三章 慨世 6

原崎要はらざきかなめ

七月十二日


 開け放った窓から紫煙しえんが逃げてゆくのをぼんやりと見つつ、「雨は嫌いだ」とかなめは呟いた。事実そうであった。

 雨に濡れれば体温は下がるし、気圧も下がって頭痛も起きる。さらに少し外へ出ただけで足元はびしょ濡れになる。これらの不快感だけでも充分理由にはなるのだが、雨の日に纏わり付く湿気った空気が要は苦手であった。

 ジメジメとした室内に居るだけで苦しいし、雨に濡れた者が衣服を乾かすために室内に入りその水分が蒸発していくと堪らない。

 それが数人になればその人の臭いも空気中に混ざり合い、様々な成分を伴って飛散しているその空気の中で息をしなければならないのだ。考えただけで嫌になるので、そんな時は窓を開け放って一服するのが要にとっては当然だった。

 一本の煙草を吸い終えて灰皿に押し付けながら振り返ると、室内は雨の湿気だけではこうはならないであろう重たい空気が停滞していた。

 葦澤聡臣あしざわさとおみは石像のようになって年季の入ったソファに一人腰掛けながら項垂れ続けている。一体いつまでそうしているつもりなのか、先程から姿勢は全く変わっていないように思えた。友星ゆうせいとの再会を経てからずっとこの調子である。

 その聡臣から連絡を受け、この部屋に新たに三名が招集された。うち一人が加賀美かがみ宏親ひろちかである。

 彼はずっと部屋の入り口近くに壁に寄り掛かり、不機嫌そうに口をへの字に結んで腕を組んでいる。だが、少し気を抜けばこちらに襲い掛かってくるのではないかと思えるほど警戒している様子だった。

 実際、訪れて数分もしないうちにモニターに映る関口あゆみを目にした瞬間、要は食って掛かられていた。聡臣が止めなければ、あの太い腕から繰り出される想像したくもない重い一撃を食らっていたことだろう。

 宏親の後に訪れた残る二名は、畑川小麦はたかわこむぎ新堂朱音しんどうあかねだった。この二人は要が直々に呼んだ。と言うよりも脅して連れてきた、の方が正しかったかもしれない。

 カクリヨ本社のサーバールームに彼女らが侵入した時に接触を図ったのだが、あと一歩接触の仕方を間違えたら要は感電死していたかも知れない、と改めて身震いする。それだけあの時の朱音の表情は鬼気迫るようなものだった。

 今は大人しくしているが、分かりやすく眉間に皺を寄せて、小麦を庇うようにして部屋の端で仁王立ちしている。

 朱音はあの時、リンクスを経由して意識の神経回路を一瞬だけ遮断させたというのに、その直ぐ後、縛り上げた途端に自力で目を覚ました。タフな探偵だと要は心で少しだけ彼女を褒めた。

「俺は雨よりもアンタの方が嫌いだ」

 久しぶりに口を開いた宏親がそう言い放つ。呼応するかのように朱音も続けた。

「加賀美さん、あたしも」

 宏親がそのドスの利いた低い声を聞いて、「意外と気が合うな、探偵さん」と呟いた。そのやり取りの最中に小麦が朱音の後ろでぶんぶんと縦に首をふるのが見えた。

「随分と嫌われちまったもんだね、まだ会って間もないのに」

 頭をわざとらしく掻きながら、要は窓の近く、PCデスクの前の椅子にゆっくりと腰を下ろす。先程から遠慮なく座れと全員に促しているのだが、誰一人言うことを聞こうとはしなかった。無理も無いのであろうが。

「あの……そろそろ説明してくれませんか? 私達が集められた理由」

 小麦がか細い声で要を向いて聞いてくる。要はそれには答えず、聡臣が項垂うなだれているソファの近く、大きなモニターが一枚だけある机の方を指差した。

「あれ見りゃ分かるよ」

 宏親が更に顎でも促したので危険な事では無いと悟ったのか、朱音が小麦の手を引いてモニターへ近寄っていく。映っているものが分かる角度まで来ると、二人共息を呑んでモニターに釘付けになった。

