第6場 特進クラスは楽しい?
特進クラスから普通クラスに降格になったことへのショックはあまりにも大きく、入学式でどんな話がなされたのか、俺は全く覚えていない。気が付いたら終わっていた。とりあえず落ち着こう。俺は水道で顔を洗った。何度も何度も冷たい水を顔にかけ、心を落ち着けようとした。無心で顔に冷たい水をかけていると、ほんの少しだけ気が紛れるような気がした。しかし、
「わっ!」
と、背後から俺に大声と共に背中を叩き、せっかく少し落ち着いて来た俺の心を驚かせ、かき乱したのは、他でもない。あの航平だった。
「顔なんか洗っちゃってどうしたの? 今朝顔洗い忘れた? あ、顔洗う時は、ゴシゴシこすったらだめだよ。洗顔料を泡立てて、なるべく指や掌で顔を直接こすらないようにしないとね」
「お前、本当にいい加減にしてくれよ! 俺は今、航平に構っているどころじゃないんだ」
「おっと、ちょっと今日の紡くんはイライラモードかな?」
「あぁ、とってもな」
「ええ? 何で? 僕たち、せっかく高校生になれたんだよ? もっと喜ぼうよ、この人生に一回きりしかないこの瞬間をさ」
一回きりしかないこの瞬間だって? そうだよ。俺にとっても、この高校に入学するという人生に一回きりの瞬間は、特進クラスを追い出されたという知らせが飛び込んで来たことで台無しになったんだ。
「喜べるわけねぇだろ。こんな入学式の日なんて最悪最低だ」
「最悪最低ってそこまで言う? 変な紡くん」
「とりあえず、今日は一日、俺のことは放っておいてくれ。航平と話す気にはなれないから」
「僕は紡くんともっと話をしてみたいなぁ。せっかく同室になったんだしさ。それに、何か悩み事があるんだったら聞くよ?」
そう言って航平は俺の顔をまっすぐに覗き込んだ。その航平のつぶらな瞳に、俺は昨日航平がグミを食べたり、一緒に風呂に入った時に感じた、あの胸の鼓動の高鳴りを感じた。俺は思わず航平から目をそらせた。
「ねぇ、紡くん、僕と同じクラスになったの嫌? 僕は紡くんと寮の部屋で同じになって、新しく知り合えて、クラスまで一緒になったの嬉しいけどな。紡くん、朝からずっと嬉しそうじゃないの、僕と一緒のクラスになったから?」
航平はそんなことを言って、平気で俺の心の傷をえぐって来る。俺は沸々と怒りがこみ上げて来た。
「ああ、そうだよ。俺はな、本来ならお前なんかと同じクラスになる予定じゃなかったんだ。俺は中等部で三年間特進クラスだったんだ。普通クラスに一度も降格したことなんかない。何で……何で高等部に進級した途端、普通クラスなんかに行かされるんだよ! ありえない。俺が普通クラスなんかに何で落ちなきゃいけないんだよ!」
俺は怒りに任せてそう怒鳴り散らした。そんな俺の姿を航平はただ真顔で見つめていた。そして、
「特進クラスね……。ねぇ、そんなに特進クラスって楽しい?」
とポツリと呟いた。その航平の一言に俺は困惑した。
特進クラスが楽しいかどうか。そんな質問をされたのは俺は初めてだった。楽しいかどうかなんて、今までの俺には関係のない話だった。ただひたすらに、勉強を頑張り、特進クラスに居続けることを目標とし、勉強に打ち込んで来たのだ。そこに「楽しさ」が介在するかどうかなど、問題の本質には何ら関係のない
「紡くんが特進クラスにいることが楽しかったのなら、特進クラスから普通クラスになったの嫌だって思うのはわかる。だけど、普通クラスを見下しているんだったら、それは違うよ。普通クラスは楽しいよ。僕は少なくとも、今までずっと普通クラスで満足してる」
と言った。
その一言も俺の心にグサッと刺さった。確かに俺は普通クラスの連中など、俺より下の存在だと見下していた事実を今更ながら自覚した。上っ面では下のクラスの生徒たちを馬鹿にするのは道徳的によくないと言いつつ、特進クラスから普通クラスに降格されそうになった今、これほどまでに焦っているのは、結局普通クラスを見下していたからに他ならない。内心見下していたやつらと同じレベルに堕ちることが俺のプライドとして許せなかったのだ。
平凡な人生を送りたい。その想いは変わらない。ただ、その凡人たちの中でも、平均よりは上の
「そろそろホームルームの時間だ。そろそろ僕は教室に帰るよ。普通クラスの一組にね」
航平は黙って立ち尽くす俺を置いたまま、自分の教室に向かって走って行ってしまった。
「特進クラスで楽しかったに決まってるだろ……」
一人取り残された俺のつぶやきが虚しくその場に小さく響いた。
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