三章 慨世 10

葦澤聡臣あしざわさとおみ

七月十四日


 峠道を長い時間走り、人気のない林道を抜け、人の気配がしなくなってきた頃、目的の建物が見えた。砂利の広がった前庭に囲まれた瓦屋根の平屋、昔ながらの古い和風な家屋だった。

 聡臣さとおみが玄関を開けようとすると、鍵は開いていた。と言うよりも、彼が開けていたのだと思い直した。石造りの土間が広がる。傍らには靴箱、傘立て、廊下の左右を古い土壁が覆っている。

 今の時代にはもう滅多に見ない家の作りで、見たこともないのに聡臣は何故か郷愁を覚えた。

「ああ、少し待っていてくれ。客人が帰るところだ」

 奥の方から声が聞こえた。聡臣はそれを聞き、奥の方を見やった。廊下の奥の方から賢人けんとではない男が現れ、ジャケットの内ポケットに何かをしまい込みながら出て来る。聡臣を一瞥し、一瞬その足を止めるが、何も言わずに男はにやりと口角を上げ、部屋から出ていった。

 聡臣はその顔にも見覚えがあった。リユニオン・センターで立っている所を見かけた事のある「伊邪那美いざなみの声」の男だ。

 何故その男が居るのか、賢人から何かを受け取っていたように見えたが、それが何なのか、追求する気は聡臣には無かった。ここにはただ賢人と話をしに来たのであって、他のことに首を突っ込む余裕がなかった。

 玄関を後ろで閉める音を聞くと同時に、奥から静かに賢人が歩いてきた。

「葦澤聡臣、よく来たな。まぁ上がってくれ」

 返事はせずに先導する彼についていく。廊下の途中、開いたドアの向こうに洋間があるのが少し見える。そこは先程見た部屋と同じ部屋だった。殺風景で何もない、生活感を感じさせない部屋。奥にあるデスクとコンピューター、先程繋がった場所で間違いない。

「何が起きたのか、って顔だな」

 振り返ると、賢人がこちらに向き直っていた。

「いや、いい。説明されてもどうせ理解は出来ない。ここに来たのはあんたと話がしたかったからだ」

「話が早くて助かるよ。僕も君と話してみたいと思っていたし」

 賢人に案内された部屋は、六畳程の畳敷きの和室だった。床の間が奥にあり、鯉らしき絵が描かれた掛け軸が掛けてある。

 中央にはテーブルが置かれ、座椅子が二つ対面して置かれている。どうやら客間として使われているようだった。

 既にテーブルの上には急須と湯呑が置かれており、賢人は上座、聡臣は下座に座り込むと同時に賢人がお茶を淹れ出した。

「君も大切な人を亡くしたようだね」

 緑茶の香りが広がり、聡臣は湯呑を手にとって一口飲む。玄関を開けるまでは鳴っていた鼓動が徐々に落ち着いていく。

「僕もそう……というか、君にはもう分かっているね。なら前置きはどうでもいいか」

 自分にも注いだお茶を一口飲みながら、賢人は含み笑いをした。

「何故、全てを消滅させるような真似をするんだ」

 聡臣が単刀直入に聞くと、賢人は眉一つ動かさずに湯呑を置く。一呼吸置いて、賢人は質問に質問で返してきた。

黄泉人よみびとは何の為に存在していると思う?」

 聡臣にはその問いの意図が読めず、次の言葉を待つ事にする。

「君はどう思う? 黄泉人というものの存在意義を。YOMIヨミというシステムが蔓延したこの社会を」

「あんた達が目指した世界じゃないのか」

 やっと出てきた返答を受け取ると、賢人は首を横に振った。

「間違いだったと気付いたよ。こんなものは作るべきじゃなかったんだ。天城あまぎ沙也加さやかは、彼女なりの正義と倫理観でこのシステムを築いたが……本質は見えていなかったということだよ。結果、同じ様に本質を見抜けず、マスコミに煽られた、自分たちで思考することを放棄した反対派の愚かな暴徒たちからの嫌がらせを受けて死んでしまった……。なぁ葦澤聡臣。君は、死んだ恋人を覚醒させて、何を思った?」