「片方は誰か分かりますよね、新堂さん、畑川さん。もう片方は、俺の死んだはずの弟です」

 脇にいる俯いた聡臣が、顔を上げずにそう力なく言った。

 画面は二分割されており、左側には友星、右側にはあゆみの様子が映し出されている。朱音は生唾を飲み込みながら、あゆみが真っ白な部屋で生気のない顔で横になっている画面を凝視し、小麦は手で顔を覆っている。朱音が要を目一杯睨みつけ、要はそれに怯まず答える。

「確かに非道かも知れんが、これは調査の一環だ。理解して貰いたいね」

「調査? これはその程度の言葉で収まるものなの?」

 朱音が静かに噛み付いてきたが、声が震えているのが分かる。そのままの声色で質問を続けてきた。

「これはYOMIヨミ……? 二人共黄泉人よみびととして覚醒してるの?」

「厳密に言えばYOMIヨミで合ってるんだけど、そのシステムを流用したものだよ。個人用サーバーと例えれば分かりやすいかな」

 返事は要ではなく、画面の中の立ち上がった友星が答えた。朱音は驚いてそちらに向き直る。

「声が届いてるの……? YOMIヨミ内へのアクセス無しで、黄泉人と接触出来るの?」

「答えんでも分かるだろ。実際それが可能なんだから」

 今度は要はそう返して、再び煙草に火を点けた。

「始めまして、新堂朱音さん。俺は葦澤友星。そこで意気消沈してる葦澤聡臣の実弟です」

「あなた、ニュースで見たことありますよ。オートドライブAIの倫理問題の引き金になった事件の……」

 友星はうんうんと頷いてベッドに座り込んだ。要が続ける。

「コイツは可愛い後輩でね。YOMIヨミの内部に詳しいやつが、まさに内部そのものに居たら助かると思って、最近覚醒させて貰った」

「あゆみさんは?」

 朱音の質問に宏親が反応したのが気配で分かった。要は少し言葉を選びながら返事をする。

「丁度いいタイミングで亡くなったから……」

 言い終えるか終えないかのところで、宏親がこちらへ勢いよく向かってくるのが見えた。あれだけ動かなかった聡臣が思わず立ち上がり、宏親の前へ立ち塞がる。彼を止めたのは友星だった。

「ヒロ兄ィ、落ち着いてくれ! 詳しく説明するから落ち着いて聞いてくれよ。ヒロ兄ィが殴ったら要さん気絶しちゃうよ」

 聡臣を押し退けて右腕を振りかぶりかけていた宏親は、それを聞いて立ち止まる。不満そうに鼻を鳴らしてから腕を組み直してから元の場所へ戻っていく。

「ユウ、納得出来るもんじゃねぇと収まりがつかねぇぞ。俺も、聡臣もこの二人もそうだろうけどよ」

「みんな目的は同じなんだよ、要さんと。やり方が違うだけさ。この幽霊騒動をどうにかしたいだけなんだ」

 友星の一言を最後に一同は静かになり、部屋には雨音だけが響いた。咥えた煙草を深く吸ってから吐いて、要が咳払いをした後に喋り始めた。

「全員知ってると思うが、今YOMIヨミはとんでもない事態になってる。幽霊に殺されただの呪われただの、まるで世界が半世紀も前の時代に戻ったみたいだ。それで上層部から調査を命じられて、この騒動の早期解決を上からせっつかれる毎日さ。俺も最初は半信半疑だったが、この前の調査でやっと原因が分かった。それに、元凶になった人物も多分だが分かった」

