつのせいで流血沙汰にまでなるなんて。俺は悔しいやら腹が立つやらで、歯ぎしりをしながら寮まで戻った。擦り剥いた膝の痛みに、奏多に対する怒りが増幅される。今日のような日は、航平の無邪気にはしゃぐ姿でも見て癒されよう。四月に高等部に進級し立ての頃は、航平が俺の心を乱す存在であり、奏多に安らぎを求めていたのが、今やその立場は完全に真逆のものになっていた。
だが、部屋に戻ると、航平はいつものように俺に抱き着いては来なかった。体育祭の練習ですっかり疲れ果てているのだろうか。ベッドに潜って寝ていた。
「航平、ただいま」
「お帰り、紡」
俺の方を振り返りもせずに返事をする航平は、どこかその声にいつもの元気がない。体育祭の練習がそんなに大変だったのか。俺も奏多のことで疲れ切っていた俺は、航平のいつもと少し違った様子を気に留めることもしなかった。
俺は薬箱から消毒液とガーゼを取り出すと、傷口の手当を始めた。消毒液が傷口に沁み込み、その痛みに思わず「うっ」と顔が歪む。明日の体育祭の練習など、負傷欠場だ。こんな傷を作って、校庭の砂だらけになれるかっての。
「つーむーぐぅっ」
すると、そんな俺に後ろから航平が抱き着いて来た。さっきはつれない返事をしたと思えば、今度はいつもにも増して甘えん坊だ。
「航平、重いって。俺、薬箱片付けないといけないから、ちょっと待ってな」
「紡、怪我したの?」
「うん。ちょっとな」
「大丈夫なの?」
「大したことないよ。ただの擦り傷だ」
「ふうん。体育祭の練習激しいもんね」
「まあな。航平は今日はどうだった?」
「つまんない。演劇部で部活してる方がいいもん」
「それは俺も同意だ」
なるほど。部活がなくて調子が出ないのか。何ともわかりやすいやつだ。
「ねぇ、紡。紡は僕と一緒にいたい?」
航平はまだまだ甘えたいらしく、俺に乗せ付いて来る。仕方がないなぁ。俺は薬箱を片付けるのを一旦やめ、ベッドの上に航平と二人で寝転がった。航平は俺にギュッと抱き着き、
「どう思う?」
と答えを催促する。
「そりゃ、一緒にいたいよ」
「じゃあさ、僕がもし、遠い場所に行かなきゃいけないかもってなったら、どうする?」
「遠い場所? お前が遠い場所なんかに行く訳ないだろ。だって、お前の家族がどんな遠くに引っ越そうが、お前にはこの寮の部屋があるんだ。少なくとも、ここを卒業するまでは、何処にも行くことないだろ」
「それはそうだけど、例えば、聖暁学園を卒業した後に僕が外国に留学に行くとかなったら、紡はどうする?」
「はぁ? お前が海外留学? ないだろ、そんなの」
「もしもの話だよ!」
「そうだなぁ。お前がどうしても行きたいって言うなら、俺に止める権限なんかないだろ」
「そう……。ふうん。まぁ、そうか」
航平はわかったのかわかっていないのか、微妙な反応を返した。何を考えているんだろうな、この小さな子どもは。そんなことより、俺の奏多に対するむかっ腹はいまだに収まらない。俺は愚痴を航平にぶちまけた。
「そんなことよりさぁ、聞いてくれよ。俺、あの奏多と全部の競技でペア組まされるんだぜ。勘弁して欲しいよな。あいつのせいで今日こけて膝擦り剥いたの。薬代請求してやりてえわ」
「へぇ。何の競技でペアになった訳?」
「組体操に騎馬戦に二人三脚! ありえねぇだろ。三つだよ、三つ! 今日なんか、いきなり二人三脚やれって言われて、あいつと足を紐で結んで、肩組んで走らされたの。マジでありえねぇから。あいつ、最初から俺に敵意丸出しでさ」
「その割には楽しそうに西条くんの話するじゃん? 本当は今でも仲いいんじゃないの? 何だか、一緒に体育祭やれて嬉しくて仕方がないって感じ」
奏多への不満をぶちまける俺に、航平はそんなとんでもないことを言い出した。
「はあ? んな訳ないだろ! あんなやつと一緒にさせられて、俺は大迷惑だよ。大体、何だ、あいつ。俺のことバカにし過ぎだろ。あいつ、俺のことノロマなんて言って来やがったんだぜ?」
航平はププッと吹き出した。
「ノロマは言えてる」
「航平! お前、あいつの肩持つのか?」
「違うよ。でも、紡が足遅いのは事実じゃん?」
「う、うっせぇよ。これでも、演劇部入って、毎日の走り込みで少しは速くなったんだからな」
「確かに、最初は3キロだって走るの死にそうになっていたもんね」
「それは言ってくれるなよ。今の俺は10キロだって走れるぜ」
「早歩きの方が速いくらいのスピードでね」
「航平!」
俺と航平はそのままベッドの上でプロレスごっこをしてじゃれ合った。普段通りの生意気で元気な航平が戻って来たようだ。いつもの航平がそばにいてくれるだけで、俺は安心するぜ。奏多との不快な出来事も一瞬で吹き飛んでしまう。航平は俺にとって最大の癒しだ。遠くになんか絶対行かせねぇよ。遠くに行かれたら、俺、生きていけねぇもん。ま、そんなこと言わなくたって、こいつはいつでも俺のものだ。これから高等部を卒業するまで、部屋替えもないし、航平の寝るべきベッドはこの部屋にしかないんだからな。
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