三章 慨世 5

新堂朱音しんどうあかね

七月十日


「めちゃくちゃ暑いですね……。ねぇ小麦こむぎさん。昨日の夜、ちゃんと寝れました?」

「うーん、正直に言うと、寝苦しかったです」

「はは……。意外とハッキリ物事を言う性格なんですね」

 季節はもう夏の盛りを迎えた。

 年々と夏は熱くなっていき、もうこの時期になると平均気温が摂氏二十八度を軽く上回るようになってしまった。空調の効かない室内で出来ることと言えば、昔ながらの扇風機で部屋を空冷冷却することだけだったが、それも焼け石に水だった。

 先程から開け放した窓から入ってくる風といえば、ヒートアイランド現象によって温められて執拗に肌に纏わり付くぬるい風ばかりだった。

 昨日、あゆみの葬儀を終えて戻った夜から朱音あかねの事務所で小麦の居候生活が始まった。幸いなことに、この事務所は前にお世話になっていた探偵事務所の所長のツテで紹介してもらった物件であり、変に気を利かせてくれたのか広さと部屋数だけはあった。それでも築年数は割と古い数字を叩き出してはいたが。

 おかげで二人で住むには困らないし、訪れた客との相談や普段の仕事などにも支障は出ない。むしろずっと一人で暮らしていた中でマンネリ化してしまった生活の新しい刺激になるかも知れない。朱音はどこか嬉しい気持ちだった。

「あの、新堂さん。混乱していた中での成り行きとはいえ……突然お邪魔することになってしまって申し訳ありません」

「いやぁ、気にしないで下さい。憧れだったんですよ、友達とのルームシェアとか。あたし友達ってずっと居なかったですし……。あ、でもまだ友達って訳じゃないですよね……はは」

「いえ、嬉しいです。一緒に住みたいって思えるほどの友達は、私も出来たことがありませんね……」

 そう言って俯く小麦に、朱音は変に親近感を覚えた。この人も、孤独な学生時代を過ごしたのだろうか。人付き合いが苦手そうには見えないのだが。

 改めて自分の学生時代の思い出を振り返ってみると、単独尾行や素行調査の真似事、浮気現場の修羅場に巻き込まれたり、色んな人から恨みを買ったりとろくな事がなかった。

 学生の時代に友達が作れないと、大人になってから友人の作り方が分からなくなる。一種の職業病なのだろうが、どんな人間と接していてもその人の裏の顔を探ろうとしてしまう。誰に対しても疑念を抱き、相手が発する言葉も裏の意味を汲み取ろうとしてしまう。自分などと接してメリットはあるのか、最終的な目的は何なのか、そう考えてばかりだ。

 だがなんとなく、朱音は小麦に対してそのような感情は抱かなかった。出会いが特殊だからだろうか、小麦が持つ独特の雰囲気だろうか、何故なのかは判然としないが、朱音はなんとなく、この人となら友達になれるかもな、と思った。

「ねぇ小麦さん。朱音って呼んで下さい。気を遣わないで下さいね、これから同じ釜の飯を食う仲なんですから」

「……言い方は少し古い気がしますけど、ありがとうございます」

 そう言って小麦は少し微笑んだ。彼女の笑顔は不思議だ。屈託のない笑顔というには少し足りないのだが、それでも心の底から笑っているような印象だった。少なくとも、今まで朱音が見てきた中で一番綺麗な笑顔だった。

 思わず「良ければ友達になってください」と言いかけた時だった。事務所に来訪客が来たことを告げる通知が朱音のスマートフォンに届いた。IOT機器のセンサーを玄関に取り付けてあるので、それが反応したのだ。

「あ、すみません。来客のようです。小麦さんはそこで寛いでて大丈夫ですからね」

 そう言ってソファを立とうとした小麦を制してから玄関まで行き、開け放ってみると、そこには眩しい白を纏った二人の男女が立っていた。陽光を反射し白さがより際立つその姿に、思わず朱音は目を細めてしまった。