天城あまぎ沙也加さやか

 要も続いて言おうと思った名前を、朱音に先に答えられた。それには頷くだけで答え、続きを述べる。

「実際にこの目で見たが、間違いなく彼女だろう。そこまで調べてるなら、天城沙也加が既に死んでいるというのも知ってるな?」

 朱音がこくりと頷いて口を開いた。その目が青く光っており、網膜投影で情報を見ながら話しているのが分かった。

「天城沙也加、脳科学者。YOMIヨミの前身となるニューロン解析技術を研究していた両親のもとに生まれる。しかし研究の途中で両親は病死。その後研究を引き継ぎ、両親が研究用として残していた自分たちの脳の意識データの成果により、人間の意識を電子化させる事に成功する。後に複数の協力者を得てカクリヨ社を立ち上げYOMIヨミのサービスを計画し、自らの両親を覚醒させる実演で一躍有名になる」

 そこで友星が口を挟んでくる。

「その協力者。そのうちの一人が要さんなんだよ」

 その場に居た全員の視線が一斉に要に向けられる。要は飄々ひょうひょうとした態度で手をひらひらさせた。「研究者なんて地味なもんだからな」と言った要を一瞥だけして、朱音が説明を続ける。

「だけど彼女は、それによって倫理の是非を問われる事になる。政治家や著名人などからの支持はとてつもなく得たが、一方で一般の市民層からは批判に次ぐ批判を受けた。まだリンクスも一般的でない時代の事、身体への機械のインプラント行為そのものや、既に亡くなった故人を利益化する事へ猛烈な批判があった……」

 朱音がここで一呼吸を置いて、やれやれと言うふうに首を振ってから、一旦休憩の意味も兼ねたのだろう、要の方へ喋りかけてくる。

「これに関する公の資料は無いけど、この批判っていうの、相当だったみたいですね」

「ああ、酷いもんだったな。ネット上での暴言なんかは当然、家にも差出人記載なしの脅迫文書の投函がされたり、挙句の果てにはいつの間にそんなものが出来ていたのか、抗議団体だと名乗る奴らに自宅に押しかけられ、朝まで嫌がらせをされたり。我々が知る限りでもこの通りなんだから、本人はそれ以上の被害を受けていたことになるな」

 要が身振り手振りでそう答え終わると、宏親が横槍を入れてくる。

「今じゃ世のため人のためってサービスになってるのによぉ……。その批判してた奴らってのはどういう連中だよ?」

「自分で物事を考えない、無責任な連中だよ。まず何よりも問題視されたのは実演だった。当時はこういう風に外部からYOMIヨミの仮想現実世界を可視化する技術なんて無いから、本物だと見て納得してもらうにはリンクスインプラントを施して貰うしか無かった。それが出来たのは、将来も国の中心となっていく政治家や著名人、科学者達だけ。一般の庶民には届かなかったんだ。賄賂を掴まされて言わされてるだけなんじゃないか、とかも言われてたな。自分たちに縁のない技術だ、政治家どもだけを優遇するなってね」

「気持ちは分かる気がしますが、なにもそこまで批判しなくても……」

 今までは静かに縮こまっていた小麦がそれを聞いてぽつりとそう零した。思わず意見を口にしたくなってしまったという様子だった。

「人間ってのはね。一人じゃどうしようもなく弱くても、仲間が居ると信じられないぐらい強くなっちまうんだ。この個が集って群になり、何か信念を持っちまうと、同調圧力ってのが掛かる」

 要が遠くを見るような目でそう答えた後、朱音は続ける。

「天城沙也加はその後、最終的にシステムの批判だけでなく、彼女個人にも及んでいった嫌がらせや脅迫の数々に耐え切れず精神を病み、自殺した……と」

 そこまで聞いて宏親が再び口を開いた。話に興味が湧いてきたのか、先程よりも近い距離に歩いてきていた。

「で、自分が作り上げた黄泉の国で復讐のために怨霊と化した……ってか? それじゃ一昔前のチープなホラー映画じゃねぇか」

 ふん、と鼻を鳴らした宏親に対して、要が返答する。

「そう、問題はここからだ。天城沙也加の脳はデータ化されていない。まだこの技術は研究段階で、両親の脳しかデータ化に成功していなかったからな、自分の分までデータ化する余裕は無かったんだ。だから、YOMIヨミへ覚醒することも叶わぬまま彼女は死んでしまった。だから今話題になっているさやかの呪いとかいうものは、彼女本人が現れているわけではない。あーつまり、黄泉人と化した彼女ではないという事だ」

