第2場 「普通」って何?

 演劇部の自主公演を終えた俺は、ゴールデンウイークにしばらく家に帰り、家族と過ごす時間を久しぶりに得た。家に帰って一息つくと、演劇部に熱中する余り、俺の実力テストへの準備は手付かずだったことに気が付いた。まぁ、でも、まだ実力テストまでは一か月あるし、これからは部活の頻度も週三回になるし、何とかなるか。そこで俺はふと毎日部活ができないことに一抹の淋しさを覚えた。高等部に進級してからの一か月間、放課後演劇部にいることが普通の感覚になっていたからな。自主公演も終わって、航平と台本を読み合うこともなくなるんだよな……。


 俺は演劇部の活動や航平との交流の方が、今ではずっと勉強より好きになっていた。演劇部は充実しているし、航平と一緒の時間は楽しい。正直、ここで実力テストに失敗して特進クラスに返り咲くことができなくてもいいような気がしていた。航平は「一夜漬けでちょちょいのちょい」と言っていたっけ。まぁ、いざとなったら「ちょちょいのちょい」でどうにかなるかな。


 俺が勉強をしていると、海翔が俺の部屋のドアを半開きにして、ちょこんと顔を覗かせた。


「兄ちゃん、特進クラスどんな感じ?」


俺はドキッとした。特進クラスから普通クラスになったことは、家族には内緒にしていた。普通クラスでの学校生活は楽しかったが、特進クラスから降格になったという事実を家族に伝えることはどうしても俺の中のプライドが疼いて出来ずにいた。特に、この海翔に関しては、もし俺が普通クラスに落ちたことを知られたりすれば、更に俺の兄としての威厳が損なわれかねない。そんな海翔が、まるで俺がもう特進クラスにはいないことを見透かして、揺さぶりをかけるような質問を投げかけて来るとは。海翔にそんな気はないのだろうが。いや、でも、海翔は鋭い所があるからな……。


「普通だよ、普通」


俺は努めて冷静を装って返事をした。


「何それ? 何か楽しかった出来事とかないの? ほら、親友の奏多くんの話とかさ。前はよくしてくれたじゃん?」


奏多の話まで出すなんて! 俺が一番触れて欲しくない部分なのに。


「はぁ? そうだったっけ。別に普通だよ」


「兄ちゃん、何でもになるんだね」


「悪いかよ?」


「別に? 悪いなんて言ってないけど」


ふぅ。何とか海翔の際どい質問を切り抜けたぞ。だが、そのまま俺の部屋を出て行くだろうと思っていた海翔は、部屋の中まで入って来た。そして、俺のベッドの上に腰掛けて居座ってしまった。


「おい。俺、勉強中なんだけど。邪魔すんなよ」


俺は海翔を追い出そうとしたが、海翔は俺の要求には何も答えず、ただ俺のベッドの上に座って俯いている。


「それ、俺のベッドなんだけど。座るんだったらお前の部屋に帰って、お前のベッドの上に座れよ」


それでも海翔は動かない。俺は困ってしまった。暫く海翔は黙っていたが、ガバッと顔を上げると、いつになく真剣な表情で俺に質問を投げかけて来た。


「ねぇ、兄ちゃん。兄ちゃんはいつもの人生送りたいって言ってるじゃん」


ずっと黙っていた海翔がやっと話し出したと思ったら、今度は人生相談か? 今日の海翔はいつもと少し様子が異なる。


「あぁ。そうれがどうかしたのか?」


ってそんなに大事?」


「は? 何言ってんだ、お前」


「じゃあ、もしもだよ? 僕が兄ちゃんの思うじゃない人だったらどうする?」


「そんなことってあるか? お前、そんなに変人だったか?」


「そういうことじゃなくて! 真面目に答えてよ」


海翔の真剣な瞳が一心に俺を見つめて来る。


「そんなこと言われてもなぁ。お前がいいなら別にいいんじゃねえの?」


「ふうん。じゃあ、兄ちゃんは僕のこと拒絶したりしない?」


「何の話だよ? 海翔は海翔だろ。俺が拒絶するもしないも、お前が俺の弟であることに変わりはないんだし」


「じゃあ、拒絶はしないってこと?」


「まぁ、しないんじゃないかな」


「ふうん」


海翔はそう言ってまた俺の目をじっと見つめて来た。海翔の真っ直ぐな目線を見ていると、だんだん俺は居心地が悪くなって来た。


「俺、今は忙しいんだ。もう、これで気が済んだだろ? 海翔も早く部屋に帰れよ」


と言うと、海翔を部屋から追い出した。


 何だ、あいつ? いきなり「兄ちゃんの思うじゃない人だったらどうする」と言い出すとか、何を考えているんだか。あいつはどこからどう見てもの弟だろ。俺だって平々凡々な男子高校生なんだから。


 いや、待てよ。俺は自分のことをだとばかり思って来たが、俺が航平に抱きつつあるこの感情。いや、航平だけじゃない。嘗て、奏多に抱いていた想いも、頑なに自分の心に向き合おうとして来なかったがために気が付かなかっただけで、全く航平に対するものと同じであることを俺は既にわかっていた。これってのことなのだろうか。そもそもって何だ? 


 いい大学に現役合格し、上場企業に就職し、結婚して、子どもができて、幸せな人生を送る。俺はそんな人生を漠然と望んでいた。そのために、聖暁学園に入学してから勉強一筋で生きて来たし、これからもそうするつもりだった。でも、今、航平と出会い、演劇という世界を知り、俺の中の理想として抱いて来たが揺らぎつつある。俺はこれからもでいたい。だが、本当にでいいのだろうか。のレールの上を歩いて行くことが俺にとってベストな選択となるのだろうか。


 俺はよくわからなくなっていた。と思い続けて来た中等部時代の三年間だったが、今の、俺の理想とするから少し外れた生き方が今までの人生の中で一番楽しい。だったら、俺がに戻る理由ってどこにあるんだろう?


 俺はシャープペンを片手に机に向かってはいるものの、勉強することを完全に忘れ、悶々と物思いに耽り続けていた。

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