第3話 突っ走る女
空はもうもうたる黒煙に覆われ、一〇〇メートルの距離を置いても肌に痛いほどの熱風が感じられた。
前の通は近所の避難者と野次馬が溢れ、サイレンを鳴らし拡声器で道を空けるよう訴えながらまだ続々と駆けつける消防車や救急車、その為に交通整理する警官の警笛と怒鳴り声とで騒然となっていた。
自分の住んでいるマンションが燃えている……
いやに消防車のサイレンが自分の向かう方向に集中しているなと嫌な予感がして、そろそろ陰りが見えてきた水色の空にもうもうと上がる黒煙の位置を見て、まさか、とは思っていたが、実際目の前に見て……、実際には野次馬と通行規制で一〇〇メートルの位置で立ち往生しているのだが、自分の家が……部屋を賃借しているマンションだが、火事で燃えている現実というのは、夢の中のように思われて、
いっそファンタスティックね、
と、彼女は思っていた。
「
名前を呼びかけられて、彼女、御堂美久は、一生懸命手を振って野次馬の中から抜け出してくる老人に、
「
と、ちょこんと頷いてみせた。
「ご無事でしたか」
よくマンション入り口の花壇に腰掛けて、出かける御堂に「行ってらっしゃい」と声をかけてくれる。子どもたちに「頭がホタルなんだね」と指差されても「そうだよ」と禿頭を撫でて笑っている、優しいお爺ちゃんだ。
しかし、いつもののんびりした調子は吹き飛んで、興奮した早口でまくしたてた。
「びっくりしたよ。突然火災報知器が鳴ってな、おやおや、子どものいたずらかいな、どこのおチビさんの仕業かいなあ、なんて思ってたら、火事だー!、って叫ぶ声がして、慌てて玄関出たら、もう灰色の煙がもうもうとしとって、危うく腰抜かしそうになりながら、壁を伝いながら階段に向かったよ」
保乗お爺ちゃんはその時の恐怖がまざまざと甦ったように青ざめ、御堂はうなずいて、マンションを見やった。
マンションは全体が沸騰したように白い煙を噴き、それが空に上っていくうちに灰色に、やがて真っ黒になって、黒いかすみをまき散らしながら、もくもくと入道雲のように立ち上っている。
マンションは七階建て、ワンフロア十五室、計百五室の、L時型の一棟だ。こちら南側はベランダ付きの窓がずらりと並んでいる。築五十年以上経っているが、鉄筋コンクリート造りで、火災には強いはずだ。実際火が出ているのは西側半分の、四階が一番ひどく、おそらく火元はそこで、五階、六階へと延焼していったようだ。
マンションの南側のふもとには二階建て三階建ての民家や事務所が並び、敷地に接している為、前の小路に入った消防車がはしごを伸ばし放水を行っている。放水は煙に吸い込まれて、効果のほどは見えない。
火災発生からどのくらい経ったのかは分からないが、見たところまだまだ火の勢いは止まらないようだ。
御堂の部屋は五一〇号室。下から階を数え、西の端から部屋番号をさかのぼって……
駄目だあ……
と目の前が暗くなった。出掛けに布団を干していったのが仇となったようだ。煙の中から炎が吹き上がっている。
燃える、燃える、せっかく揃えた生活道具も、服も、学校の教科書も参考書の高価な専門書も、家から持ってきたお気に入りの本も、CDもDVDも、何もかも、炎に巻かれて灰になっていく……
何も出来ず、ただ眺めるだけで、空っぽの心で、ただ、
火事って怖いなあ……
と思うだけだ。
「あのなあ……」
保乗お爺ちゃんは気弱な様子で何事か迷っていた。
「どうしました?」
「あのなあ、
「ええっ?」
御堂が思わず声を上げると、保乗お爺ちゃんはうろたえて、まるで自分の責任であるかのようにがっくりして話した。
「葵ちゃんもお母さんも、見当たらないんだよ。今の時間なら二人ともいたと思うんだが……。それでな、どうも、火元がな、神崎さんの部屋じゃないか、と……」
どこ?と思うと、
「四一三号室じゃよ」
と教えた。視線を巡らす。
四階の、西の端から三番め。
最も激しく燃えているところだった。
背中にじりじりした焦燥感を覚えながら御堂は目を凝らした。
放水の為か、風の流れか、ふと煙が薄れ、ベランダが見えた。
人が立っていた。
けれど、どこかおかしかった。
背後の赤い炎に照らされて、必死に助けを求めている……ようにも見えるが、どうも違う。
笑っている?