「さっきの変な現象で俺の全てを見たんだろう。感情も記憶も、何もかもを」

「ああ、確かにね……。君は後悔している。大切な人を二度も殺してしまうのではないかと怯えて」

 聡臣は自分の眉間に皺が寄っていくのを感じた。だが不思議と怒りの感情は沸き立って来ない。

「大切な人の死は辛いものだよ。辛いことは時間が忘れさせてくれる、などという文句があるが、僕にしてみればそんなものは詭弁きべんだ。辛いものは辛いし、耐え難い。それを誰かに分かってもらおうとも思わない。共感や同情なんていらない、何故なら一番解決になるのは、その人の存在そのものなんだよ。それが戻ってこない時点で、この悲しみを埋める他の要素など存在し得ない。いくら慰められても、時間が経とうと、その事実は消えない。一生その辛い事実を背負って、必死に絶望を紛らわせながら生きていくだけだ」

 賢人が再び湯呑を口につける。何の感情も浮かんでいない顔をこちらへ向け、聡臣の目を見ながら語り続ける。

「死人は天国で見守っている、だとか、それじゃ死人が悲しむ、だとかの言葉に聞き覚えはないかい?」

 霞美かすみを失った直後、痛いほど聞いてきた台詞だった。聡臣は静かに頷く。

「こんな陳腐な台詞は、生きている者のエゴでしかない。そう言い聞かせることによって、自分にも相手にもそう思わせたいだけだ。それで自分たちなりに落とし所を作っているに過ぎない。だけど実際はどうだと思う? 死んだ人間が実際にそう思っているのか? そんな事はないよ。何故なら、死人の肉体は既に存在せず、その意識ももうどこに行ったのか分からないからだ。だがYOMIヨミならばそれが解決出来る。何故なら死んだ後も、生前に保存した意識が仮想現実に覚醒するからね」

 賢人が自分の頭を指差しながらそう言った。次第に語気が強まっていく。

「でも、それは本当に生前のその人本人の意識なのだろうか?」

 聡臣は、始めその言葉の意味が理解出来なかった。あまりこういった事の仕組みに詳しくはなかったが、無い知恵を絞ってその答えを探る。

「それはそうだろう? 生前にYOMIヨミへの誓約を済ませ、意識のデータ化を行うんだから。その意識の抽出を本人が行ったのであれば、本人のものに間違いないはずだ」

 聡臣の答えに、賢人は残念そうに首を横に振った。

「でもそれは本人の脳そのものを仮想現実へ送り出しているわけではない。あくまでも意識というものをデータ化している、つまりコピーされたものだよ。そうして生まれたその意識は、果たして本人の意識なのか? 全く違う別人の意識では無いという証拠はどこにある? 黄泉人となった葦澤霞美は、本物の葦澤霞美なのか?」

「何の話をしているんだ、本物に決まっているだろう! 姿形は確かに仮想現実では変えられるかも知れないが、彼女しか知り得ないこと、俺と彼女の間でしか知られていない事や記憶、全部彼女本人のものだ!」

 聡臣の返答を聞き、賢人は座椅子に背を預けるような格好で座り直し、深くため息を吐いた。

「意識は今やデータとして扱える。YOMIヨミというサービスはあくまで故人との再会を謳ったもので、抽出した意識データは対象が死んでいなくても仮想現実に覚醒させることが出来る。つまり、これは違法にはなるが、仮想現実上では自分のコピーと対面する事だって可能だ。例えば君、葦澤聡臣が仮想現実であるYOMIヨミの中で、葦澤聡臣のコピーに出会う。それが偽物だと僕にどうやって証明するんだ?」

「それは今こうして、あんたと話をしているという俺自身の意識がある俺こそが本物だと……。いや、仮に俺という存在を疑ったとしても、その疑うという意識を持つ自分自身の存在は否定出来ないだろう」