「大切な人との再開を望みますか?」

 玄関が開くと間髪入れずに女のほうがそう言った。この文句、どこかで聞いたことがある。

「はい?」

 反射的に聞き返すと、今度は男性のほうが一歩前に出てくる。分厚い紙の本のようなものを抱えた優男だった。

「始めまして。僕は平岡ひらおかと言います。我々は伊邪那美いざなみの声という団体です」

 最近よく聞く宗教団体の名だ。杉山奈美恵なみえからも話は聞いていたので記憶に新しい。しかし何故この事務所を訪ねてきたのだろうか。普通なら一般家庭などを訪ねて回るものではないだろうか。

「はぁ……あたし無神論者なもんで」

「神は電子の世界にも居ますよ」

 女がさっきよりも低い声色で言った。その顔は笑顔だが目が笑っていなかった。それには返事をせずに居ると、平岡と名乗った男が続けた。

「どうやら、身近な人を亡くしたようですね」

 奈美恵の言った通り、この団体は不気味だ。恐らくあゆみの事を言っているのであろうが、何故そのことを知っているのだろうか。先日葬儀があったばかりだというのに。

「……訪問先、間違えてませんか? うちは探偵事務所なんですがね」

「関口さんは、黄泉の国で赦しを得る許可を得ております。彼女が覚醒した時は、是非会いに行ってあげて下さいね」

 関口。あゆみの名字だった。室温は未だ高かったが、朱音は背筋に冷水をかけられたような気分になる。

 何なのだこの男は。彼が喋る度に、気味の悪さが加速する。亡くなった事実だけでなく、それが誰かということまで特定している。

「お時間を取らせてしまいすみません、本日はこれで失礼しますね。それではさようなら、新堂朱音さん」

 平岡はそう言うと、軽く一礼だけして女とともに帰っていった。足音が遠のいて行っても、朱音は自分の肌に浮かんだ鳥肌が引かずに居た。この様子を見ていた小麦が、立ち尽くした朱音のもとへ近寄ってくる。

「朱音さん、今のって──」

「言ってない」

「え?」

「あたし、下の名前言ってない」

 事務所の看板に出ているのは「新堂探偵事務所」だ。そこから名字は分かっても、下の名前は分からないはずだった。なのに、平岡はそれすら知っていた。あゆみの事だけでなく自分のことまで。

 閉じた先の玄関の奥、真っ白な残像がいつまでも張り付いて消えなかった。

 それから平静を取り戻すのに時間はかかったが、それでもいくらか落ち着きは取り戻した。冷静になった頭で今の訪問について考えてみる。それに今は一人ではない。小麦もいるのだ。意見交換が出来る。

「伊邪那美の声……私も噂は聞いていましたが、まさかこんなに胡散臭い連中とは思いませんでした。特にあの平岡という男は、気味が悪いですね」

「うん……本当に」

「ひと目会って、あぁこの人は苦手だなって肌で感じる感覚、たまにあるじゃないですか? あの感覚って意外と頼りになりますよね」

「分かりますよ。あたしも職業柄、人を見抜ける能力が育ってますから。あいつはその中でも特に無理な部類ですけどね」

 先程の平岡の笑顔を思い出し、寒気がぶり返してくる。気分が悪くなり、思わず一人でいる時のように、テーブルに足を投げ出して深く座った。

「そもそも、あたしは探偵ですよ? リスクの高い調査の時は偽名を使います。なのに本名が割れてるなんて……。ある種、挑戦状ですよこれは」

「何故、朱音さんもあゆみさんも、名前を知られているのでしょうか」

 小麦は両手を組んでソファにちょこんと座って目線を下に落としている。その大人しい佇まいと自分の今の格好を見比べた時、一気に恥ずかしくなったので朱音も姿勢を正そうとする、というよりも立ち上がる。