遠目でもあるし、御堂は自分の目がなかなか信じられなかったが、あれは神崎さんだろうか? 何もかも燃やし尽くそうとする炎に正気を失ってしまったのだろうか? それにしても、
(なんて禍々しい……)
と感じるのだ。ケタケタ笑っている顔が、この世の全てを呪い、あざ笑っているように、ひどく邪悪に思えるのだ。
見えたのはほんの瞬間で、神崎さんと思われる女はすぐに厚い煙の中に消えてしまった。
「行ってきます」
御堂はここまで乗ってきたシティサイクル……ママチャリにまたがり直すと、交通整理の警官の警笛を無視して、道路の中央をマンション目指して猛スピードで走っていった。
マンション北側には住民の為の広い駐車場があり、今ここに三台の消防車が入って放水を行っていた。
猛スピードで駐車場に飛び込んだ御堂は、邪魔にならない奥に自転車を止めると、消防車の前に立って指揮をしている隊長に駆け寄って大声を上げた。
「四一三号室!」
「ああっ?」
ママチャリで飛び込んできた一般人の若い女に気づいていた隊長は苛立った声で聞き返した。
「四一三号室に母親と女の子が取り残されているようなんです!」
隊長はきっと顔を上げて四階を見た。御堂はあそこ!と指差した。
北側は各戸の玄関が面する廊下になっているのだが、手すりになって外に開けているタイプではなく、全体が一面ののっぺりした壁で、窓ガラスが並んでいる。
四階は既に大半のガラスが割れて、真っ赤な炎が燃え盛って、真っ黒な煙を盛大に噴き出していた。
その様子を見て隊長は御堂に確認した。
「確かか?」
「はい!」
確信を持った答えに、隊長は無線のマイクを口もとに当て、送信のスイッチを押した。
「四階十三号室に母親と娘が取り残されている情報あり。行けるか?」
ガッとマイクが鳴って返信があった。いやにひび割れて雑音が多いのは、大きな酸素マスクの中でしゃべっているからだ。
『A班池田と青木、向かいます』
「よし。気をつけろよ」
道路脇の消火栓からホースが伸び、東の入り口に入っている。そのホースを持って中から消火活動を行っていた隊員の二人が四階に降りてきた。階段室と廊下の間に防火扉が閉められていた。火元と見られる四階は火勢が激しく、まずは封じ込めて、外から冷やす作戦がとられていた。隊員二人は向こうの様子を探りつつ扉を開け、放水で火を追いやりながら、廊下を進んでいった。ジャーッと言うジェットの水が廊下の床、壁、天井を殴っていく。
よし、と進んだ二人を、室内からの炎の爆発が襲いかかった。
ドンッ、と窓枠を吹き飛ばして外に膨れ上がった炎と共に、隊員の一人が投げ出された。
あっ、きゃあっ、と悲鳴が上がる中、隊員は落下し、地面に叩き付けられた。
「救急!救急!」
隊長は腕を振って指示し、無線に怒鳴った。
「池田か? 青木か? 大丈夫か?」
しばらく間があって、ガッと鳴って返信があった。
『こちら池田です。青木が……見当たりません』
「青木は外に放り出された。おまえはどうだ?」
『俺は……、大丈夫です』
また四階で爆発があり、野次馬から悲鳴が上がった。
「大丈夫か!?」
『こちらB班山本。池田に合流。しかし火の手が強く、前進は困難です』
「分かった。いったん後退し安全を確保」
『了解』
無線マイクを口から離した隊長は外に噴き出して燃え上がる炎を眺めて思わずつぶやいた。
「化学工場じゃあるまいし、なんなんだこの火は」
落下した青木隊員は、取り急ぎ駆けつけた救急隊員に両脇を抱え上げられ、防火服を着て酸素ボンベを背負った重い体を引きずって危険地帯から運び出され、そこで担架に乗せられると奥の救急車の後ろへ運ばれ、マスクを取り、防火服を脱がされ、診察された。
騒ぎの中、御堂はそうっと後退して隊長から離れると、消防車の側面の扉の開いた備品庫を物色し、救助者を保護する為と思われるシートを広げてマントにして肩に被り、防護布付きのヘルメットを被った。
マンション入り口に向かう銀色マントの後ろ姿を見つけて隊長が怒鳴った。
「馬鹿もん! 何する気だ!?」
御堂は煙の充満する中に飛び込んだ。
入り口に入ってすぐにエレベーターと階段が隣り合っている。
