第5話 驚かす女
日高夏菜は自転車通学していたが、この日は、朝、自転車に乗ろうとしたら、後ろのタイヤの空気が抜けていた。前日帰りにちょっと気にはなっていたのだが、やはりパンクしていたらしい。今からバス停に向かったのでは間に合わず、母親に泣きついて学校の近くまで車で送ってもらった。
と言うわけで帰りはバスだった。
例によって級友たちと教室でおしゃべりして、そのおかげで下校ラッシュをやり過ごし空いたバスに乗ることが出来た。
バスは学校前からいったん中心街に出て、家の方面行きに乗り換えなければならない。
たまのバスなのだから、ちょっとお店巡りでもしていこうかな、と楽しく計画していると、妙な気配を感じて視線を巡らせた。
反対の列の、少し前の座席に座っている女子学生がこちらへ顔を向けてじっと見ていたが、夏菜が見ると、すっと前に向き直った。
着ている制服から、手前のバス停の、別の高校の生徒だったが、知らない女生徒だった。
……知らないはずだ、と思うが、どこかで会っただろうか? 同じ中学? 小学校?
考えていると、またこちらを見ていて、
『何?』
と顔をしかめると、向こうはぞっとしたように前を向いた。
なんだと言うのだろう?
バスを降りたら声をかけて訊いてみようか、と思っていると、その女子は途中のバス停で降りていってしまった。
宙ぶらりんな感じで、非常に気分が悪い。
目的の中心街で降りると、デパートのおしゃれなショーウィンドウにパッと気分が明るくなり、人の群れに入って歩き出した。
流れのままにデパートに入って、お気に入りのアパレルショップをチェックしようか、学生服で目立つのもなんだから文具店にしようか、と思い巡らせていると、エスカレーター手前の柱が鏡になっていて、自分の顔が映っているのが目に入った。
瞬間、ハッと目を逸らし、そのままエスカレーターに乗った。
何か、変な物が、自分の肩越しに映り込んでいたように思った。
赤い女。
赤いハットに、赤い服。長い黒髪が、帽子から溢れるように肩にかかっていた。
顔は、つばの陰でよく見えなかった……のだと思う。妙に暗くて、もわっとしていて……
真っ赤な唇が、可笑しそうに笑っていた。
別に、普通の人かも知れない。全身真っ赤なコーディネートなど、近所で見かけたらちょっと奇異だが、街中なら居てもおかしくない。でも……
とっさに、見てはいけない、と、自分の中で警報が鳴ったのだ。
この人は、なんかヤバい……
二階に着き、そのまま隣りの三階へ上るエスカレーターへぐるっと回ったとき、二階へ上がってくる後続の人たちを見て、
『え?』
と思った。
てっきり後ろから乗って来たと思ったあの女の姿がないのだ。
乗らずに、一階を歩いていった。ただそれだけのことなのだろうが、夏菜は胸がドキドキ鳴るのを抑えることが出来なかった。
あの女は、鏡の中にしか居なかった……ような気がしてならないのだ。
エスカレーターで上へ運ばれながら、
現実には存在しない、生きた人間ではなかったのではないか……
と思わずにいられないのだった。
午後七時を過ぎた頃。
東西に長く延びる商店街。中央のアーケード街から二本ほど道路を隔てると、その昔は高級中華飯店や老舗料亭などが並ぶ格式の高いエリアだったが、バブル崩壊、世界的金融危機を経てそうした店の多くが廃業し、今や、同じ高額紙幣が飛び交うにしても、妖しげなネオンのきらめくホストクラブやキャバクラがしのぎを削る刹那の花火のような夜のホットスポットに変貌している。
そうした店の一つから飛び出してきた艶やかな白い蝶があった。
その店のお嬢とおぼしき、肩ひもを首に掛けて背中の大きく開いたクレオパトラのようなドレスを着て、クルクル巻いた明るい色の髪の毛をブランブランと踊らせて、前につんのめりそうなハイヒールを履いた女だ。