「だったら、何が原因だって言うんですか?」

 朱音が口を挟む。その質問はその場の全員の感心を集めるには充分だったようで、部屋の空気が静かになり一層重くなる。要は宏親から朱音に向き直り口を開いた。

「簡単に言えば、幻覚だよ」

 要は目を伏せながら誰を見るともなく言ったが、誰の顔を見なくても、誰もが口をぽかんと開けているだろうことは想像出来た。雨が窓を叩く音だけが淡々と聞こえ、何故かその音が滑稽に思えた。

「幻覚なわけがないだろ……? 俺は確かにこの目で見たんだ! あれは……」

 聡臣が大声を上げて立ち上がった。要はそれを制する。

「まぁ待て。幻覚といっても只の幻覚じゃない。これは、特定の人物に共通した症状が現れる、感染症みたいなものだ」

 要はそこまで言うと、友星の方へ目線を向ける。続きは友星が紡いだ。

YOMIヨミにダイブする時は、リンクスを通じて向こうへ行く。この時、特殊な粒子が脳内へ送られて作用する。この粒子の発見が無かったら今の時代は築かれなかったんだけど……まぁそれは置いといて。この粒子の働きで、人の意識は、仮想現実へと送られる」

 聡臣と朱音、リンクス装着者の二人が思わず自分のリンクスに触れている。宏親と小麦は難しい顔をしながらも理解しようと話を静かに聞いていた。要が立ち上がり、続きを喋りながら窓へと向かう。

「で、この粒子は通常、管理するAIイザナミによって制御されているが、本社のサーバーに何かが侵入した。まぁコンピューターウイルスのようなものだな。詳しい理屈は省くが、その侵入した何かがYOMIヨミのシステムを通じて、この粒子に紛れて全世界の黄泉人の意識内と、ダイブした生者の脳内に忍び込んだ。それはずっと対象者の脳内に残留し、五感野ごかんやへの介入が続く。視覚や聴覚に変調をきたし、見えるはずのないものを見、聞こえるはずのないものを聞く」

 要が開け放した窓で再び煙草に火を点けながら説明を続ける。

「やがてそれは五感野だけでなく、島皮質とうひしつ大脳皮質だいのうひしつ、やがて脳そのものを支配していく。そうなるともはや姿が見えるだの声が聞こえるだけでは済まない。最終的にある衝動に支配されていく」

 落ち着かない様子の聡臣がいつの間にか近くまで来ていた。紫煙がたゆたう中、彼は必死な形相で話に聞き入っており、続きが待ちきれない様子で要の肩を掴んで聞いてくる。

「それは……?」

だよ」

 どこかで分かっていたのだろうか、聡臣は特別驚くこともなかったが、明らかに落胆した様子で座っていたソファに力なく戻っていった。

「黄泉人が出来ないはずの自殺行動も、それによって意識データが消えてしまうのも、そのせいですか?」

 朱音もまた窓際へ寄ってきて、煙草の煙を払いながら尋ねる。先程より幾分か落ち着いてきた様子で、探偵の表情になっている。

「そのようだな。もう少し調査が必要だが……。黄泉人に対してのウィルスの効果は、管理しているAI、イザナミの監視の網に引っかからないまま黄泉人の行動アーキテクチャを書き換えているようだ。それによって黄泉人の自殺行動が可能になる。それに紐付けされて意識データそのものへクラックされ、自動でデータが消去されてしまう。その過程で何故か、天城沙也加の人格へ意識が書き換えられていくような様子だが、これはまぁ言ってみれば彼女の強い自殺衝動が顕在化した結果みたいなものだろう」

