第7場 演劇って楽しそう

 発声練習は、部員全員で河川敷に出て行う。外の空気を思いっきり吸い込み、大声を出すのが、ストレス発散になって案外気持ちが良かった。その発声練習というのがまた面白い。


 まずは全員で「あめんぼの歌」というのを腹の底から叫んでいく。「あめんぼあかいなあいうえお」などという半分ふざけたような内容なのだが、これが案外楽しい。部員全員で声を合わせるからか、演劇部員皆に一体感のようなものが生まれる。同じ部活の仲間なんだと意識する。そうか。これが俺の新しい「仲間」なんだ。そう思うと心の奥が温かい。


 その後追加で早口言葉をしゃべり、滑舌を鍛えるのだが、これはもう、半分部員同士でふざけ合いながら遊び感覚でやっている。「赤巻紙青巻紙黄巻紙あかまきがみあおまきがみきまきがみ」ってやつを航平はいつも失敗するのだった。


「あかまみがみ……あれ? あかまきがみあおがきがみ……あれ? もう、腹立つ! あーかーまーきーがーみー、あーおーまーきーがーみー、きーまーみー……。もう嫌だっ」


「そんなゆっくり言ったら早口言葉じゃないじゃん。しかも間違えてるし」


航平は腹を抱えて笑い転げる俺に口を尖らせた。


「じゃあ、やってみなよ。つむつむだってうまくできない癖に!」


「いいよ、やってやろうじゃん。あかまっき……あれ? もう一回。あかがみかみ……おっかしいなぁ」


「ほら、つむつむなんか僕より言えてないじゃん」


「似たり寄ったりだよ。ゆっくりでいいから、まずは丁寧にやってごらん。焦ると余計に出来なくなるから」


喧嘩を始める俺たちを部長が宥めた。とはいえ、早口言葉を言えても言えなくても、こうやって航平が俺にじゃれついて来るのは悪い気はしない。いつも俺より優位に立ち、俺を振り回してばかりの航平が、珍しく四苦八苦する様子が見られるのも内心「しめしめ」と思いつつ、一方で何度もつっかえながらも一生懸命な航平がちょっと可愛かった。


「何、ニヤニヤしてんの? いいことあった?」


兼好さんがそんな俺に自分がニヤニヤしながら聞いて来た。俺は思わずテンパって顔を赤く染め、


「い、いや。何でもないです」


と言うと、慌てて早口言葉の練習に戻った。あぶねー。俺ってば、何ニヤケてるんだよ。航平なんて生意気なクソガキにニヤケるなんて、どうかしちゃってるよな、俺。


 だが、基礎錬を一通り終えると、気持ちのいい汗を流したことで、俺は身も心も軽くなった気分で爽快だ。航平へ感じたあの「可愛い」という感情は取り敢えず忘れよう。




 そして、ここまでで基礎錬が終わると、いよいよ、先輩の自主公演に向けた稽古が始まる。俺たちは稽古場となっている体育館のステージに移動した。


 ここからは美琴ちゃんも合流し、やっと演劇部らしい芝居の稽古が始まる。俺にも自主公演で使われる台本が渡された。自主公演は部員たちが自分たちで作成した台本でやることになっているのだが、それが意外に面白い。爽やかな青春ドラマで、誰もが憧れるような楽しい高校生たちの日常が描かれる。俺は思わずその台本を熟読し、描かれる世界観に浸ってしまった。


 だが、面白いのはこれだけではない。この台本に従って先輩たちが演技を始めると、一気にその場の空気感が変わる。さっきまで楽しそうにふざけ合っていた先輩たちの表情がガラリと変わり、この台本の世界が体育館ステージいっぱいに広がっていく。


 俺は思わず見とれてしまった。俺は今の出来でもこのまま本番を迎えてもいいと思うのだが、美琴ちゃんは容赦なくダメ出しを連発する。セリフ回しや間の取り方、表情の付け方に至るまで細かい指示が飛ぶ。その指示によって、先輩たちの芝居がどんどん表情を変えていくのが面白くて、俺はふと、


「俺も舞台に出たいな」


とつぶやいていた。そんな俺の不意に口をついて出た一言を聞いたのか聞いていないのか、美琴ちゃんの口角が少しだけ上がった気がした。


 それから、俺は最初あんなに嫌がっていた毎日の部活が楽しくてたまらず、自然に放課後は演劇部へと足が向くようになっていた。筋トレの翌日は、立つのもつらくなるような筋肉痛に襲われるのだが、それでも先輩たちの芝居を見るのが楽しみだった。先輩の芝居を見れば見るほど、俺もいずれは舞台に立ちたいという気持ちがどんどん膨れ上がっていくのだ。


 そうなると、筋トレや発声練習にも気合が入る。今、俺が舞台に立つためにできることと言えば、身体づくりと発声練習くらいだ。最初は文句タラタラだった筋トレやランニングも、少しずつ身体を動かした後の爽快感が辛さを上回るようになっていた。


