三章 慨世 8

畑川小麦はたかわこむぎ

七月十四日


 あいも変わらず、うだるような暑さが続いていた。

 外に出てただ立っているだけで腕が痒くなってくる。日焼け止めもしっかり塗っているのにも関わらず、太陽は知らん顔で肌を刺してくる。

 隣に立つ朱音あかねも目に見えて肩をがっくりと落としている。いつも凛々しい格好で佇んでいると思っていたのだが、先日も自分の探偵事務所で足を投げ出して座っていたりしていた。きっとそれがこの人の素の姿なのだろう。

 被っていた麦わら帽子を脱ぐと、更に加速したあまりの暑さに小麦こむぎは逃げるように目の前の扉を勢いよく開けた。

宏親ひろちかさん、お邪魔します」

 扉を開けて声を投げると、奥の方からぬっと宏親が顔を出した。前に会った時よりも更に無精ひげが増えている。あゆみの件が相当に答えている様子で、初めて会った時の気概は今や全く感じられない。覇気が消え去っていた。

凸凹でこぼこコンビか、何の用だ」

 無愛想が更に無愛想になったような声で宏親は面倒くさそうによろよろとこちらへ歩いてきた。小麦たちの事を差しているのであろうが、どちらが凸で凹なのだろう、と小麦は下らないことを思っていた。

「加賀美さん、原崎から連絡が来たでしょう」

 朱音が眉尻を下げつつ言う。彼の様子に呆れている様子だった。

 その日の朝、かなめから恐らく全員に連絡があった。隔離サーバーで覚醒している疑似黄泉人よみびとである二人、聡臣さとおみの弟の友星ゆうせいと、あゆみ。彼らと共に、ウィルスのメカニズムを掴み、対策を遂に練るのだという。

 来るか来ないかは自由だが、誰一人来なくても実行はする、ということだった。

 朱音の呼びかけに、宏親はどこか力なく答える。

「……あぁ」

「もうすぐ時間です。一緒に行きましょう」

 小麦がそう言って手を差し出してみせると、宏親はその手に視線を落としながら言った。

「なぁ占い師さんあんた、その変な力、あゆみにも使ったのか?」

 不意に声をかけられ戸惑った。先日要の部屋に集まった際は、あゆみの事をよろしく頼むと要に言ってはいたものの、本心ではまだ不服に思っているのだろうか、と小麦は疑問を持つ。

 確かにあんな状態では監禁されているのと大差ない。だからと言って、専門家がそうするしかないと言うのであれば、それ以上の事は素人が口を出して良い問題ではないのかもしれない。それでも異を唱えることは間違いではない。

「……はい、一度だけ」

「聞かせてくれないか、どうだったのか」

 小麦は一瞬躊躇ためらった。小麦畑にあゆみが訪れた時、使うつもりはなかったのだが彼女の心に潜行した時のことを思い出したからだ。

 あれは、あゆみの感情や記憶などでは無かった。天城あまぎ沙也加さやかが小麦に向けて行った警告と言っていい。あゆみが死んだ今思い返せば、これからあゆみへ起こる未来を示唆していたのだと思う。

 そこで見たあゆみは苦痛と恐怖を顔に浮かべていた。思念潜行した影響では無く、沙也加に対して小麦自身が恐怖したのも手伝って、あんなものを伝えるべきなのかどうか迷った。

 それでも宏親にとっては重要な事だろう、深く呼吸を吐き、小麦は宏親の目をしっかり見た。

「あゆみさんは、物凄い恐怖に囲まれていました。全てを視る事は出来ませんでしたが、断片的な情報だけでも、相当なものだと推測できます。きっと、あの日私の元へ訪れたあゆみさんは、藁にも縋る思いだったのだろうと」

