第2話 炎の惨劇
とあるマンションの一室。
台所に一人の女性がたたずんでいた。
時刻は午後四時を回ったところで、そろそろ夕飯の支度に取りかかろうかというところに見受けられるが、流し台に向かって立っている彼女は、メニューをどうしようか考えあぐねているのか、もうかれこれ一〇分以上、何もせずにそうして突っ立っているのだった。
彼女には一人娘がいた。
まだ就学前の彼女は、隣りの部屋の壁の陰から、そんな母親の背中をじっと見つめていた。
まだまだ甘えたい年頃で、普通なら「ママあ」とそのスカートの脚にじゃれついて、「こらあ」と困って怒る振りをする母親にいたずらっぽく笑いかけ、
「お夕飯なにい?」
「さあ、なんにしようかしら?」
「ハンバーグ!」
「えー、昨日食べたばかりじゃない」
「いいもーん、おいしいんだもーん」
「ふーん、しょうがないわねえ」
「やったー!」
なんていう風に人生の中でも最も幸福で甘ったるいシーンが展開されてもよさそうなところ、じっと見つめる幼女と母親の背中の間には不穏な緊張感が漂っていた。
この年にして既に幼女にはある種の悟りがあるようだった。
母親を恋しく思わない子どもなどいないだろう。この子のじっと母親の背中を見つめる目にも、その根底には甘えたい愛しさがあふれるほどに揺らめいている。しかし、それを覆い隠そうとする疑いの影が、……それは過去幾度もの経験から学ばざるを得なかったものなのだろう、暗く、厚く差して、幼女らしいあどけなさを痛ましいものへと変貌させていた。
突如、母親がバンと流し台のステンレスを叩き、はあっ、と強く息をつくように頭をもたげ背筋を逸らした。
母親がゆっくり振り返ると、娘は慌てて部屋の奥へ逃げ、ベランダへ出る掃き出し窓のカーテンに隠れた。
それは本当に隠れているわけでなく、そっと顔を半分のぞかせ、母親の機嫌の悪さがどのくらいのものなのか、反応を探っているのだ。
そんな娘の子どもらしい小賢しさに、暗く無表情だった母親の顔が、ニイッと口の端を吊り上げて笑った。
娘は慌ててカーテンを被って身を縮めた。最悪だ。嵐が収まるのを、大人しく、いい子にして、じっと待つしかない。
母親は頬をえぐるような笑みを引っ込め、しばらくすさんだ目でカーテンの小さな丸みを眺めていたが、それにも関心を失ったようにキッチンに向き直ると、ガス栓をひねり、鍋もフライパンも載せないままコンロに火をつけ、調節つまみを全開にして、ボオオオッと青い炎を噴出させた。
流しの下のドアを開け、サラダ油を取り出すと、ふたを開け、噴き出す青い炎に容器を逆さまにして中身を注いだ。
バンッ、と激しく音を立てて、オレンジ色の炎が爆発した。
炎の爆発は油を注いだ母親にも襲いかかり、彼女は堪らずに容器を放り出した。
炎はまたたく間に壁に燃え広がり、天井に上っていき、油と共に床に垂れ落ちていった。
自分の仕出かしたことにびっくりした顔をしていた母親は、気圧されて二、三歩後退したものの、天井をゆらゆら波のように広がっていくオレンジ色の炎を眺め、足下に迫る炎の絨毯にはっとしながらも、その場に踏みとどまった。
スリッパをちろちろ燃やしていた炎が、靴下に燃え移った。
「熱っ!」
堪らず声を上げながらも、逃げ出そうとはしなかった。
自分の脚を這い上がってくる炎を見つめ、目の下をひくひく痙攣させながら、じっと身を焼く熱さに耐えた。
事ここに至る前に、感情や感覚の大半を既に壊死させてしまっていたのかもしれない。
あはははは、あはははははは、
と、ブスブス煙を上げながら我が身を焼く炎を見ながら、狂った笑い声を上げていた。
だが、炎が腰から上に広がってくると、笑い声は悲鳴に変わった。
「熱い熱い熱い!」
塩化ビニールの床はすっかり波立つ炎に占拠され、毒性の臭いと共に白と黒の煙をもうもうと上げ始めている。
その煙の中、今や全身に炎を巻き付かせ、母親は狂ったように踊っていた。顔も髪の毛も炎を吹き上げて、喉も焼け尽くしたか既に悲鳴も消えていた。
部屋の奥でカーテンにくるまって嵐の収まるのを待っていた娘は、母親の悲鳴に、不穏な音の連続に、何事が起こったのかと顔を覗かせた。彼女の目に飛び込んできたのは、炎の中で、炎に巻かれながら踊り狂う母親の姿だった。
日頃から緊張の連続を強いられていた彼女の神経は、ここで限界を迎えた。
外の通路へ出る玄関はキッチン側にある。そこはもはや火の海だ。
彼女が助かる為の最善の道は、窓を開け、ベランダに出て、思い切り大声で助けを呼ぶ事だっただろう。
だが、彼女はそうしなかった。
どういう思考が働いたのか、隣りの畳敷きの寝室に走り込むと、押し入れを開け、入ってしまった。
愚かとしか言いようのない行為だった。しかしそれが幼い子どもの考えのすべてなのかもしれない。幼い子供にとって、母親が世界のすべてであるのかもしれない。その母親が目の前で焼けて、壊れる様をまざまざと見せられて、彼女の世界は終わってしまったのかもしれない。
押し入れに入って、ふすまを閉め、布団に潜り込むと、彼女は思考を止めた。
世界が終わって、目覚めたら、新しい世界に居る。
そんな風に、夢想したのかもしれない。
どこかで火災報知器が作動してけたたましい音を立てていたが、彼女は自分の世界に閉じこもって、それを聞いてはいなかった。
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