第3話 ロレッタ
この豪華客船のパーティーホールは天井がガラス張りで、今は支えていた鉄の枠組みだけが錆びついて残っている。遠い海面から太陽の光が射し込み、作り込まれた彫刻や白を基調とした装飾が暗闇から浮かぶ。
そのホールの中央。最も明るいその場所に一人の女性が立っている。僕らと同じ仲間ではあるけれど、どこか違う、空色のドレスを身に纏い、長い黄金の髪が彼女がふわりと回って踊るのに合わせて舞う。
ロレッタ。
僕らの、女王。
裸足の足がホールの、今なお白い床を跳ねる。靴は失くしたらしい。
彼女の踊り舞う光景を、壁に凭れかかるように、あるいは踊り場から、または、階段に座り込むようにして無数の仲間が囲む。
コック長のイヴェット、給仕係のナタリア、バーテンダーのモージズ、フロントのエマとリッカ、ディーラーのウォーレス、他にもたくさん。
ここには豪華客船で働いていたロボット全員がいる。全て、ジーンが連れてきた。
彼らを全員弔う、葬送の舞をロレッタは舞う。水の中で舞うことなど彼女は知らないはずだったが、彼女の舞は人魚でさえ難しい。しかし、どこかぎこちない。黄金の髪が太陽の光を反射して輝き、空色の、海の青さから白くも見えるドレスが飜る。どこか荘厳で神秘的な女王の舞。
彼女が僕らの女王なのは、《アンドロイド・ムーサ2.0》のムーサがギリシア神話の文芸の女神達の名で、彼女の為に名付けられたものだからだ。この豪華客船は彼女を際立たせる為に存在し、僕らも彼女の、そして彼女を目当てに参加する人の為にいる。だから、僕らの女王。
その女王が僕らの前に降り立ち、空色の瞳と目が合った。そして、言う。
「踊りましょう」、と。
†
僕が初めて女王と対面したのは、物好きな人に連れられていった船内パーティーだった。そう、ジーンに嫉妬を覚えたあのパーティーだ。
なにせ、僕の仕事は本来、談話室から出ることはないからだ。
そのパーティー会場で、彼女は踊り続けた。それが彼女の役目だったからだ。人から誘われ、あるいは誘って、パーティー中永遠に。そんな中で、ロレッタは僕のことも誘った。
「踊りましょう」
そう言われて僕は断るすべを持たなかった。
「僕で良ければ喜んで」
そう僕は言って、ロレッタとワルツを踊った。足を踏まないようにするのが手一杯で楽しむどころでは無かったけど。僕の仕事は会話をすることだ。だから、踊り方は知っていても、実際に踊ったのは初めてだった。ジーンは完璧に踊りやがったけれども。
それは置いておいて、僕は豪華客船に乗る人々と同じように彼女の虜になる。一曲の最後の方になれば流石に僕も慣れて彼女とのワルツを楽しめるようになっていて、思いのほか近い彼女の方に意識が向いた。白い透き通るような肌。惹きつけるような空色の瞳と左目の下にある泣き黒子。数多くの照明に照らされて輝く黄金の髪。そして、踊る時、彼女は無邪気な笑顔を見せる。まるで純水無垢な少女みたいな。しかし、フィルとは違う少女の中にある女性の高貴さと時折見せる伏せ目がちな笑みの妖艶さが周りを魅了し、心というものがないはずの僕でさえも彼女に魅了された。フワフワと浮ついた、夢みたいなひとときだった。
僕はロレッタと話がしたくなった。しかし、慣れたと言ってもステップを踏む中、会話を切り出す余裕はない。一曲踊り終えた後、彼女は人に誘われワルツの輪に戻っていく。
そして、僕はあることを決断する。夜に会うことにした。もちろん忍び込んで。
それを実行したのは、招かれざる客が来た次の日だった。なにせ、僕はロレッタについて知らない。僕らの女王でムーサの名を冠することになった由縁を持つという基本的なことしかわからず、真夜中どこで何をしているかなんて知らない。ただの清掃員でしかないフィルは論外で、僕が相談できる相手は仲間の中でジーンだけだった。
結論として、僕はロレッタに会うことができた。何で、ロレッタが真夜中にパーティーホールで一人で歌い踊っていることを、ジーンが知っていたのかはわからなかったけど。何だったら警備員の位置やら交代の時間やら何から何まで知っていて、僕は引っ張られるだけだった。何なんだ。
ロレッタと毎晩のように会った。毎度毎度、踊りに誘われて話にならないからだ。会えば会うほど彼女が気になってしょうがなかったし、僕は踊れば踊るだけワルツが上手くなって、余裕で話を切り出すことができるようになったけど、何を聞いても彼女は微笑みを返すだけだった。
でもその中で、僕は一度思ったことがある。ロレッタは踊って歌うこと以外をしなかった。それしか知らないみたいに。ムーサは文芸の神々の名だ。踊りと歌う以外にもあるだろうと。まるで、女王というよりは姫みたいだなと、そう思った。純水無垢に踊って歌う姫君。
ある日、踊って流石にエネルギー切れを起こしかけた時聞いたことがある。
「君は女王なのか」
その問にテラスの手すりに凭れていたロレッタは踊っている時と同じ微笑みを見せた。
†
「踊りましょう」
ロレッタが初めて会った時と同じように口が動いた。
「僕で良ければ喜んで」
僕も同じように口が動いた。
最初の時よりはだいぶ上手くステップを踏んだ。何度も彼女と踏んだステップだった。
観客にフィルが加わる。彼女はいつまで踊るのだろうか。
海の水底で踊るワルツはとても踊りにくくて、腕の中で淡い笑みを浮かべるロレッタを見ながら、この時が永遠ならいいのになんて、そう思った。
その水底のワルツが何度も何度も踊ったロレッタとの最後のワルツになった。
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