 宏親も朱音も、立ったまま小麦の言葉に耳を傾けている。

「それと、宏親さんの事をとっても想っていました。これは潜行しなくても……彼女の様子を見れば分かります。きっと、もの凄く頼りにしていたのだろうと……」

 そこまで言うと、宏親の目から涙があふれていくのが見えた。宏親の豪気な印象が今日は尽く崩れていく。驚いて小麦の口も止まってしまった。

「でも、俺は無力だった……。呑気に、なんも気付けねぇまま、なんも出来ねぇままあいつは死んじまったよ……」

 それを聞き、朱音が声を荒げた。

「らしくないですよ、加賀美さん! だったら、これからでも出来る事を探しましょうよ!」

 朱音の声もどこか上ずっており、涙こそ見せなかったが彼女も感情が揺れているのであろう事が分かる。

「ああ、俺もそう思ったんだ。あゆみの葬儀が終わった日、気持ち悪ぃ宗教勧誘が来やがってよ……。こんな奴らに死んだ後も搾取され続けるなんて、酷すぎる話だろ? だからさ、こんなふざけた事件、とっとと終わりにして欲しいんだわ……」

「だったら、加賀美さん!」

 声を強める朱音をそろそろ制しようかと小麦が思った時、宏親がまぁまぁと朱音をたしなめた。そしてくるりと強めに首を回し、左耳の裏側をこちらへ向けた。そこには、リンクスがインプラントされていた。

 思わず小麦と朱音が二人揃って声を上げる。宏親は涙を拭いながら言った。

「原崎なんてヤローに任せっきりはごめんだ。メカニズムを掴みたいんなら、あの部屋に作られたYOMIヨミ……あゆみの所に行く生身の人間が必要なんだろ? だったらその大役は俺が引き受ける」

 たった数日でインプラントを施すなど聞いたことがなかった。通常はリンクスを発注し医療機関へ申請をして……とにかく日数のかかるものであるし、身体の適合は時間を掛けて行われる。言ってしまえば異物を埋め込むものであるし、無理を押すと身体への負担がとてつもないと聞いた。

 前者の解決は容易に想像出来る。宏親自身が技師であると同時に、病院やクリニックなど多くの提携先を持つ彼ならばコネクションというものも相当にあるだろう。得意先などへ無理を言えば急なインプラント手術は可能だ。リンクスそのものもあるし人も集めれる。

 だがやはり肉体的な問題は難しかったようだ。宏親の覇気がいつもより感じられないのは、心が沈んでいるせいではなかった。適合が未だ済まず、体調への異変として現れているのだろう。

 それでも立ち上がり、あゆみの元へ向かおうとするその気概に、小麦は圧倒された。この人はなんて強いのだろう、と。

 隣で朱音も口をあんぐり開けて突っ立ったままで居る。驚きのあまり言葉も出ないようだった。

「では、行くのですね」

 小麦がそう問いかけると、宏親はこくんと頷いた。

「……分かりました。あたし、運転荒いですからね。覚悟して下さい」

 朱音がそう言って店を後にする。宏親が悪態をつきながらも二人と共に店を出て、店先に停めてあった朱音の車へと乗り込んだ。


 朱音が派手に建物の前に車を乗り付けて三人で降りた時、宏親の顔が店を出る時よりも青くなっていたのは、インプラントされたリンクスの適合の状況のせいでは無いと小麦は哀れんだ。当の本人の朱音は暑さに文句を言いながらスタスタと歩いていく。

 辛そうな宏親に日傘を差し出し、小麦は彼に歩調を合わせてゆっくりと建物へ入っていった。

 要の家、玄関の前に到着し、朱音が玄関に備え付けてあるインターホンを鳴らそうと手を伸ばす。が、その瞬間にドアが開いた。

 中から要が顔を出し、クイッと顎で「入れ」の合図をする。三人で部屋へ入ると、開口一番に要が言い放った。

「葦澤聡臣は来ないそうだぞ。妻がヤバいってのに、何考えてるんだろうな」

 既に窓際を開け放ち、蝉の鳴く窓へ向かって紫煙しえんを吐いている。また喫煙していた。

 聡臣が来ないという事に一抹の不安はある。以前この部屋で会った時、酷く憔悴しょうすいした様子でいたのを小麦も他の人も目にしている。

 天城沙也加の亡霊に纏わり付かれた妻の霞美かすみと接触したのであれば、彼にも間違いなくウィルスは感染している。発症という呼び方が適切なのかは分からないが、いずれ彼も死に向かってしまうのではないだろうか。

