第5場 やっぱり「普通」がいい

 俺が航平を愛する役を舞台上で演じる。飽くまでも役柄での話なのはわかっている。現実ではない世界での話だ。だが、航平と見つめ合い、愛を囁き、抱き合ってキスをする。そんな役を俺が航平と演じなくてはならない。俺の手がブルブル震え出した。


「で、できない……」


「つむつむ?」


部長が俺の異変に気付いたらしく、俺の肩に手を置こうとした。


「できません! こんな役、俺には無理です。俺、もう演劇部辞めさせてもらいます!」


俺はそう叫ぶなり、その場から駆け出した。


 俺には無理だ。絶対こんな役を演じるなんてできっこない。ただでさえハグだのキスだのといったラブシーンを演じるなんて抵抗があるのに、その相手が男。しかも航平と来たのだ。俺は寮の部屋に飛び込むとベッドに潜り込んで頭まで布団を被った。ずっと楽しみにしていたはずの台本。早く立ちたかったはずの舞台。でも、俺はこの役で舞台に立つことはできない。


 いや、でも何故俺はこんなにもこの役に、この台本にここまで動揺しているんだろう? 男同士の恋愛物だからか?


 俺は少しずつではあるが、ただでいることだけを志向する自分自身から脱却しつつあった。俺の理想とするのレールから少し外れても、充実した時間を過ごせることが少しずつ分かって来ていた。でも、ここでこの役を演じることで、俺のある本心に真っ向から向き合うことを要求される気がしたのだ。航平のことを、「友達」としてではなく、「恋愛」としての「好き」な感情で見ていることを。


 だが、俺がその気持ちに向き合った瞬間、俺の中のの根幹が音を立てて崩れ去る気がした。そもそも、男が男を好きになるなんて、そんなことを認めれば、世の中のから決定的に俺があぶれたことに烙印を押すことになる。将来描いていた結婚して家庭を築くという人生の青写真も全くの無に帰してしまう。俺の価値観の全てが脆くも崩れ去ってしまいそうなことが怖い。


 俺はもしかしたら、でいたいと思っても、最早に戻ることができない所まで来てしまったのではないか? でも、俺は飽くまでも抗いたかった。ちょっとくらいの道を踏み外すことがあってもいいと思ったことは確かだ。だが、完全にでなくなることを受け入れるほど、俺はから逸脱することを望んではいなかったのだ。


 しばらくして航平が部屋に帰って来た。今日は航平と相部屋であることを恨むよ。


「紡、本当に演劇部辞めちゃうの?」


航平が心配そうに俺に尋ねた。


「辞める。あんな台本演れない」


「今まで大会でBLをやることになっていたのを黙っていたのは謝るよ。騙すようなことをしてごめんなさい。でもね、僕、紡とだったら、絶対最高の作品にできるんじゃないかって、中等部の時から思っていたんだ。紡には、他の子にはない魅力があるんだ。だから、紡と同室になるって知った時、僕、奇跡が起きたんじゃないかと思ったよ。だから、考え直して貰えないかな?」


中等部の時から? 中等部の俺なんて、平凡そのものの一特進クラスの生徒だったはずだ。特進クラスの中でも目立つ方じゃなかったし、部活にも所属せず、を絵に描いたような一男子中学生だと自分では認識していたが。でも、本当は航平の言葉が最高に嬉しかった。だが、俺はどうしても自分の心に正直になれず、つっけんどんに言い返した。


「俺の魅力ってじゃあ何だ? ってやつか?」


「それもそうだけど……。でも、もっと紡には他にはない魅力があって……」


「俺は普通でいたいんだよ。魅力なんてなくてもいい。男同士の恋愛を演じさせられて、普通でいられなくなるくらいなら、俺は平凡に生きていきたいんだ」


「何それ。その言い方ちょっとムカつく」


航平が珍しく不機嫌そうになったことに俺は少し心がざわついた。


って言うけど、紡の基準でじゃない人のこと、紡は傷つけても平気なんだね。何か、紡、僕の思った人と違った。もういいよ。紡、演劇部辞めたいなら辞めれば? 僕も紡と芝居なんかしたくない」


航平の声にいつもにない怒りが満ちていることに、俺は気が付いた。あのいつも明るくて可愛いだけだと思っていた航平が、こんなに怒りをぶつけて来るなんて想像もできなかった。だが、何よりも、俺と芝居したくないと言われたことに、俺は傷ついていた。俺の方から芝居ができないと言い出したにも関わらず、だ。


「ふうん。そうか。じゃあ、もう俺が演劇部辞めることに異論はないよな。俺と芝居したくないんだったら、俺が辞めて良かっただろ? 俺はお前のただのルームメイトに戻る……」


「紡、最低!」


俺が売り言葉に買い言葉で言い返そうとすると、航平が俺の顔を平手で殴った。


「航平! 何するんだ!」


俺も思わず声が大きくなる。だが、航平はそのまま部屋を飛び出して行ってしまった。俺はただ一人部屋に残され、行き場のない怒りをベッドの上で枕にぶつけた。


 この日、俺は航平とルームメイトになって初めて別々に食事をし、風呂に入った。俺の前ではしゃぎながら飯を食い、互いの背中を流し合って並んで浴槽に浸かる。そんな日常が当たり前になっていた俺は、事あるごとに航平の姿を探してしまう。でも、航平は俺のそばにはいなかった。夜になると、航平はどこへ行くとも告げず、部屋を出て行ってしまった。友達の部屋にでも泊めて貰うつもりなのだろうか。


 こんな生活を、俺は当初は望んでいたはずだ。うるさい航平がすっかり俺のそばに寄り付かなくなり、俺は俺の時間を持てる。勉強も集中し放題だ。この分なら、航平が静かな間に猛勉強をし、特進クラスに次の試験の後返り咲くことも夢じゃない。


 でも、俺は一向に勉強をする気が起きなかった。勉強どころか、何をする気力も起きなかった。俺は秘かに期待していた。


「やっぱり、僕、紡の横が一番落ち着くんだ」


とか言って、部屋に航平が戻って来るのを。しかし、その夜、いくら待っても航平が戻って来ることはなかった。俺は航平とのルームメイトとしての関係は切れないものだとばかり思っていた。だが、それは俺の見当違いだったらしい。


「航平……」


空っぽの航平のベッドを眺めていると、思わず涙が零れそうになり、俺は寝返りを打った。俺の目の前には可愛くて温かい航平の背中の代わりに、冷たく白い壁がそびえ立っている。


「寂しいな」


俺は思わずそう呟いた。航平の笑顔が見たい。航平の笑い声が聞きたい。航平の小さくて温かな手を握りたい。そんな願いが叶うことは今後二度とないのだろうか? 俺は眠れぬ夜を過ごした。

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