「そう言えば、あたしに調査を依頼してきた、奈美恵さんて方も言っていたんです。お兄さんを亡くしたすぐ後に伊邪那美の声の人たちが来たって」

「……死人が出た家に訪問する。そして故人のYOMIヨミでの覚醒を勧める。まぁそういう宗教団体ですもんね。ということは、亡くなる人がYOMIヨミへ誓約を済ませているのを事前に知っている、ということになりませんか?」

 小麦の言葉でハッとする。そうだ。YOMIヨミを利用して故人を仮想現実に覚醒させるには生前に誓約を済ませておかなければならない。亡くなってから、即ち脳機能が停止してしまった状態でデータに変換は出来ないからだ。

 その瞬間、自分でも出来すぎた考えとは思うが、一つの仮説が思い浮かんだ。

「小麦さん、奴らが布教する事でYOMIヨミの利用者が増えるなら、それで一番喜ぶのは誰でしょうか……?」

「え? それはまぁ……信者の人とか、YOMIヨミに賛成的な人とか……?」

「いや、そうではなく。誰が一番得をするでしょうか?」

「得ですか。利益という意味なら……あっ」

 大きく驚嘆の声を出し、小麦も立ち上がって朱音の方を見る。しばらく二人して黙って見つめ合っていた。恐らく、考えていることは共に同じだろう。

「カクリヨ社と……繋がってるんじゃないですか?」


 それからしばらくも経たない頃、朱音と小麦はカクリヨ本社ビルを裏手の路地から見上げていた。時計は18時半をまわっており、もう日も落ちてくる頃。昼間よりも幾らか涼しい風がビルの隙間を縫って拭きつけてくる。

 朱音がこのように衝動的に行動を起こすのは珍しい事だった。それも小麦という同伴者を引き連れて、カクリヨという巨大企業のビルに侵入するという暴挙に出るなど。いつもならせめて綿密な計画をまず立ててから行動を起こすのが通常だが、今回は違った。

 というのも、伊邪那美の声とカクリヨが繋がっているという仮説を立てたその瞬間、これまでの調査の流れから元々睨んではいたが、この会社は間違いなく何か重大なことを隠していると確信するに思い至ったからだ。そして、それを明らかにするには外部からの干渉だけでは時間がきっと足りない。

 確固たる証拠か何かを得るためには、多少のリスクは覚悟しないといけないという、脅迫観念に囚われた考えが朱音を掴んで離さなかった。

 杉山奈美恵というたかだか一個人の依頼で行うべき行動ではないとは自覚しているが、もうここまで来ると一個人の依頼の範疇はんちゅうという枠をとっくに超えている。言うなれば今この世界の現状を根底から覆そうとしている、とても重大な何かの一端である。

 だが何が自分をここまで突き動かしているのかは判然としない。どうしてなのかと自問自答しても明確な答えは出せない。だが、そうするべきである、今行動を起こさなければ後で後悔するような気がしたからだ。

 後ろで朱音の服を掴んでいる小麦もきっと同じ様に感じているから、一緒に行こうと誘っても断らなかったのだろう。それに彼女は、むしろ自分からついていくと言ってくれた。きっと自分は役に立つ、という軽いプレゼンを添えて。

「朱音さん、本当に……忍び込むんですよね」

「ええ、見つかればめでたく犯罪者です。転落人生確定です。でもね、小麦さん。こう考えてみて下さいよ。誰にも見られなければ、それは侵入にならないのでは?」

 小麦はその自信満々な朱音の台詞を聞いて、大きくため息を吐いて肩を落とす。絵に描いたような「やれやれ」といった様子だった。

「で、それは?」

 小麦は、朱音の履いたジーンズのベルトに差されたものを指差して聞いた。

「ああ、これ。護身用です。万が一見つかった時相手が一人なら、これで対処出来ますから」

「対処って?」

「こう、先端をバカ相手にぶっ刺して……バチバチっとね。しかも新堂探偵スペシャルカスタムですから、威力は抜群ですよ」

「そういうのって、普通に売ってるものなんですか?」

「うーん、スタンガンは意外と普通に買えちゃいますよ。でも電圧も電流も足りないから、内部のコンデンサ容量を三倍にして、先端の電極を……」

「あ、あ、もういいです。朱音さんはとても機械に強いのですね。凄い。じゃあ行きましょう」

 もう少し説明をしたかったが、確かに時間がない。小麦が急かすように掴んだTシャツの裾を揺らしながら先に勧めと促してくる。もしかしたら気絶や麻痺に留まらず心停止させてしまうかも、と補足するのを忘れたが、まぁ使わなければいいだけのことだ。