 寮に帰ってからの自由時間や学校の休み時間も、俺は航平の教室に通い、二人でひたすら自主公演の台本を読み合っていた。俺は航平と一緒に先輩の役になり切って遊んだりしながら、自分が舞台の上に立っている姿を想像していた。


「つむつむ、最近めっちゃ頑張ってるね」


航平は普段でも俺を「つむつむ」と呼ぶようになっていた。普段、その呼び方をするのはやめてほしいのだが、航平に上目遣いでそう呼ばれると、なぜか怒る気になれない。それに「頑張ってるね」などと航平に褒められたことが地味に嬉しくて、俺は得意満面だった。


 そんなことをしている内に、俺も航平も自分が出る訳でもないこの台本をすっかり覚えてしまった。先輩がセリフに詰まった時など、まるでプロンプターのようにセリフを教えてあげたり、美琴ちゃんや部長に「演出助手」としての役職まで与えてもらっていた。いっちょ前に先輩たちにダメ出ししてみたり、演出のプランに自分の意見を言ってみたり、俺たちはどんどん積極的に芝居創りに関わっていった。俺のような演劇の初心者による取るに足らないような意見でも、先輩も美琴ちゃんも真剣に聞いてくれるし、俺がいい意見を出せば取り入れてもくれる。それがまた嬉しくてたまらない。


 言われていたチケットノルマってやつも、俺と航平は協力してチケットを売っていった。といっても、俺が航平に助けられてばかりだったんだが。航平には普通クラスの友達がたくさんいた。そんな友達の一部に俺のチケットを売ってくれたのだ。俺は普通クラスのやつとも少しずつ打ち解けていっていた。やつらは悪い奴らじゃない。むしろ、気さくで、フレンドリーで話しやすくて。俺はいつの間にか、普通クラスへ毎日通うことも楽しみに思うようになっていた。


 まぁ、その分、実力テストに向けた勉強は遅々として進んでいない。特に筋トレの日は寮に戻るとすっかり疲れ果て、夕飯と風呂を済ませるとすぐに寝てしまう。毎晩寮生が集まって行なわれる全体学習会でも船を漕ぎ、見回りの教師に何度も叱られた。そんな俺を航平はクスクス笑うのだったが、そんな航平も「笑ってないで勉強に集中しろ」と教師に頭を小突かれるのだった。いい様だ。俺をそうやって小バカにしているから足元をすくわれるんだぞ、バーカ!




「航平、俺、今結構楽しいかも」


俺はいつものように風呂場で航平の背中を流しながらそう言った。すると、航平はキラキラ目を輝かせて、


「でしょでしょ? 演劇部って楽しいよね!」


と俺の上に乗せ付いて来た。航平の裸の身体が俺の裸の身体に直接当たる。俺は股間が思わず反応し、


「ひっ」


と情けない声を上げた。


「あはは、つむつむの反応可愛い」


航平が喜んでキャッキャと笑う。こんなことをされたら、以前であれば思わず怒鳴っていた俺なのに、最近はそんな航平が愛おしく思うようになっていた。ずっと一緒に寝食を共にしているからなのか。演劇部で一緒に活動しているからなのか。正直、この感覚は嫌じゃない。航平との裸の触れ合いも嫌というか、むしろ、好き、かも……。俺はお湯を浴びたせいなのか、顔が火照って赤くなっていた。無性にこの目の前の航平を抱きしめたい衝動に駆られたが、そんないかがわしい行為をするわけにはいかない。俺はその衝動を何とか理性で抑え込んだ。


 俺は半分、いや、80パーセントくらいの割合で、自分のこの気持ちが何なのかを理解していた。でも、俺はこの時でもまだ、自分がでありたいという願望を心の片隅にではあるが、まだ残していた。俺はだ。だ。航平を抱きしめたくなるのは、「可愛い弟」を可愛がる感覚でしかないはずだ。決して、友達以上の何かの感覚をこいつに対して抱いている訳ではない。


 俺は気持ちを落ち着けようと咳払いをした。何か別の話題を出して、この感覚を忘れよう。俺はそう思って咄嗟にこう言った。


「あのさ、航平」


「何?」


「俺と二人の時は、その、って呼ぶの、やめてほしい」


「えー? なんで? だってって可愛いじゃん。部活の名前で呼ばれるの嫌?」


「いや、違うんだ。俺と二人の時は、その、二人の時だけの呼び方で呼んで欲しい」


俺は、なぜ航平にそんな要求をしたくなったのか、その理由は自分でもわからなかった。でも、航平と二人の時間は確実に俺にとって特別な時間になりつつあったのは確かだ。航平にとっても、俺との時間は特別であって欲しいと俺は秘かに願っていた。


「うーん、じゃあ、紡って呼んでもいい?」


下の名前で呼び捨てにされる。前にも一回だけされたが、どうも航平に「紡」呼びされるのはくすぐったい。でも、それも嫌じゃない。むしろ、もっと「紡」と呼んで欲しい。


「あ、ああ。いいよ。でも……」


いや、「紡いい」んじゃない。「紡いい」んだ。でも、そんな俺の本心は航平には秘密のままだった。

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