 それが今すぐでなくとも、時間の問題である。小麦は彼の暗い顔を思い浮かべ、心配した。

 友星の声がモニターのスピーカーから響く。

「来ない兄貴の心配をしてもしょうがない。結果的に俺たちが何とかすれば、問題は何も起こらないから」

 それは確かにその通りだと小麦は思った。今ここで原因の究明を急いだ方が結果的に良いだろうと。

「よし、じゃあ俺が関口あゆみの元へダイブする。君等はそこでその様子をモニターしてくれ」

 要が乱暴に煙草を灰皿に押し付け、肩をぐるぐると回しながら奥に据えてあるダイビングチェアへと足を向けた。しかしそこへ宏親が割って入って先にどかっと座ってしまった。

「おい、ふざけてる余裕は無いんだぞ」

「あゆみの所には俺がダイブする」

 そう言って宏親は要に向かって左耳の後ろを見せた。要は特別に表情を変えはしなかったが、大きなため息を吐いた。

「加賀美宏親。あんた適合がまだ済んで無いじゃないか。あんたの立場からすれば確かにインプラント自体は直ぐ出来るだろうが、ダイブは無理だ。二日も経っていないだろう?」

「知るか、そんなもん。あんたがダイブして何か変なもん持ち帰ったらそれこそどうすんだよ? 悔しいが、あんたが倒れちまったらもう何も打つ手がねぇんだよ、こっちは」

 要は何かを言おうとしていたようだったが、「まぁそれも確かにそうだ」と呟いて腕を組んだ。小麦はその様子を見て口を開く。

「あの、大丈夫なんでしょうか? 私もインプラントしていないので、どんな感じなのか分からないのですが……宏親さんに重大な影響は……」

 それに対しては、小麦の隣に居た朱音が答えた。

「結構キツいと思うよ。正直今加賀美さんが意識を保ってるほうがおかしいくらい。神経系の適合がまだ済んでいない状態で仮想現実に潜るのは確かに危険」

「詳しいなあんたは。さすが探偵か。本来は数日から数週間適合の時間を取るんだが、まぁそれでも初めてのダイブはキツイ。個人差がある上にデータもまばらではっきりとした事は言えないが、下手すれば意識が戻ってこなくなったりするな」

 朱音の説明に要が補足したが、それを聞いても尚、宏親は椅子を降りなかった。

「そん時はそん時だ、なるようにしかならねぇだろ。脅かす暇があんなら、早いとこ行かせてくれや」

 小麦はそう言って微笑む宏親を見て、最初の印象を思い出した。この人はこうでないとしっくり来ない。なんとなくだが、無事に戻ってこれる気がした。

「威勢が良いのは置いておくが、仮に上手くダイブ出来たとして、その後はウィルスに侵される事になるぞ。今回の接触はあくまで調査。その後どうなるかなんて保証出来ないぞ」

「関係ねぇよ。ここで行かなかったら、どうせ後で後悔すんだよ。だったら何もしないで後悔するより何かやって後悔した方がマシだ」

 要はその台詞を聞き、こくりと頷くと、モニターが沢山並んだダイビングチェアの脇にあるデスクへ向かった。朱音と小麦も後に続く。

「まず友星を向かわせる。その後にダイブしてもらうぞ。かなり強い酩酊感が襲うだろうから、友星と俺でサポートする」

 具体的にどうするのか、という宏親の問いに、要はふふんと鼻を鳴らして答える。

「リンクスの機能を使えば、思ったより色んな事が出来てね。神経伝達物質のやり取りを強制的にコントロールさせてもらう。このウィルスに感染した者との接触では恐らくだがドーパミンの過剰放出が起きるだろう。これを受け取ってしまうとあんたにもさやかの影が見えてしまう。そうならないように分泌量の調整を行う、とかだな」