 むしろ本命はこちらのほうだ、と朱音はポケットから小さなケースを取り出す。上蓋が開き、液に浸されたコンタクトレンズが露わになる。

 小麦がそれを覗き込んでいたが、もう質問はしないようだった。朱音は慣れた手付きでそれを両目に装着する。

 これは、朱音が前の事務所の所長から譲り受けた「データベース」と同じく、選別の一つだった。コンタクトレンズ型の網膜投影モニターであり、リンクスと同期させ、様々な情報を文字通り視覚化させるものだ。腕に巻いたスマートウォッチにも様々な違法すれすれのものが入っており、そのうちの一つに、ローカルネット内へのブリーチングプロトコルが組み込まれている。

 要するに今回の場合、カクリヨ社内で使われている通信規格の内部、つまりデータや隠された電子的情報へ侵入出来るものだ。朱音はこれらに総称として「CDT」(Cyberサイバー Detectiveディテクティブ Toolツール)と名前をつけている。これに関しては違法すれすれのものというより、確実に違法であり、現実でもネットでも工作が見つかったらその場でお陀仏ということになる。

 だがこれを使えば、上手く行けば何かの証拠を掴むことが出来るかも知れない。それでも少し無謀だとは思ったが。

 リンクスを通じてCDTの起動が行われ、テスト表示用のHUDが視界に現れる。常に表示される情報は現時刻、装着者の体温や心拍数など、基本的な情報ばかりだ。様々なプログラムやアプリケーションを起動すれば、その画面もここで見れる。

 深呼吸を大きく一度して、裏口の扉へ向かう。案の定電子ロックが掛けられていたが、朱音がスマートウォッチを操作し、CDT内でブリーチングプロトコルを起動させる。社外ではローカルネットの信号も弱いようで、リンクスの無線通信は届かない。仕方なく直接スマートウォッチを電子錠へかざした。

 プログラム言語がブラウザ上で滝のように流れていくのを目で追いつつ数秒待った後、軽く音を立てて電子錠が解錠された。大人しくスライドしていったドアに向かって、小麦の手を取って素早く駆け込んだ。

「ど、どうやったんですか? 勝手にドアが……」

「これが探偵の力ですよ」

 目を丸くしている小麦を振り向いて、引き攣った笑いを浮かべながら朱音はそう言った。

 やった。本当にやってしまった。本当は実践的に使うのは初めてだったので、何で上手くいったのかは自分でも完璧に理解しているわけではない。どちらかと言えば命令を実行して確実に行うCDTの手柄なのだ。そして、ここまでやったからにはもう後には引けない。朱音は覚悟を決める。

 なにはともあれ、内部への侵入は成功した。次はデータベースへのアクセスさえ出来ればもうここに用は無い。必要な情報はキーワードの自動検索で引っかかったものを根こそぎコピーすればいいだけだ。

 先に伸びているのは無機質な白を基調とした壁と廊下。多少薄暗く、部屋なども多くはないし人の気配は無いと言っても過言ではない。本社の内部には管理するのに最低必要な人数さえ居ればいいらしく、後の社員は殆どがリモートワークを行っているらしいと聞いたが、どうやら本当のようだった。