「じゃあ、不審死はどうです。自殺した江藤智美ともみはそのメカニズムで納得出来ますが、三上俊明としあきや杉山浩一こういちは?」

 朱音が鋭い目線で要に詰め寄る。

「葦澤聡臣がその一端に触れている。黄泉人の自己シャットダウンに巻き込まれ、意識がYOMIヨミから戻らなかった結果だ」

 要の返答を聞いて、朱音は黙り込んで小さく頷いている。そこにそれまで黙って聞いていた宏親が割って入ってくる。

「細かいことは置いといてだな、そのウイルスだかなんだかのせいで幽霊騒動が起こってるって事なんだな? で、あんたはそれをどうにか出来る、と」

「まぁ、要約すればそんな所だ」

 宏親に返事を返しつつ、他にも質問がありそうな雰囲気を察し、要は煙草を灰皿に押し付けてからわざとらしく周りを見渡してみる。

「では、何故天城沙也加の姿なんです?」

 目が合った朱音が聞いてくる。

「彼女がどういう経緯で死に至ったかは先の通りだ。要するにこれは、復讐みたいなものなんだろうよ。彼女を追い詰めた世間そのものへの。まぁ正直、何で彼女の姿なのかは俺にも分からん。更に調べないことにはな」

 次に小麦と目が合うと、彼女は語り始めた。

「私もそう思っていました……。どこか思念的な要素のあるもの、原因と理由があるからこの事件は起きているのだと。オカルト的に考えれば、今の原崎さんの話は辻褄が合います。自分を追い詰めた世間への復讐……。でも、そのメカニズムだけを聞けば、これは幽霊の仕業なんかではない、という事になりますよね?」

「畑川小麦……。職業柄そういうものを信じたいのは分かるが、自分で言った通りだよ。幽霊なんてこの世に実在しないからな。呪いだなんだと言われてるが、今回の騒動の正体は只のデータ……。コンピュータウイルスだ」

 小麦はその言葉に多少気分を害したのか、朱音の背後からずかずかと強い歩調で歩み寄ってきた。朱音の静止を振り切り、要の目の前までやって来ると、彼女は不意に要の手を握った。

 要領を得ない要はなすがままにされるのみで、出来ることは目を瞑ってじっとする小麦の次の言葉を待つだけだった。

 少しの間を置いて、小麦はゆっくりと手を離した。

「小麦さん、何が視えたの?」

 朱音が心配そうに近寄ってそう聞いている。要には何が何やら分からなかったが、朱音と小麦の間ではこの行為の意味は通じているらしかった。

「原崎さん……あなたは立派な人間だと思います。上から言われている為ではなく、自発的に解決しようとしているから。それが天城沙也加へのせめてもの手向け……」

 要は自分の眉がピクリと反応するのが分かった。何か反論を言おうとしたのだが、言葉は出てこずに口だけが開いたままになった。小麦は額に汗を浮かべながらも続ける。呼吸が先程より荒くなっており、体力を消耗しているような様子だった。

「あなたはここにいる誰よりも強く、この事態の収束を願っている。あゆみさんを調査対象にする事も、本心では悩みに悩み抜いて苦悩の挙げ句に選ばざるを得なかったんですね。そうするしか解決へたどり着けないから。本当はこんな倫理に逆らった真似はしたくなかったのに……」

 いつしか聡臣と宏親も小麦の近くへ歩み寄ってきていた。宏親が怪訝けげんそうな表情で小麦に聞く。

「占い師さん、どういう事だ?」

「宏親さん、この人を許してあげて下さい。原崎さんの心は、あなたへの後ろめたさで一杯です。口が上手くはないから、どう言えば良いのか分からなかっただけなんです。……あ、あの私、ちょっと不思議な力みたいなものがあって」