 宏親は理解したのかしていないのか、軽く頷きながら聞いていた。

「まぁあんたが気にすることじゃない。大船に乗ったつもりでいろ。友星、準備はいいな。飛ばすぞ」

 要がそう言いながら、コンピューターから伸びている一本の線を自分のリンクスに繋いだ。

 朱音がそれを見て、「リンクスの有線接続を初めて見た」と目を見開いて言っていた。

 その殆どの通信を無線方式で賄っているリンクスだが、外部のシステムと接続する時に起こり得る遅延という懸念材料を全て排除するために、稀に有線接続を用いる場合があった。話には聞いていたが、小麦も初めて目にするものだった。

 友星の準備完了の合図を聞いて、要の目の色が変わる。網膜投影で画面を見ているのだろう。目の前に表示されたモニターに何事か目まぐるしく色々なものが開いては消え開いては消えていく。

 横にいる朱音もいつの間にか網膜投影で同じ画面を見ているようで、このモニターは網膜投影でモニタリング出来ない小麦の為のものだと思い至った。小麦には意味の分からない英数字の羅列が続いていてすぐに嫌になりそうだったが、そのうちに小麦でも分かる画面に切り替わった。

 真っ白な部屋の中で、友星と倒れているあゆみを写した、監視カメラのような映像だった。

「友星が入った。こちらの声は良好そうだな。加賀美宏親、ダイブ開始だ」

 要がそう言うと、ダイビングチェアが音を立てて光りだす。起動したようだ。

 宏親は意気込んだような表情をしていたが、すぐにこてんと眠りに落ちるように首を落とし、動かなくなった。

 その直ぐ後に画面内で動きがあった。宏親が足元から徐々に現れていく。その様子を形容するのに、小麦はまるで3Dプリンターみたいだな、と思った。

 数秒で宏親の姿も白の部屋の中に現れ、そしてすぐに倒れ込む。しかしそれを側に居た友星に抱えられていた。

「落ち着いて、宏兄ィ。ダイブは成功してる。ほら深呼吸して」

 苦しそうに頭を抱え、歯を食いしばる様子の宏親だったが、友星の言葉を受けて深呼吸をする。するとそれに合わせて現実の宏親の肺も大きく膨らんでいく。

「凄い、これが仮想現実へのダイブ……。初めて客観的に見た気がします」

 思わず感心した小麦がそう呟くと、朱音もうんうんと頷いた。それにしては冷静だなと思い、改めて朱音の肝は据わっていると実感した。

「……くっそ、最悪の気分だぜ」

 初めは悪態をついていた宏親だったが、倒れ込んだあゆみの姿を見るとすぐに静かになった。ただ彼女を見つめ、眉尻を下げた顔を浮かべている。

「で、どうすんだ」

 宏親がカメラの方を向いてこちらに問いかけてきた。しかしその質問には友星が答える。

「とにかく、あゆみさんと接触してみよう。話しかけたり、実際に触れたりしてみないと分からない……。けど、広い意味で言えば同じサーバーに入った時点で感染しちゃってるけどね」

 宏親がそれを聞き、少し離れたところに倒れているあゆみの元へ恐る恐る歩み寄っていった。

「あゆみ……聞こえるか?」

 返事は無いようだった。よく見れば、小麦も記憶に新しい、あの日死んだ姿のままあゆみは倒れていた。小麦畑のキッチンの中で血の海に倒れていた、あの日そのままの服装、そのままの格好だった。

 小麦は思わずあの時の光景を思い出し、顔をしかめる。

 画面内で未だ動きは無い。機械的な要素でもおかしな部分は無いようで、要が真剣な面持ちのまま見続けている。

「関口あゆみのバイタルサインに反応が無い。君等の事を認識出来ていないようだ」

 要はそう言って、実際に触れてみることを勧める。

「宏兄ィ、頼むよ」

 友星が促し、宏親は恐る恐る声を掛け続けながらあゆみへと近寄って腰を落とし、倒れたあゆみの肩口へと手を伸ばしていく。

 緊張が走り、見ている小麦の心臓まで高鳴るのを感じる。画面の端、恐らく宏親のバイタルサインが表示されている場所の心拍数も跳ね上がっていく。彼も実際に緊張しているのだ。

 いよいよあゆみの肩に宏親の手が触れた瞬間、それまで全く何の反応もなかったあゆみに動きがあった。突然首がぐるりと回り、その光の無い目が真っ直ぐに宏親を見つめた。見つめられた宏親が後ずさり、口をぽかんと開けたまま尻餅をつく。