「デカルトのコギト・エルゴ・スムの引用だね。我思う故に我あり。同じことを、その偽物も言うだろう。偽物にも同じ様に意識があるからだ。個人が持つ自己同一性は、観測者が客観的に証明する事は出来ないんだよ。オリジナルにアイデンティティがあるように、偽物にもまた違うアイデンティティが宿る」

 その言葉の最後を聞くか聞かないかの所で、聡臣がテーブルを強く叩いた。

「結局何が言いたいんだ!」

 賢人はゆっくりと身を乗り出し、テーブルに肘を付けた。

YOMIヨミが生んでいるものは、あくまでコピーされた意識から作られたものだ。それはオリジナルではない。生きている時と寸分違わぬ格好だろうと、その人しか知り得ないことを知っていようと、所詮は人為的に作り出されたオリジナルのコピー、紛い物に過ぎないんだよ。さっきの台詞と一緒で、生きてる人間が作り出したエゴの産物でしかない。今の世に生きる人間は、その紛い物に縋り過ぎているんだ。気持ちは分からんでもないけどね……。残酷な真実より、都合の良い偽物の方が幸せだから」

「だから全部消すっていうのか……!?」

「ああ、跡形もなく、今存在する黄泉人は全て消し去る。元々は沙也加を死に追いやった無責任な連中への復讐が動機だと言えたが……今はもう、そんな事に意味は無いんだと悟っているよ。黄泉人たちも、それに縋る遺族たちも、とても憐れに思うからだ。今の世界に救いはない」

 聡臣はそれを聞き、霞美の顔を思い出した。記憶の中の霞美と照らし合わせても遜色ない、黄泉人となった霞美の顔を。

 生きている時の霞美を思い出せば思い出すほど、黄泉人となった霞美の存在が薄れていく気がした。

 偽物。その言葉が頭から離れない。

「君だって、彼女を永遠に電子の檻に閉じ込めるのは嫌だろう。後悔しているんだろう? 死ねない存在にして、一生苦しませることになったのを。例えそれが紛い物の存在だとしても、大切な人と同じ姿をした彼女を、今度は自分のせいで死に追いやることになっているから」

 聡臣はそれを聞き、何も考えられなくなった。今までの霞美との思い出や交換した手紙の内容、黄泉人になってからの様子や話したこと、全てがフラッシュバックする。やがて聡臣の意識は記憶に潜っていく。

「これは解放とも言える。カグツチはもはやYOMIヨミのネットワークに完全に溶け込んでいる。どちらにせよ君や他の仲間達に止められるものではなくなっているよ」

 賢人の言葉がふわふわと浮かんでいるような気さえしている。どこか現実味のない、今自分が居るのが現実なのかYOMIヨミなのかも判然としなくなってきていた。

「葦澤霞美は、もう死んでいる。この世のどこにも、もういないんだよ。彼女の死を受け入れろ。死は平等だ。どんな人間も死ぬ時は死ぬ。それが生物としての定めなのだから。確かに死んだ人間にもう一度会えるというのは一見魅力的に思えるだろうが、それに取り憑かれて現実を見失うなど以ての外じゃないか。生者が取るべき行動は、その人の死を受け入れて前に進むことじゃないのか?」

 聡臣に賢人の言葉が届く頃、聡臣は自分の心と対面していた。彼に今言われた言葉は、本当は自分も心の奥底で秘めていた事だった。

 本当は分かっていた。理解していた。だがその現実に目を背けて蓋をし、見ないふりをしたのだ。事実を、彼女が死んだという現実を受け入れたくなかったからだ。それを認める事は辛く、また苦しい選択だった。

 だが、自分のエゴを通して選択した結果、霞美は永遠に苦しむことになってしまった。挙句の果てには二度目の死を経験しようとしている。

 自責の念が渦を巻き、大きな感情の塊になって聡臣にのしかかってくる。その重圧に耐え切れず、聡臣の目から涙が零れ落ちた。やがてそれは慟哭どうこくとなり、部屋全体に響き渡る。

