三章 慨世 9
七月十四日
その一年に起きた嬉しかった事、悲しかった事などをお互いに直筆で書き記し、お互いの思い出を共有する。一緒に出かけた場所の話や、喧嘩した日の事など、双方が同時に体験した事もお互いの主観で物事を記すので、また違った発見があり、その日の思い出を新鮮な気持ちで懐かしむことが出来る。
聡臣はこれを楽しみにしていたし、霞美もそうだったと思う。だがこの手紙交換は、霞美が
黄泉人になり、手紙という媒体の貴重さが損なわれたから辞めたのではない。たとえ書いても、そこに辛い事しか記せなくなったからだった。
只でさえ生きる希望を見失った彼女が、それでも尚死ぬことのない監獄に閉じ込められたその時間、何を思って過ごしていたのだろうか。
今、目の前で虚ろな表情のまま俯いている彼女に、これから先聡臣がしてやれる事は果たしてあるのだろうか。霞美の表情を目にする度、聡臣は自責の念に駆られ、そしてどうしようもない自己嫌悪と後悔に苛まれていた。
もはや聡臣自身に出来る事など無い。少なくとも自分ではそう思い込んでいる。
自分は結局何の役にも立たなかった。だからここで一人、霞美に向かってただ懺悔している事の他にするべき事が見当たらなかった。
だが少なくとも、もう彼女に聡臣の声は届かないことは分かっていた。
その冷たい視線は逸らされる事は無く、それを実感する度に聡臣は頭を抱えた。
「もういいだろう……辞めてくれ……。仕方なかったんだ。大事な人を失う悲しみは、経験した者でないと理解出来ないだろう。……お前だって自らの命を絶っているじゃないか」
絞り出すような小さな呟きを口の中で呟くと、
「残された人間の気持ちが分かるか……? 先立たれて虚無しか残らないあの感覚が分かるのか? ……いや、そもそもお前の気持ちを理解してくれる人間なんて居たのか? ……無責任に自分の死を以て、辛い現実から逃げる事しか出来なかったお前に、他人の死を左右する権利があると思っているのか!? 俺を責める権利がお前にあるのか!? どうなんだ!!」
気付けば聡臣は、沙也加の影に向かって掴みかかろうとしていた。それは自分が見ている幻影だと今まで思っていたのだが、聡臣の腕が彼女の胸ぐらを掴めた時、その理屈は変わった。
一瞬、何が起こっているのか理解出来なかった。聡臣の右手はしっかりと沙也加のワンピースを掴んでおり、布の感触も、奥にある体温さえ感じれた。
違う、これは幻影だけではなく、ウィルスのせいだ。ウィルスがこうして実際に存在する人間に触れている、と錯覚させているだけに過ぎない。聡臣は自分にそう言い聞かせ、掴んでいた右手を振りほどいた。
と、その瞬間、今度は沙也加の左手が聡臣の腕を掴んできた。物凄い握力で握りしめられ、思わず顔を顰めてしまうほど強く握られた。
沙也加の顔は先程と変わらず、無表情で冷たい視線のまま聡臣の目を見続けている。
やめろ、と言おうとした瞬間、沙也加の空いた方の右手で、首を凄い力で絞められた。
突然の事にパニックになり、何も抵抗出来ないまま聡臣の意識は薄れていく。と、今まで沙也加だった顔が霞美の顔に塗り替えられていく。霞美になった顔は、悲しいような辛いような複雑な表情を聡臣に向けた。
聡臣にはそれが、自分を恨んでいる顔に見えた。電子の牢獄へ閉じ込めた自分への恨み。きっと彼女は恨んでいたに違いない、そう悟った。
朦朧とする意識、
聡臣は、自分を罰してくれる誰かを待ち望んでいたのだと思った。
視界が暗くなり、意識は途切れた。
次の瞬間、強烈なストロボ明滅のような強い光に聡臣は目を覚ました。
薄っすら広がっていく視界の中で、聡臣は見知らぬ部屋に一人佇んでいた。必要なもの以外置いていない、という雰囲気の殺風景な部屋だった。ただ一つ、部屋の隅に置いてあるデスクにコンピューターが一基、椅子とともにあるのみ。
ここはどこだろうかと考えるが、答えが出ない。訳が分からず、死後の世界は意外と現実的なのだなと馬鹿馬鹿しいことを思った。
すると背後から、扉を閉める音が響く。振り向くと、知らない男が部屋に入ってくるところだった。
黒いジャケットに黒いパンツを履き、全身黒尽くめの暗い男だった。彼もまた表情を失った顔をしている。男は聡臣に気付かないまま、デスクに腰を落とし、何事か映るモニターに目を向けて座った。
この男に、聡臣は少しだけ見覚えがあった。朱音が天城沙也加を調べた時、写真に写っていた彼女の脇に佇んでいた男だ。
それを思い出した途端、知っていたわけではないが何故か彼の名前が頭に浮かんだ。
その情報を皮切りに情報の波が聡臣の脳内を埋め尽くしていった。膨大な量の記憶、感情、情報が一気に押し寄せ、割れるような痛みとともに聡臣に流れ込んでいく。
高村賢人という男が歩んだ人生、沙也加の死、要が引き継いで完成させた
最後に今彼が居る部屋の住所の情報が流れ込み、それで最後だった。
割れそうにズキズキと痛む頭を起こしてみると、部屋の中で賢人も立ち上がり、同じ様に頭を抱えていた。
聡臣がそれに気づくと、賢人がこちらへ目線を向けた。驚いたような顔で聡臣の目をしっかりと見ている。明らかにこちらの存在に気付いている様子だった。
彼はその右手を、聡臣に向かって差し出した。聡臣もそれにつられ、磁石が引かれ合うように二人の手のひらが重なった。
瞬間、視界はプツリと途切れ、気がつけば聡臣は強制的に
今何が起こったのか、理屈的に詳しい説明は出来なくても、聡臣は肌で感じていた。沙也加という存在を通し、高村賢人という存在へ「繋がった」のだと分かった。
さっきあの部屋で見た賢人の姿は、リアルタイムの賢人の姿であり、あの椅子は簡易的なダイビングチェアだった。
同時に聡臣は、彼に会わなければいけない使命感に駆られた。
会ったからどうなるというわけでもない。何かが解決するのかも、それが正しいことなのかも分からなかった。
だが、彼に会わなければいけない。そうしなければという確固たる義務感、もっと言うなれば運命のようなものだ。そう思った。
電撃が走ったような感覚を覚え、気付けば聡臣はセンターを飛び出して車まで戻り、最後に流れてきた住所の情報をナビに叩き込んだ。
高村賢人に会う。それだけでいい。
後のことなどはどうでもよく、ただそうする事だけが、今自分が出来る最善の選択だと聡臣は強く思い込んだ。
その先に何が待ち受けていようと、どうなろうともう構わない。成るように成る、半ば諦めたような思考だったが、どこか漠然とした希望のようなものも僅かに抱き、聡臣は乱暴にアクセルを踏み込んだ。
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