階段をぐるぐると一気に駆け上がっていく。
四階に出る手前で、三人の隊員が固まって、廊下に向かって放水しつつ、再突入の機会をうかがっていた。
御堂はジャンプすると二人の肩に手をついてポーンと飛び越え、放水を浴びながら火の海へ駆け込んでいった。
三人はあっけにとられた。一瞬、妖怪かなにかのように思ってしまった。なにしろこの身のゆだるような熱気の中、ピッチピチのジーンズの脚が駆け抜けていったのだから。
『おい、聞こえるか? 返信しろ!』
隊長が怒鳴っているのに気づいて山本がのど元に手を当てて返信した。
「こちら山本。今……」
『一人一般人の馬鹿が飛び込んでいった。捕まえて連れ戻せ!』
「すみません。飛び越えて行っちまいました」
『馬鹿野郎! 捕まえろ!』
「了解!」
山本が行くぞと指で合図して、ホースを抱えた二人と共に前進した。しかしそこは炎の巣窟と化し、厚い耐熱防護服越しにもチリチリ肌の焼ける高温を感じた。
生身の人間が飛び込んでいって、
死んだな、
と思うのが当然だった。
御堂は炎の廊下を突風のように駆け抜けていった。脚に絡んでくる炎が燃えつく前に逃げ抜けるようなスピードだった。
四一三号室のスチールドアは外れて床に転がり、この廊下の火の供給源がそこであるかのように室内から炎が激しく噴き出していた。
御堂は躊躇なくジャンプし、体を丸めて防火マントを楯にすると、まるでサーカスのライオンの火の輪潜りのように炎を突っ切り、奥へ飛び込んだ。
コンロの中のように、ゴオゴオとオレンジ色の炎が幾重にも吹き上がっていた。
御堂は奥のリビングに飛び込むと、右に飛び、引き戸に肩から飛び込んだ。
真っ白だ。畳からもうもうと湯気が上がって室内を満たしている。しかしどうしたわけか炎はなかった。しかしそう見たのも一瞬で、扉が破られた途端に、リビングの火が燃え広がってきた。
御堂は押し入れのふすまを開けた。ここからも白い湯気が噴き出した。まるで炊き過ぎたサウナだ。
御堂は躊躇することなく下段に詰め込まれた布団を引っ張り出して背後の炎に投げつけていった。
ごろんと葵の細い体が転がり出た。ぐったりして動かない。
御堂はすぐさまマントにしていた防火シートで葵をくるむと、ここには窓がなく、再びリビングの炎の中に飛び込んだ。
入り口に向かうべきかもしれない。けれどもう体を炎から守るマントはない。
窓の焼け落ちたベランダへ飛び出し、手すりに飛び上がると、思い切り外に飛んだ。
五メートル先に民家の瓦屋根がある。御堂はシートにくるんだ葵を抱きかかえ、彼女を守って背中から落下した。ガシャンと瓦が割れ飛び、屋根の傾斜に従って転がり、ガレージの屋根に落下した。放水を浴びたステンレスを滑り落ち、下の道に落下した。
御堂は最後まで葵を守って背中から落ちた。
「ぐあっ……」
したたかに背中を打ち、肺が押しつぶされて、苦しげに息を吐き出した。
ゼエハア、と息を吸っていると、周囲に大騒ぎで人が集まってきた。
御堂は葵を持ち上げ、
「お願い」
と駆けつけた救急隊員に渡した。
ゼエゼエ息をつきながら起き上がった御堂に、別の救急隊員が慌てて手を背中に回した。
「無理しないで。あなたも担架で運びますから」
御堂はゼエゼエしながら、大丈夫、と手で合図して、立ち上がった。救急隊員は驚いて目を丸くした。
御堂は自分が飛び降りた四階のベランダを見上げた。
伸び上がる炎を見ながら、そこに居た女の姿を思い浮かべていた。
今となっては本当に見たのか怪しい。とっさの間だったがベランダには居なかったと思うし、下に落ちてもいないようだし、自分でもあるまいに、灼熱の熱波の吹き上がる炎の室内に戻ったとも思えない。
おそらくは、葵の母親はあの炎の中に焼けこげて転がっていたのだろう、自分が来る前から。
同情はなかった。
何がそうさせたのかは分からないが、幼い娘までも巻き込んで焼き殺してしまおうなどと、決して理解などするものか。
御堂の心には邪悪さに対する怒りが炎に負けじと燃え盛っていた。
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