何かトラブルでもあったのか前の通りに飛び出してきた女は、裸の肩を揺らして右、左と頭を振ると、にぎやかな中央方向に危なっかしい早足で歩き出した。
人通りは、ぽつ、ぽつ、としたものだった。背広を着たサラリーマンや、この先に用があるような女性が、キョロキョロすることなく整然とした足取りでまっすぐ歩いていたが、彼らは女に行き会うとぎょっとした顔をして、慌てて横に避けた。
女は犬が臭いを嗅ぐように首を小刻みに振って、ひょこひょこ、ひょこひょこ、あっちへ、こっちへ、揺れながら歩いていった。
若い大学生風の女性が手元にスマホを見ながら歩いてくると、女は、ぐうっと、顔を下から潜り込ませて、彼女の顔を覗き込んだ。
「きゃあっ」
彼女はびっくりして飛び退り、目を見張って女を見ていたが、フンフン、と首を振りながらこっちに迫ってくる様に再び悲鳴を上げて後退し、怯えながら大きく女を迂回して、駆け足で逃げていった。
女は真っ赤な顔をしていた。
異常な動作から、顔面にけがを負ったか、目の前で血が吹き上がるような凄惨な殺人現場にでも遭遇してショックで精神が壊れてしまったかと想像されるが、女の顔を赤くしているのは血ではなかった。
口紅だった。顔中に塗りたくって、何度も執拗に塗り重ねたのか、所々かすが盛り上がっていた。
口紅は、べったりした、黒々するほど濃厚な、ローズレッドだ。
女はふらふらしながら、若い女性を見つけては駆け寄って、ぬっと顔を近づけて、恐怖の叫びを上げさせ、走り去らせていた。
女は交差する道路を、信号が青になるのを待ち切れないように横断し、激しいクラクションを浴びた。
女は意に介することなく、ひょこひょこさまよっては、若い女性に走り寄り、顔をくっつけるようにして覗き込んだ。
女が明るいアーケード街に入ると、騒ぎは大きくなった。
窓の大きな軽い食事の出来る店が並ぶ広い遊歩道には、多くの若いカップルや女性同士のグループが楽しげに会話しながら歩いていた。
女は手当り次第に若い女性に迫って逃げ惑わせ、悲鳴と共に周囲に混乱をまき散らしていった。
女は恋人と腕を組んでいる彼女にも遠慮無しに顔を突き出した。
彼氏は彼女を後ろにかばって、
「なんだ、おまえ!」
と怒鳴りつけ、女が、フンフン、と彼氏が後ろに隠した彼女の顔を見ようと執拗に迫ると、
「やめろよ、馬鹿!」
と、胸の上を突き飛ばした。
高いヒールの女は後ろにひっくり返って尻をついたが、手をつくと、四つん這いになって後ろに回り込もうとした。彼氏は彼女を守って女の正面に立ち、
「気持ち悪い奴だな、あっち行けよ!」
と怒鳴り、しつこい女に足で蹴る真似をした。
女は腹を立てて、ギョロッ、と彼氏を睨みつけた。
「え……」
女の狂気をはらんだ目に気圧され、思わずたじろぐと、顔の中央に違和感を覚えた。反射的に手をやると、ボタボタと赤い色が滴り、彼氏はすーっと頭が冷たくなるのを感じた。鼻血がドクドクと流れ出ていた。
彼氏の中で、目玉を剥いた女が、恐ろしい化け物に変わった。
誰かが通報したのだろう、警官が二人駆けつけた。
背にかばう彼女の顔を見ようと彼氏に取り付いた女を引きはがしながら、警官たちもその異様な顔に驚いた。
生身の女一人、危険な凶器も持っていないようで、保護という形で連行する事にした。
両脇から腕を取ってパトカーの待つ道路に向かったが、女は自分を奇異の目で見送る人垣の中にも若い女性を捜して首を巡らし、
「こら、大人しくしなさい」
と叱られた。
女が口を開いた。
「か・・お・・」
喉から血と共に吐き出すようなその声に、警官も周りの野次馬もぞっとした。
「どこおっ・・わたしのかお・・どおこおおお・・・・」
思わず耳を塞ぎたくなりながら、二人の警官はパトカーに女を押し込み、管轄の警察署に連行した。
女に睨まれた彼氏の鼻血は、なかなか止まらなかった。
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