 その代わり社内には防犯カメラによる網がいくつか張り巡らされているそうで、奥の方に一台設置してあるのが見える。

 朱音と小麦は裏口から入ってすぐに一つ角を曲がった先にあった部屋に入り込む。掃除用具入れのような場所で少しかび臭かったが、身を潜めるには丁度良かった。

 社内に入ってしまえばローカルネットに侵入するのは容易い。リンクスへ意識を移し、廊下の奥にあったカメラを覗き込んでアクセスし、映像信号を一分間でリピートさせるよう命令を送る。これでカメラから送られる映像は、今から一分後の映像を延々繰り返すだけになる。戻る時に命令を停止させれば完璧だ。これから向かう先にあるカメラ全てに、映る前にCDTでこの命令を下せば、誰も朱音と小麦の存在を認知することは出来ない。

「小麦さん、もし命よりも大事なものがあるなら、家のどこに隠します?」

「え? うーんと、そうですね……」

 小麦はしばし腕を組んで考え込む、が、直ぐに顔を上げて答えた。素晴らしい妙案を思いついたような明るい表情だった。

「金庫に入れます」

 いや、流石に期待し過ぎていたようだ。そう思って朱音は少し肩を落としつつも再び質問を変えて聞く。

「なら、金庫そのものはどこに隠しますか?」

「えぇ……。そうですねぇ。普段目につかないような場所ですよね、隠すなら。あんまり人が注意を向けないところと言えばどこだろう……」

 眉尻をわかりやすく下げた難しい顔をしながら小麦は朱音を見上げる。どうやら答えに窮してしまったようで、手をふんわりと握られ、縋るような目で見られた。

 そんな彼女に朱音は小動物的な可愛さを感じたが、今はそれどころではない。多少なりとも場所の当たりをつけて行動しなければ身が危ないのだ。

 朱音は恐らくだがここよりもずっと下の方、仮に大きな爆撃や災害が起きても影響を受け辛い場所を選ぶのなら、まず地下で間違いのではないかと思案していた。むしろそれ以外ではあり得ない気さえする。

 自分がサーバールームを設置するなら、地表よりも確実に安全な深い深い下の方──。

「あぁ、地下か。確かにそれなら核爆弾を落とされても無事ですね」

 小麦が手を握りながらそう呟いた時、思わず声を出して振り返ってしまった。今自分が頭の中で考えていたことをそのまま言われた。自分でも気づかないうちに声に出してしまっていたのだろうか?

「えっ、なんで……」

「あっ。え、えっと、映画とかでそういうの観たことあるから……」

 握った手を慌てて離して目を逸らす小麦を見ながら、考えを読まれたことに驚きつつも、とにかくそうと決まったら動かなければいけない。エレベーターホールまでの道へ向かわなければ。

「とにかく、地下へ向かうならエレベーターを探さないと。このフロアにあればいいんだけど……」

「多分ありますよ。向こうの方かな」

 そう言って小麦が部屋を出ていきなり先へと歩き出した。慌ててそれを追いかけて朱音も部屋から出る。

 小麦はもう次の角を曲がろうとしており、朱音は必死に走って追いかけた。この先に監視カメラがあったら終わりだ! そう思って角まで一気に駆けた。

 案の定曲がった先にカメラが設置されていたが、瞬間リンクスに意識を移し、先程と同じ命令を下す。なおも向こうへ歩こうとする小麦の腕を引っ張り、映像の死角になる角で待つ。

「カメラ! 小麦さんカメラ映っちゃったら終わり!」

「わっ、びっくりした」

「牢屋生活は嫌でしょう! あたしが先に映像に細工しますから、ちょっと待ってください!」

「ごめんなさい、だって朱音さん何も言わないから……」

「それはすいません。とにかく、あと一分待ってから次の角まで行きましょう」

「分かりました。……多分、その先にエレベーターがあります」

 やけにはっきりした物言いの小麦を見て、来る道中に地図なんてあったか? と疑問を抱きつつも、どこかでこの子がそう言うのであればそうなのだろう。という妙な安心感があった。

 一分経ったのをCDTの表示で確認し、今まで以上に慎重に角を曲がっていく。果たしてそこには確かにエレベーターホールが広がっていた。だが、先程の廊下よりも広い空間であり、正面でエレベーターを待つ余裕は無さそうだ。とりあえず今の所人気は無いが、更に奥の方は受付等があるかもしれない。完全に無人では無いと考えたほうが良い。