「宏兄ィ、どうした……? えっ」

 友星がそう声を掛けて宏親の元へ駆け寄った瞬間、要が呟いた。

「早すぎる……」

 小麦が目線をモニターに戻すと、宏親、友星、あゆみの三名のバイタルサインの値が数字ではなくなっていく。文字化け、英数字、ひらがなカタカナ、物凄い勢いで瞬く間にランダムな文字の羅列に変わっていく。

「な、何が起きてるんですか!?」

 小麦が思わず叫ぶ。要はそれでも冷静な表情を保っていたが、返答はしない。相当に集中している様子で、額には薄っすらと脂汗が浮いていた。

 画面の中では、相変わらず動かない宏親と友星、だがあゆみだけは身体を起こし、立ち上がろうとしていた。

「侵入速度が早すぎる……! 狭すぎたんだ……くそっ!」

 要が悪態をつき、違う画面を同時に開き、どうやら友星と宏親の強制ログアウトを行おうとしているようだった。

「あゆみ……お前……どこ行っちまったんだよ……」

 宏親が声を震わせながらそう呟いた。小麦もそちらに目を向けると、あゆみの顔があゆみではなくなっていた。

 彼女はこちらのカメラの方を向き、その瞬間顔の部分にノイズが走り、気付けばその顔は、沙也加の顔になっていた。

 それだけでは済まず、体つきも身長も服も、何もかもが瞬きする間にあゆみではなく沙也加に変わっていった。

「要さん! 俺が部屋全体をスキャニングしてる! データは届いてますか!?」

 友星の叫び声にも聞こえる声が響き、要がそれに珍しく声を荒げて返事をした。

「届いてる! 並列処理で今解析を始めたぞ……」

「原崎さん! 早く二人を戻して!」

 朱音が隣で叫んだ。要はそれには返答せず作業を続ける。血管が浮き出て、顔は赤くなりはじめていた。

 彼はリンクスを経由して、自分の脳信号を変換させてコンピューターを操作している。このままでは要にも多大な影響を受けてしまうのだと小麦にも分かった。

 画面の中で友星が突然叫び出した。宏親も頭を抱えて蹲ってしまった。あゆみ──沙也加は二人に歩み寄って手を差し伸べるような格好になっていた。

 この二人には何が視えているのか。画面を通していても小麦には言い知れない恐怖が伝わってきている。あの現場にいる二人はこれ以上の恐怖を味わっているのかと想像したら居た堪れない。

 画面内はノイズで埋まり始め、やがてカメラも映らなくなってしまいそうだった。

「間に合え、くそっ!」

 要が声を荒げてそう言った瞬間、画面に映る二人の姿はふっと消えた。と同時に、カメラの映像はノイズに塗れて何も見えなくなってしまった。

 要が音を立てて椅子に倒れ込み、慌てて朱音と小麦で抱える。

「俺は大丈夫だ、それより……」

 言って要は宏親の方を指差す。ダイビングチェアはいつの間にか静かになっており、宏親はもう黄泉から帰還したのだと分かった。

 小麦がいち早く駆けつけ、宏親の名前を読んで肩を揺さぶる。と、小麦の視界がプツリと途絶えた。

 この感覚はよく知っている。またやってしまったのだ。

 思わず宏親の中へ潜行してしまった。

 そして次に気がつくと、小麦は自分が白い部屋に横たわっていた。

 これは、先程見た映像の部屋の中だ。何故自分がここにいるのだろう? 気付いてからは早かった。

 真横に横たわるあゆみの姿、尻もちをつく宏親の姿、その背後で頭を抱える友星。状況を理解した瞬間、電気が消える様に部屋は真っ黒に染まった。暗闇の中、何かが擦れるような音だけが響く。