「……もうじき、カグツチはイザナミを焼き殺す。そして、原崎が作ったバックアッププログラム、イザナギが作動するだろう。あれのみそぎを受けるには、一度仮想現実に赴く必要があるそうだよ。僕のダイビングチェアを使うといい。それで君のリンクスに残留したカグツチも消え去るだろう。だが、そのままで居れば君はカグツチに汚染されたままだ。きっと沙也加の幻影、君には葦澤霞美に見えるだろうが、その影はずっと見続けることになる。どちらが良い? 現実を受け入れて全てを精算するか、今までと変わらず現実から目を背け、幻影に縋り続けるか」

 選択に迫られ、聡臣はしばし考えた。様々な感情が入り交じって混濁する意識の中、どちらを選択するのか自分の中で秤にかけ、必死に答えを探したが、結局決めきれない。

 考えれば考えるほど更に混乱していく頭の中でふと、霞美のある一言を思い出した。

「私は今のままでいい? この病室に囚われたままで」

 カグツチに汚染され、沙也加の影に魅入られていた霞美が言った言葉。

 黄泉人にしたのも、本人からの希望があったからとは言え、ほとんど決めたのは孤独に耐えられなかった聡臣自身の選択だ。

 霞美は、本当は解放して欲しかったのではないか。

 それに気付いた時、聡臣は何かの糸が切れたようにぴたりと動きを止めた。そして、感情の波も収まった。

「……決心、ついたようだね」

 賢人がそう呟いて立ち上がり、聡臣に肩を貸して彼を一緒に立ち上がらせる。向かった先は、あの殺風景な部屋にある椅子。よく見るとそれは、簡素な作りのダイビングチェアのようだった。

 繋がれば、全てに終止符を打つことになる。本当にいいのだろうかと一瞬だけ迷ったが、聡臣はチェアに座り込む。

 もう心は決まった。全てを受け入れると決めたのだ。これ以上自分のせいで霞美を苦しませたくない。ただその一心だった。

「……お前の言葉は、正しいと思う」

 溢れた涙も拭わないまま、聡臣は賢人に話しかける。

「だが、人間としての倫理観でものを語るのなら、お前は間違っているとも思う」

「誰が正しいかなんて決められない。いや、決まっていないんだ。正義はいつだって相対的なものだろう。僕は自分の行動を正しいと思うし、聡臣、君の感情や気持ちも理解は出来るし、それも正しいだろう」

 賢人は表情を変えず、聡臣を座らせたダイビングチェアを起動しながら返事をしていく。

「大切な人との死別は辛い。だからこそ残された方は、その人を忘れないようにするんだ。思い出を誰かと共有し、こんな人が居たという事実を守り続けることが重要なんだ。その人が遺した意思は消えない。だが忘れ去られてしまえばそれは本当の死になってしまうだろう」

「あんたが破壊しようとしてるYOMIヨミは、天城沙也加の遺した意思なんじゃないのか?」

 賢人はその質問に少しの間手を止め、聡臣の顔を見て答えた。

「もういいんだ。YOMIヨミが存在してしまう限り、天城沙也加の名は残り続けてしまう。もう彼女をこれ以上呪縛したくない。だから、もういいんだ」

 それを聞き終わると、やがて意識が朦朧としだしてきた。

 いつもの暗闇に落ちていく感覚が始まると身構えていたら、いつもとダイブの感覚が全く違っていた。上手く言葉には出来ないが、何だかいつもよりも明るく、白い。真っ白な世界へ登っていくような感覚だった。

 いつもの倦怠感でなく、多幸感に包まれたような気持ちを抱きながら、やがて聡臣の意識は途切れていく。

 そして、ぼんやりとだけ目を開けた先に、クチナシを香る霞美の笑顔が浮かび上がる。

 久しぶりに見た、霞美の屈託のない笑顔。滅多に見ることのない満面の笑みをいっぱいに顔に浮かべながらも、彼女は大粒の涙を流していた。

 意識が途切れるその瞬間、霞美の口元が動いたのを認めた。声は聞こえなかったが、何を言ったのかは理解出来る。

 それはきっと「さよなら」だった。

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