 朱音はエレベーター横にある昇降パネルに向かってCDTを起動させる。遠隔で命令信号を発してこの1Fフロアまで昇降を行わせた。階数表示のパネルの横に下りを示すマークが映る。後は扉が開くのを待って、一気に駆け込むだけ。直ぐに扉が開いたのを確認し、小麦の手を取って走った。すぐさま閉の表示パネルを押し、階数パネルの所を押そうとして一瞬躊躇ためらった。

「地下……何階でしょうか」

「多分、一番下ですよ。長く待ったから」

 最後の言葉には少し疑問を持った。まるで以前ここに来たことがあるかのような言い方で、先程もそんな印象だった。ほぼ迷わずにエレベーターホールまで来れたのは、そちらに向かおうとした小麦を追いかけたからでもあるし、何か引っかかりは感じるが、悪いことではない事だけは確かだ。

 そう思い最下層へ向かうようパネルを一番下にスライドさせると、エレベーターは動き出した。重力の変化を体で感じ、降り始めたのが分かった。

 昇降中に意外と持て余す時間を活用し、この疑問は聞いておくべきだと思い、朱音は小麦に質問をする。

「突拍子もない質問をしますけど……小麦さんって、テレパシーとか使えるんですか?」

 小麦はその質問にぷっと吹き出して笑い、その後もくすくすと笑いながら大きく頭を振った。

「そんな便利なものではないですよ。でも、人と違う何かを持ってるのは事実です」

 閉鎖された空間に居るのにも関わらず遠くを見るような目をして話す小麦に、朱音は釘付けになった。小麦は続けて口を動かす。

「何て説明すれば良いのかは分かりませんが……人の記憶をちょっとだけ見れるんです。物とか人に触ったり、誰かにとって特別な場所に居たりすると。さっきのはそれの応用みたいなものです。朱音さんがリアルタイムで考えている思考が記憶になった瞬間にそれを追って見てました。そうしたら凄く深い下の下の方に落ちていく感覚がしたので、なるほどと」

 そう言いながら、さっきやってみせたように朱音の手を再び握る小麦から、朱音は目を離せないでいた。にわかには信じがたい内容だが、朱音はそれを垣間見ているし、それにやはりこの子の言うことには偽りの色が無いと感じた。そうなった理由や原因はどうせ聞いたところで理解出来ないだろうし置いておくとして、彼女がそう言うのならそうなのだろうと妙に納得した。

「ふふ、朱音さんは私を信じてくれるのですね。嬉しい」

「まぁ職業柄か、耐性はつくみたいなんでね。って、今も心読みましたよね? 油断も隙も無いなぁ」

 ごめんなさい、と小麦が手を離し、しばし沈黙が流れる。階数表示は地下二階を過ぎようとしていた。

「待てよ。……って事は、証拠品とかに触れられれば、誰が何したとかってなんとなく分かるってことですか?」

「さすが探偵ですね、想像力に富んでらっしゃる。そうですね、あまり進んでやりたくはないんですけど、可能だと思います。強い記憶が残留しているなら」

「凄いなぁ、小麦さん探偵でもやっていけそう。戻ったら正式に従業員登用してもいいですか?」

 小麦は笑顔を作りながら下を向いて、しばらく後にポツリと呟いた。

「……それ、すっごく楽しそうだなぁ」

「まぁ、ここから無事に出られれば、ですけどね」

 会話が終わると同時に、エレベーターが止まった。階数表示は地下五階となっている。随分と深いところまでフロアを作ったものだと感心する。確かにここまで深ければ、あらゆる事態への対策は充分出来ていると言えるだろう。

 朱音は向かって右側、小麦は左側に身を寄せて、お互いに目を合わせながら扉が開くのを待った。小麦の表情は一気に不安そうに変わっている。朱音も流石に緊張がピークを迎えようとしていた。ここまで来てしまったらもうその場しのぎの言い訳など通用しない。立派な不法侵入だ。扉が全て開いた後、朱音が自動で閉まらないように手で押さえつけた。