 後ろから宏親の震える息遣い、そして目の前に何かの気配を感じ取る。そちらへ目を送ると、目の前に沙也加の顔が浮かんだ。

 反射的に後ろへ仰け反って目を閉じた瞬間、宏親の叫び声と共に、今まで感じたことのない規模の「恐怖」という感情が小麦を包み込んでいく。四方八方から沙也加の声が聞こえ、金切り声のようなそれはやがて耳をつんざくような音へと変わっていき、いつしか目の前にあった沙也加の顔も、部屋の風景も、何もかもが闇に落ちていた。

 突然闇の中は静寂に包まれ、耳を覆っていた小麦は恐る恐る周りの様子を見渡す。奥の方にただ立っているあゆみの姿が見て取れたが、それは徐々にこちらへ近づいてくる。

 姿形がぐにゅぐにゅと変容していき、沙也加の姿になったり、あゆみの姿になったり、不安定な様子だった。やがて最後は、小麦の母の姿に変わって──。

 そこで小麦は叫んだ。喉が張り裂けても構わないとばかりに叫び、あまりにも強く叫んだためか喉の奥が痛みで熱さを感じるほどに。

 そして、いつしか小麦は現実へ引き戻された。

「無事か」

 要が力なく呟き、宏親は頭を抱えて苦しそうに体を起こした。いつの間にか倒れ込んでいた小麦の身体は、朱音に抱えられていた。

「朱音さん、ごめん……」

 朱音はホッとしたような怒っているような複雑な表情で軽く頷くだけだった。心配してくれていたのだろう。小麦は申し訳なく思い、不用意に誰かに触れることを気をつけようと思った。

「あったまいってぇ……畜生。何がドーパミンの過剰放出をコントロールする。だよ……。身体が震えて仕方ねぇぜ。……おい、どうだった? なにか分かったのか」

 宏親が機嫌の悪そうな顔を要に向ける。

「適合が不十分なあんたが無事に戻ってきただけでも儲けもんだよ。これからは無茶しないようにするんだな」

 要が窓際に向かい、煙草に火を付ける。もう嗅ぎ慣れてしまった煙草の臭いは、妙にその場の全員を落ち着かせたように小麦は思った。

「……正直、考えが甘かった。YOMIヨミは膨大なサーバーで成り立っている。黄泉人の数も多いし、消えていく速度がそれなりに遅かったのはそのせいだ。言わば行列と一緒だよ、順番にゆっくり一人ずつ侵食していくような。並列処理はしてるんだろうが、それでも人数が膨大で、ウィルスの侵食に時間がかかっていたんだろう。それに向こうには管理AIのイザナミが居る。気付かれないためにも秘匿性を保っていた結果だろう」

 そこで大きく吸って吐いて、肩をがっくり落としながら要は続ける。

「だがここじゃ別だ。隔離サーバーは小さいし、監視も俺と友星しかいない。それに対象が二人しか居ないんじゃウィルスの影響はダイレクトに起こる。だからあんなに侵食が早かったんだろう。友星は多分……もう駄目だ」

 そう言われて、小麦は画面に目を向ける。分割された画面の左側、友星があゆみと同じ様子で倒れているのが分かった。口元だけが少し動き、何事か呟いているのだけが見て取れる。

 右側のあゆみが映っていた画面はもはやノイズ塗れで何も映っていなかった。

「あんたは黄泉人よみびとじゃないからまだマシだ。友星は存在が電子的だから、受ける影響も早いんだろう。残念だが……」

 乱暴に煙草をもみ消し、モニターまで要が戻ってくる。そして友星が映る画面の前で頭を垂れ、すまない、と一言だけ呟いたが、友星が聞いているのかどうかは分からなかった。

 もう彼は画面の中で倒れ込んだままぴくりとも動かない。生きているのか死んでいるのか判然とせず、モニターに表示されたバイタルサインは一つの値も動かず止まったままになっていた。

「……じゃあ、これからどうするんですか。何も収穫が無いまま、はいこれで終わりって事ですか? 宏親さんも友星さんも犠牲にして……このまま二人がいなくなるのを見てろと言うんですか!?」

 思わず、小麦は声を荒げてしまった。感情が高ぶるのは久しぶりだったが、これではあまりにも二人が報われなさすぎるのではないかと憂いた結果だった。自らを犠牲にしてまで解明の協力をしたのに、一番頼りにしていた要が何も出来ませんでしたと来れば、はらわたが煮えくり返るような気持ちだった。

