第6話 不穏な予兆
翌日、保護室で目を覚ました彼女は、状況が分からず、警官の姿に怯えた。
前夜の事は何も覚えていなかった。
薬物検査でも反応はなく、実害もなかったので、店のマネージャーが迎えに来て、帰宅を許された。
彼女は若い女性であり、薬物の疑いもあったので、地域の管轄署ではなく、設備の整った本部の警察庁舎に収容されていた。
素顔の彼女は細面のなかなかの美人で、今は言動におかしなところもなく、何かしら精神を病んでいるようにも見えなかった。
彼女は開店前、控え室で準備をしていて、そこで突然、おかしなことになって、飛び出していってしまったらしい。
原因は全く分からなかった。
しかしまあ、そういう商売をしていれば、突発的にヒステリーを起こしておかしな行動に走ってしまうこともあるだろうと、警察では判断した。
しかし、顔の口紅は前夜ウェットティッシュで拭き取られてはいたが、マネージャーの持ってきた私服に着替え、顔をきれいにしたいと洗面所に連れて行ってもらい、鏡を見た途端、彼女は、ぎょっとして、震え出した。
「赤い……顔……」
口紅はウェットティッシュでは拭き切れず、まだ所々うっすら赤色が残っていた。
「大丈夫ですか?」
付き添いの婦人警官に声をかけられると彼女はうなずき、悪夢を洗い流すようにクレンジングオイルを塗って、しっかり洗顔した。
タオルで顔を拭き、きれいになった自分の顔を確認しても、まだ彼女の顔色は冴えなかった。
鏡の前から逃げるようにして離れ、荷物を持つと、お世話をかけました、と挨拶して、顔をうつむかせて帰っていった。
若い婦人警官はマネージャーに付き添われて去って行く後ろ姿を見送って、
「赤い顔ねえ。ま、ショックなのは分かるけど」
昨日の本当に真っ赤な顔の写真を見せたらどんな顔するかしら?
美人へのやっかみにそう意地悪く思いながら、自分のデスクへ帰っていった。
自分の名前を呼ばれて、婦人警官はハッとして、鏡の中の自分と目が合って、またハッとした。
「ちょっとあんた、なにぼーっとしてんのよ?」
トイレの手洗い台の前で、何度も呼びかけたらしい同僚が呆れた顔で横から睨んでいた。
「どうしたどうした、そんなに見蕩れる顔だったか?」
どれどれと同僚が横から顔を割り込ませて鏡を覗き込み、ニッと白い歯を見せた。
「ちょっと疲れただけよ」
婦人警官は言い繕って、鏡を離れようとして、今一度目を向けた。
ゾッとして、思わず震えが走った。
ゆらっ、と、自分の顔に被って、赤い色が見えたような気がしたのだ。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
慌てて逃げるようにトイレを飛び出した婦人警官は、前を通りかかった私服の刑事にぶつかりそうになった。
「失礼しました」
慌てて敬礼し、刑事は、いいよいいよ、と手を振って歩いていった。
後ろから出て来た同僚が、敬礼を解いてため息をつく婦人警官を小突いて笑った。
「もしかしてあれが恋煩いの相手?」
「そんなわけないでしょ!」
プンプン怒って歩き出した彼女を、
「待てよおー」
とふざけながら同僚は追った。
刑事はデスクで書類仕事をしながら、退屈でしょうがないというようにあくびをすると、
「ちょっと出てくる」
と同僚に声をかけ、出口に向かった。
「吸い過ぎは体に毒ですよ?」
「ストレス溜めるよりか健康的だよ」
廊下を喫煙ルームに向かいながら、
「刑事が職場で煙草も吸えねえって、どんな警察だよ」
と悪態をついた。
高いパーティションで隔離された狭い喫煙ルームでむなしく一服し、職場に戻る事にした。
ついでにコーヒーでも買ってくかと自販機コーナーに向かうと、途中、壁に掛けられた鏡を熱心に見ている婦警がいた。
『あれ、こいつ、今朝、ぶつかりそうになりやがった奴じゃねえか』
刑事は横目に見ながら通り過ぎた。
婦警はぼうっと、感情のない顔でまっすぐ鏡を見ていた。
『おいおい、てめえが事件起こすんじゃねえぞ?』
刑事は軽く肩をすくめながら歩き去った。
女性、それも若い女性ともなれば一日に何度も鏡で自分の顔を見ることだろう。
だから、学校や職場、移動の途中のバスや電車の中、街中のちょっとした待ち時間などに手鏡やコンパクト、備え付けの鏡を見ている姿は全然珍しいものではないだろう。
しかし、彼女たちの顔が一様にぼうっとして感情が失われ、いつまでも自分の顔に見入っているとなると、ちょっと異常なのではないだろうか?
今、この街では、そうした若い女性が増えているようなのだ。
彼女たちの大半は、自分でハッと気づいたり、友人に声をかけられて夢から覚めたように驚いた顔をしたりして、その後はチラッと怪訝な顔で鏡を見て、普段の生活に戻っていくのだが、中には自分も他人も気づかぬまま、いつまでも鏡に見入っている者もいるようだ。
それは、かなり異常で、危険に思われた。
この街で、何か電波系の病気でも流行っているのだろうか?
フランチャイズの弁当店の勝手口から、「お疲れさま」の声に送られて、四十代のおばさんが出て来た。
カリカリの硬いパーマをかけた、眉の薄い、目の細い、唇は厚い、不満を持ちつつ日々の生活を淡々とこなしているような、どこにでもいそうなおばさんだ。
そのおばさんが、道路の向こうに広がる町並みの上に目を向け、じいっと空を見つめた。
今年はいったいいつ梅雨になるのだろうと思ってしまう青空が広がっている。
明るい空をじっと見つめていると、ムニャムニャと、視界に透明の糸くずがうごめくような物が見えてこないだろうか? これは紫外線が眼球のガラス体中に活性酸素を発生させる為に生じる飛蚊症(ひぶんしょう)という症状で、特に有害な物ではないので気にすることもないのだが。
じっと青空を見つめるおばさんには何か見えているように険しい表情が浮かんでいた。
「いよいよ来てしまったようだねえ。こいつはわたしがなんとかしなけりゃならないだろうねえ」
何やら決意を秘めた顔を前に向けると、のっしのっしと歩き出した。
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