第4話 顔を赤くする男


 遠くに騒々しいサイレンの音を聞きながら、壁に向かってじっと立ち尽くす若い男の姿があった。

 その壁には一枚の丸い鏡が掛かっていて、男は、よほどのナルシストなのか、飽きもせずにひたすらそこに映る自分の顔を見つめているのだった。

 六帖のフローリングの部屋は、クリーム色と焦茶色の調度でなかなかシックにまとめられているが、ベッド脇の壁に貼られた悪趣味なヘヴィメタルのポスターが残念だ。

 鏡は本が積み重なった机の脇、ベランダの掃き出し窓から直角の壁に掛けられている。

 綱を内と外、二重の円にした模様を彫刻した黒い枠の、アンティークと思われる真円の鏡だ。

 直径は三十センチ弱。五十センチほどの距離から見つめる男の顔がぴったり収まっている。

 男は大学生だろうか、適度に人当たりがよく、冗談好きで、そこそこ我の強い……わがままそうな、今どきの若者だ。

 それにしても、特に見とれるほどのイケメンにも思えないが、何を思ってこんなにも熱心に自分の顔を見つめているのだろうか?

 ぼうっとしているようで、微妙に表情に変化がある。

 ああでもない、こうでもないと、これが女性なら髪型やメークをあれこれ思い描いているのかもしれないが、まさかビジュアル系バンドのメンバーとしてデビューしようなどと目論んでいるのだろうか?

 あれだけうるさかったサイレンが、どうやら落ち着いたようで、いつしか窓の外の世界は赤い光に照らされて、部屋は薄暗くなっていた。

 いったい何十分そうして鏡を見ているのか、

「ああ、そうか。そうすればいいんだ」

 男はようやく何か思いつくと、鏡の前を離れ、キッチンに行くと、ガチャガチャ物色して、戻ってきた。

 男は手にした果物ナイフのさやを外すと、机の上に置き、鏡に向き直った。

 刃を自分に向けて、鏡を見ながら、こうかな? こっちかな? と位置を試し、オレンジ色に染めた前髪を持ち上げその生え際に一本線を横に引いてみた。

 細く赤い線が開き、つーっと、血が滴ってきた。

 男は、なんか違うなあ、と不満そうにして、今度はナイフを縦にして、右耳の前に当ててみた。

 スーッと下に引いて、えらの下でぐるっと回すと、顎の下をやや力を入れてゆっくり引いていき、左のえらの下を巡って、上にピンと跳ね上げた。

 ふんふん、とうなずき、刃を当て直して、続きを引いていく。左の耳の前を上に引いていって、もみあげの上を通って、額の髪の生え際の下を、さっき一度試していまいち気に入らなかった線を改めて引き直し、右のもみあげの上を通って、最初の右耳の前に戻ってきた。

 顔面を一周した線から、だらだらと血が滴って、顔面と首の肌に筋を描き、羽織ったシャツの下のTシャツをじっとり湿らせていった。

 さて、これからどうしたらいいのかな?、と男は考え、後ろ手でナイフを机に置こうとして床に落とすと、それは放っておいて、両手を顔に持ってきて、どこかな?、と迷いながら、額の線に両手の指をかけると、下に引っ張ろうとして、滑って上手く行かず、ぐいっと、爪を食い込ませ、指先を十分食い込ませると、皮膚を掴んで、下に引っ張っていった。

 びちゃびちゃと血と脂肪が弾けた。

 顎を逸らし、首に筋を立てながら、男はナイフで縁取った顔面の皮膚をはぎ取った。

 どくどくとあふれる血に赤黒く濡れた肉の中にむき出しになった二つの目玉で、男はとくと鏡の中の顔を見つめた。

「ほうら、こうなった」

 男は満足そうに笑った。開いた口の中に覗いた歯が、見る間に赤くなった。

「へへへ、はははは」

 わはははははは、と大声を上げて笑った。

 溢れた血がびちゃびちゃ飛び散り、眼球も赤くなった。

 隣りの壁が、ドンドン、と乱暴に叩かれた。

「うるせえぞ! 静かにしろ!」

 男の怒鳴り声がした。どうやらおしゃれな内装の一方、壁は薄いようだ。

 笑い声は消え、室内は静まり返った。

 隣室の住人も自分の抗議が通って満足したようだ。

 部屋は静まり返っている。

 そこにもはや生きている者は居ないように。




 死体を見つけたのは二日後昼過ぎ、部屋を訪ねてきた男の彼女だった。

 チャイムを鳴らしても返事がなく、

「ねえー、いないのお?」

 と声をかけても答えず、居ないなら居ないで、居ない事を確認しよう、と預かっている合鍵で鍵を開け、ドアを開いた。

 ドアが開いた瞬間、臭いにびくっとした。

 湿った、鉄臭い、胸をいっぱいいっぱいにさせる濃い臭いだ。

「奏真あ、ねえ、いないのおー?……」

 胸をドキドキさせながら玄関を上がり、キッチンを通って部屋に入った。

 血だまりの中、彼氏がうつぶせに倒れていた。

「奏真、ねえ、奏真ったら……」

 彼女はガクガク震えながら手を伸ばし、彼の肩に触れた。

 ぐったりと重く、いっさいの反応を感じなかった。

 彼女は迷いながら、何かの間違いであってほしいと願いながら、血だまりに浸った彼の頭を指先で押し、顔をこちらに向けさせた。

 べりべりっ、と乾いた血がはがれ、ぐにゃっという首の感触と共に顔面がこちらを向いた。

 彼女は大声で悲鳴を上げ、後ろにひっくり返った。そのまま腰を引きずって後ろ向きに玄関まで引き返し、四つん這いになって外に脱出した。

 声が出ず、しばらくあえいで、過呼吸の中、ようやく声を振り絞った。

「誰か、助けて、誰か、」

 しかし誰かに聞こえる大きさの声は出ず、彼女はそのまま表の道に這っていった。アパートは道に対して奥へ横向きに建っているのだ。

「助けて、助けて……」

 必死に喘ぐ彼女を、ようやく向かいの家の主婦が見つけて飛び出してきた。

「どうしたの?」

 と抱き起こしてやると、彼女は指をわなわなさまよわせながら、必死に言葉を発した。

「しん…、死んでる……、彼が、しん……、しん……、死んでる…………」

「ええっ!?」

 なんだなんだと近所の年寄り連中が出てきて、部屋を見に行き、悲鳴を上げた。

 数分後、パトカーで警察の第一陣が駆けつけ、それからこの界わいは大騒ぎになった。

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