第9場 百合の毒にご注意を

 俺はこの上ない達成感と心地よい疲労感に浸りながら、制服に着替え、帰り支度を整えていた。その時、


「ねぇ、紡くん」


という声と共に莉奈ちゃんが俺を手招きしていた。俺は彼女に駆け寄った。今日の芝居が成功したのも彼女のおかげだ。彼女が俺に恋愛感情を持っているかどうかなど、俺にはもう大した問題じゃない。同じ高校演劇部の部員同士として仲間意識のようなものを覚えていた。


「莉奈ちゃん、今日はありがとう。発表会が成功したのは、莉奈ちゃんのおかげだよ」


俺が彼女に礼を述べると、莉奈ちゃんは笑った。


「そんなことないって。わたしはちょっとアイデアを出しただけ。紡くんがリーダーシップを取ってわたしたちの作品創りをまとめてくれたからだよ。それに、今日一番盛り上がったのは紡くんのお芝居だしね。紡くん、イケメンなだけじゃなくて、役者さんとしても才能あるんだね」


「いやぁ、そんな褒められると困っちゃうなぁ」


俺は照れ臭くなって頭をポリポリかいた。


「紡くんのこと好きになった女の子、今回のワークショップでたくさんいるんじゃないかな」


「あはは、そうかな? でも、俺には……」


「航平くんがいる、でしょ?」


そう言うと、莉奈ちゃんは俺の手を握って自分の方へ引っ張った。まるでハグする寸前まで俺たちの距離は近づく。え? もしかして、莉奈ちゃん俺に告白でもするつもりなのかな? 俺の心臓がドキドキ波打つ。


「ねぇ、本当に紡くん、女の子と付き合うつもりはないの?」


莉奈ちゃんが俺にそっと囁く。俺はドギマギしながらも頷いた。


「ないよ。俺は今航平以外の子と付き合うつもりなんてないから」


「じゃあ、もし、女の子が誰か紡くんに告白して来たらどうする?」


「そりゃ、断るよ」


「航平くんともしも別れた後だとすれば?」


「は? 何言って……」


莉奈ちゃんはとうとう俺をギュッと抱き寄せた。俺の鼓動は一気に速くなった。


「どう? こうされてドキドキする?」


「し、しねえよ。する訳ないだろ」


「嘘。声が上ずってる」


莉奈ちゃんは小悪魔な笑い声を上げた。


「ねぇ、わたしね、紡くんのこと……」


ダメだ。これ以上のことは。俺は思わず莉奈ちゃんを振りほどいた。


「ごめん。俺、莉奈ちゃんの想いに応えることはできないんだ。友達以上の好きにはなれない」


俺はそう莉奈ちゃんに叫んだ。だが、莉奈ちゃんは微動だにせず、俺に笑いかけている。その莉奈ちゃんの口から飛び出した言葉は俺の予想に真っ向から反するものだった。


「わたしが紡くんのことを好きだって? 勘違いしないでね。わたし、あなたのこと大っ嫌いだから」


へ? 俺は今莉奈ちゃんの口から出た言葉が理解できずに固まった。俺のことが大嫌い? 嘘? 何で? だって、今までの莉奈ちゃんの行動や言動のどこに俺を嫌悪する要素があったというのだろう。しかし、莉奈ちゃんの顔には今まで湛えられていた笑顔は既になかった。彼女の視線は冷たく俺に突き刺さり、俺に対する嫌悪の念が痛い程伝わって来る。


「あんたを今日最低な男の役にしたのも、最後に振られる役にしたのも、全部あんたが嫌いだったから。あんたなんかあんな感じで振られてしまえばいいのに。だから、あんたを嫌な役にして、あんたが最低な結末を迎えるようなストーリーにしたの。それなのに、今日一番の歓声なんか浴びちゃって、本当にムカつく」


「いや、どういうことだよ。俺、全然わからないんだけど」


莉奈ちゃんの俺に対する憎しみに満ちた言葉に、俺は困惑するばかりだ。すると、莉奈ちゃんは俺の胸倉をつかんだ。


「もう二度と、皆月葉菜に近づかないでくれるかな?」


え? 何でそこで葉菜ちゃんの名前が出るの?


「な、何でだよ。葉菜ちゃんは俺の幼馴染で、保育園の時から一番仲が良かったんだ。せっかくこの合宿で再会したのに、それが何か問題あるのか?」


「大ありなんだよ! あんたがあの子に近づくとね、あの子が傷つくんだ。その鈍感でノー天気で人の心を少しも理解できないあんたのせいでね」


「は? 俺が葉菜ちゃんに何したって言うんだよ」


「その自覚もないのね」


そう言うと、莉奈ちゃんは俺の胸倉を乱暴に突き放した。


「まぁ、いいわ。あのチビで五月蠅い航平とかいう彼氏のことだけ見ていればいいんだよ、あんたは。葉菜に近づかなければいいだけ」


俺はその航平への言葉にカッと来た。


「ちょっと待てよ。確かに航平は小さくて五月蠅いやつだ。だけど、あいつのことを悪意をもってそんな風にバカにするのは流石に許せねえよ」


俺が莉奈ちゃんに詰め寄ると、彼女はひるまずに俺を睨み返した。


「へぇ。随分仲のいいことで。だったら、もうあんたに用はないわ。二度とわたしたち百合丘には近づかないでね。愛しの航平くんとお幸せに。じゃあ、さようなら」


 莉奈ちゃんは踵を返して向こうに歩いて行ってしまった。百合の球根には毒がある種類があるのだという。一見綺麗な百合の花の根底には、触れたらいけない爆弾が潜んでいる。薔薇は見える部分に棘があり、その危険はわかりやすい。だが、百合は見えない部分に危険が潜む。どうやら、女心の触れてはならない部分に俺は触れてしまったらしい。だが、わかりやすい表面的な棘以外の武器を持たない俺に、掘れば掘る程危険であろう百合丘の二人の真相について、それ以上詳しいことを探ることはできなかった。

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