 しかしそれもすぐに要の一言で落ち着いた。

「怒るなよ。何も収穫が無いなんて言ってない。二人がウィルスの影響を受けた時から全てのデータを記録して、もう解析まで始めてるよ。見ても分からんだろうが」

 朱音がそれを聞いて、網膜投影で要のコンピューターを覗いた様子だった。そしてしばらく目を動かしてから「本当だ」と呟いて、続けて要に聞いた。

「これを解析したら……どうなるんです?」

 要はゆっくりと答えた。

YOMIヨミのバックアッププログラムに解析したデータを組み込む。そいつを実行すれば、まぁ晴れて一件落着ってやつだ」

 それを聞いた宏親が勢い良く起き上がるが、ふらついてしまって朱音に支えられる。未だ朦朧としていながらも要に詰め寄る。

「おい、それって……」

「君と友星のおかげだ。よくやったよ、加賀美宏親。そんな状態でな」

 待ち望んだ一言が貰えて安心したのか、宏親はそのままふらふらとダイビングチェアにまた座り込んだ。

 小麦も朱音と目を合わせながら、瞬きを数回する。

「じゃあ、この事件が終わらせられる……って事ですか?」

 朱音が聞くと、要はこくりと頷いた。口には既に煙草を加え、火を点けにまた窓際まで歩いていった。

 朱音の目に光が宿り、明らかに表情が緩んで視えた。小麦もまた明るい気持ちになったが、すぐに犠牲者たちの事が頭に浮かぶ。あゆみだけではない、他にも沢山の犠牲者が出てしまった。彼らの無念を思うと、手放しでは喜べないのが現実だった。

「ただ、このやり方では消えてしまった黄泉人の復元は不可能だ。そして、既に感染してしまった黄泉人を元に戻すことももはや出来ない」

 要がどこか窓の外の遠くを見つめながらそう言った。

「ちょっと待てよ、それじゃあ……」

「ああ、現時点で百パーセント感染していない黄泉人というのは、もういないだろう。このバックアッププログラムに出来るのは、YOMIヨミの全てをゼロに戻し、ウィルスの痕跡を全て消滅させる事しか無い」

 小麦も含め、その場に居た全員が息を呑んだ。要の言葉を理解するだけで精一杯という様子だった。

「そんな……」

 朱音が落胆した様子で言葉を地面に落とした。

「それでも事態の収束は可能だ。正直な所、俺と友星だけじゃ無理があったよ。このプログラム……”イザナギ”を作り上げるのはな」

 要が言いながら、友星の映る画面の方へ向かう。モニターの前に座ると、ぼんやりとした表情で友星を見つめていた。

「すまんな、友星。こんなとこに縛り付けた挙げ句、最後がこうじゃあな……恨まれても仕方ないな」

 要が独りごちるように呟いた。誰もが俯いて何も言わなかったが、沈黙を破ったのは友星だった。

「いい……です……要さ……。さ……ごに、兄貴に、会え……し……」

 か細い声で友星の声らしき音が聞こえた瞬間、その場の全員が驚いて画面に注目した。要はモニターに齧りつきそうな距離まで顔を近づけて彼の声を聞いていた。

 よく見ると口元だけがゆっくりと小さく動き、言葉を発しているようだった。小麦が素人目に見ても、最後の力を振り絞っているような印象を受けた。

「役に、たてて……こうえ、いです……。こ……な、俺を……めんど、見てくれて……ありが、と……ざい、まし、た……」

 その言葉を言い終わった瞬間、友星の首がぐるんとこちらへ向き直る。その瞳から光が消え、凍てつくような視線を小麦は感じる。

 画面にノイズが走り、友星の顔が、友星で無くなっていくその瞬間、要がモニターの電源をプラグごと引っこ抜いて乱暴に切った。今まで感情をあらわにしてこなかった要が、初めて見せる表情だった。

 誰も何も言わず、ノイズの音も消え、その場に残ったのはコンピューターの空冷ファンの音と、窓から飛び込んでくるヒグラシの声だけだった。

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