 宏親は困惑した表情で要と小麦を交互に見やる。混乱しているのは朱音と小麦を除いた全員であり、要もまた口を開けたまま呆然としていた。

「世の中、科学だけでは説明のつかないことって、あるもんなんですよ」

 朱音が真面目な顔でそう言い放った。要は後頭部をやれやれと言った様子で掻き、深い溜め息を一つ吐いた。

「なぁあんた、さっき聞いた時ははぐらかしたけどよ。結局あゆみをどうする気なんだよ」

 宏親が大分落ち着いた様子で要に問い詰めるが、その様子は彼が部屋に訪れた時とは打って変わって大人しくなっていた。

「……実際にこの現象によって亡くなった人物のデータを本社から盗んでこれたのは、彼女のものだけだ。他に影響を受けた人物のデータは既にウィルスのせいで消えて無くなってしまっている。彼女から得る以外に手は無かったんだ。加賀美宏親、憤慨する気持はよく分かる。だが……今は倫理を超えなくてはならない時だ。それはあんたにも分かるだろう?」

 複雑な心境なのが顔を伝って表に出た宏親が、それを聞いたきり黙り込むのを見ると、聡臣が近づいて諭し始めた。

「宏ちゃん、俺にとっては霞美の為でもあるんだ。それにあゆみちゃんをこんな目に遭わせたのは、その変なウイルスのせいだって分かったろ……。俺たちに直接何かは出来なくとも、この人ならなんとかしてくれるかも知れないんだ」

 聡臣の説得に友星も加担する。

「宏兄ィ、それに俺も居る。どうなってるのか仕組みを内部から探れるし、要さんと結託して解き明かしてみせるよ」

 宏親はその後、二人の言葉に何も反応はしなかったが、反論もまたしなかった。大人しく元いた部屋の角に戻っていき、また壁に持たれつつ明後日の方向を見て黙り込んだ。

「また誤解を招くといけないから言っておく。俺はあんたたちの味方だ。世界を救う……なんて大それた事をしようとしてるわけじゃないが、その点については信用して欲しい。俺は専門家だしな。だが今はまだ情報が足りない。関口あゆみがどういうメカニズムでウィルスに侵されているのかを詳しく調査する必要がある。だからまぁ、悠長なことも言ってられないんだが、今日の所はとりあえず全員の顔合わせも済んだわけだし、これで解散と行こうじゃないか。進展があれば直ぐに連絡すると約束しよう」

 そう言って要は玄関へ向かい、ドアを開けて解散を促した。まず一番近い宏親が黙って外へ出る。去り際にこちらを向かないまま「怒鳴って悪かったよ。あゆみの事……頼んだ」とだけ言い残して。

 続いて友星と簡単に別れの挨拶を済ませた様子の聡臣が宏親の後に続き、更に朱音が未だ不満そうな顔で出ていく。そして最後に小麦がゆっくりドアに近づき、足を止めた。

「原崎さん、もう見当はついているのでしょう? 高村賢人たかむらけんとの仕業だと……」

 その名前が出た瞬間、要の表情は固くなった。思わず目を剥いて小麦と見つめ合う。小麦が向けたその瞳は全てを見通しているようだったが、実際そうだったのだろう。最後に「連絡、お待ちしています」とだけ言い残し、やがて全員部屋からいなくなった。再び静寂の訪れた室内に、ドアの閉まる音が響く。

「あの人、何者なんですかね。高村さんの名前をどこで知ったんでしょうか」

 友星が要に質問を投げかける。その答えは要も知りたかった。

「さぁねぇ……。彼女、解剖してみれば分かるんじゃないか?」

「また冗談を」

「……本当に、超常的現象ってあるんだな」

 友星との会話を終え、要は性懲りもなく窓際へ寄りかかって煙草に火をつけ、遠い記憶に身を委ねるように遠くを見つめた。

 数年前の既にせ始めている記憶、YOMIが誕生し天城沙也加の死が訪れたあの時の記憶。それは要にとって輝かしい過去の栄光であり、一切合切を忘れ去ってしまいたい程に忌まわしい記憶でもあった。

 そして、要たった一人が持つ記憶でもない。

 小麦に言われた名前を頭の中で反芻する。

 高村賢人。

 今回の騒動は、十中八九この男の仕業であると睨み、要は遠い記憶の中へ飛び込んでいった。

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