第三幕 もう退部!?俺の決断
第1場 芝居は異空間を創り出す
一か月の稽古の期間はあっという間に過ぎ、とうとう自主公演の本番の日を迎えた。俺は本番の日の朝からワクワクとドキドキが止まらなかった。自分が出演する訳でもないけれど、これでも一緒に一か月間の稽古をやった作品だ。どうしても愛着も出て来るし、何なら、今日でこの作品ともお別れになるのがちょっと寂しい。
でも、そんな感傷に浸っているのも、寮を出るまでだった。まず、大道具や小道具を劇場まで運搬し、仕込みをする。部長が予め照明と音響のスタッフとして応援を要請していた友達二人が合流し、調整をしながら、役者の大まかな立ち位置を示す蛍光色のテープを舞台に貼っていく。
照明や音響を含めた最終調整が終わると、一通り通しで芝居を演じる最後のリハーサル・ゲネプロが始まる。本番さながらの先輩たちの熱の入った演技が、初めて本番の舞台で、本番の照明や音響と共に形になる。俺はそんな先輩たちの姿を見ているだけで、胸がときめくのを感じた。
「航平、俺たちもいつか、こうやってスポットライトの下に立つ日が……」
俺がそう言いかけると、航平が舞台を真っ直ぐに見つめたまま、俺の手をギュッと握って、
「うん。来るよ、必ず」
と返した。その俺より一回り小さな航平の手の感触が愛おしくて、俺は思わずその手を握り返した。航平が「え?」という顔で俺を見上げた。
「何だよ?」
「あ、いや……ううん。何でもない」
「そうか」
俺たちはそれ以上の言葉を交わさなかった。俺には今航平に対して抱いている感情をどう言葉にすればいいのかわからなかったし、航平は航平で心なしか赤く染めている頬が、舞台が明転する度に舞台を照らす照明から反射する光によって照らされていた。俺はこの時間が永遠に続けばいいと思っていた。航平が隣にいて、客電が落とされた暗がりの客席で、航平がはにかんだ表情を浮かべながら俺と手を取り合っている、そんな時間が。
俺の心がどれだけの幸福感で満たされているのか、航平がわかっているのかどうかはわからない。いや、わかって貰わない方がいい。今の俺の気持ちを、俺は俺以外の誰にも知られたくなかった。この公演が終われば、俺たちは日常へと戻っていく。俺の日常において、航平をただの一ルームメイト以上の存在と見做すことなどありえない。
俺は部活には思わぬ形で入ってしまい、自分でも予想しなかったくらいにはハマり込んでしまっている。でも、そんな普通の高校生は全国にいくらでもいるだろう。しかし、俺がこの航平に抱いている感覚は、きっと俺を普通ではいられなくしてしまう。俺は普通でいたい。普通の人生を歩みたい。
演劇のステージを見ていてわかったことが一つある。舞台の上は、物理的にはただの木の板があり、高校の演劇部らしく安っぽい張りぼての大道具が置かれ、上から吊るされた照明器具が強い光を放っているだけの空間だ。だが、その上で自在に動き回り、声を張り上げてセリフを言い、笑って怒って時には泣く役者たちを見ているうちに、そこは異空間へと変わる。更には、その劇場全体、客席に座る観客を含めたその空間が、外とは隔絶された小さいけれど、確実にそこに存在する一つの世界へとなり変わるのだ。
本番の舞台を観ながら、舞台での先輩たちの芝居、そしてその芝居の世界に没頭する観客の姿を見るにつけ、俺はその「異空間」感をより強く意識した。
俺は、本番の舞台を観ながらも、航平の手を握り続けていた。
その外と隔絶された空間の中にいるからこそ、俺は普通であろうとする自分のモットーを棄て、航平の手を優しく握ることができているのかもしれない。俺の今航平に抱いている感情と、舞台上で演じられている物語には何の関連性もない。ただ、その舞台上で演じられている物語の世界が、今この瞬間、この劇場全体を支配していることは確かだ。物語の世界の中であれば、俺も普通であることをやめてもいいよな?
俺があの客席の向こう側に立つ人間になった時に、もし、航平のことを特別な存在として見做す世界に飛び込むことが許されるのだとしたら、俺はどうするだろう? これから俺と航平が初舞台を踏むであろう大会の台本は恋愛物らしいが、もし俺が航平を愛する役をすることになったとして、航平を特別な存在として扱うことができるだろうか。俺は航平を俺にとって特別な存在として受け入れることを自分に許可するだろうか。芝居という、現実世界から隔絶された世界であれば、俺はもしかしたら、そこまで普通のレールを踏み外すことを自分に許してしまうかもしれない。
本番が終演し、大道具や小道具を片付けるバラシの作業に取り掛かった時、俺は一抹の淋しさを胸に抱えていた。もう、この空間はさっきまでの日常と隔絶された空間ではない。極々日常的な部員たちの笑い合う声が聞こえ、美琴ちゃんの部員たちへの指示が飛ぶ。そんな演劇部としての普通の日常だ。俺もいつまでも先ほどまでの異空間に心を残したままではいられない。俺の日常に戻らなくてはならない。普通の一介の男子高校生としての俺に。
でも、そんな俺に待っていた「日常」は、俺の予想とは真逆の方向へ急速に動き出すことを、この時の俺は知る由もなかった。
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