 慎重に顔を出して奥を覗くと、奥に向かって一直線に道が伸びており、その左右にガラスで隔てられたおびただしい数のコンピューター群のある部屋が見えた。どうやらここがサーバールームで間違いないようだった。

 奥に一台だけカメラがあるのを認め、CDTで細工を施す。小麦に向かって止まれとジェスチャーで指示し、一分間待ってからゴーサインを出す。

「よし、後はどこかにあるアクセスポイントに侵入出来れば……。自動検索でこのドライブに該当データがダウンロードされるはず」

 朱音はジーンズのポケットから手のひらサイズのデータ記録用のフラッシュドライブを取り出してそう独りごちる。小麦は用語の意味が分からないなりにもうんうんと頷いている。その間見つかってはいけない事だけはしっかりと理解しているようで、先程から身を縮めて屈んでいた。

 彼女の手を引き、まずは右から、とガラス製のドアを潜り抜けようとするが、電子錠がかかっているらしく開かない。朱音は解錠のためリンクスに意識を移す。

 その瞬間、不意に誰かに肩を叩かれた。一瞬小麦かと思ったが、彼女は自分の右脇に縮こまっている。叩かれたのは右側ではなく左の肩だった。

 反射的にそちらへ振り返ると、そこには見知らぬ男性がいつの間にか佇んでいた。皺まみれのシャツの胸元にカクリヨ社のロゴマークと社員名のタグが見えた。

 あまりに唐突な事で、時間が止まったような錯覚に陥る。数秒間、誰も何も言わない空間になった。まるで悠久の時が流れたように錯覚したが、その沈黙はすぐに破られた。ふっと笑った男が「泥棒はいかんね」と呟いて。

 見つかってしまった!

 朱音は素早く腰に差していたスタンガンを抜き電源を入れた。激しい電流の音が響き渡ったと同時に、男に向かって一直線に刺突する。が、荒っぽい事には慣れていない朱音の貧弱とも言える攻撃は、ただ空を切っただけで終わってしまった。男は朱音と距離を取って躱したようだった。

 瞬間、ドライブを小麦に投げ渡し、「逃げて!」と叫ぶ。無線通信が届く範囲内ならドライブさえ無事であれば書き込みは続けられる。それまで時間稼ぎが出来れば、後は自分が居なくても小麦が続きをこなしてくれる。咄嗟にそう判断したのだった。

 ドライブを間一髪の所で受け取って駆け出した小麦の背中を認め、再び男と対峙する。まずはこの男に対処してからではないと何事も始められない。そう思う朱音に対して男は微塵も怯んでいないようだった。それどころか、自分を捕まえようという気概すら感じられない。臨戦態勢に入るでもなく、ただぼーっと突っ立っている。

「開かない!」

 背後から小麦の叫び声が飛んでくる。男の耳元に注目すると、リンクスを装着しているのが分かった。男は自分のリンクスをトントンと示し、残念そうな顔をしている。

 しまった、先手を取られた。なんとかして解除しなくてはいけない。そう思い、CDTでエレベーターのロックを外そうとした瞬間、男が両手を上げて喋った。

「まぁそう焦らんでくれ。俺は多分君等の敵じゃないし、捕まえる気もないんだ。それに感電死も出来ればしたくない」

 そう話しかけてくる男から目線を外さず、心理戦を始めたのだと朱音は判断する。緊急事態時に饒舌じょうぜつな人間は信用ならない。朱音はスタンガンを握る手に一層力を込めた。

「新堂朱音と、畑川小麦。君等の事は知っている。どうやって入ったのかも知ってるよ」

 名前を言われて一瞬身体が止まってしまう。どうもこのところ身分を見透かされることが多い。朱音は思わずため息を吐いてしまった。

 その一瞬の隙を突かれたのか、CDTに表示された情報が突然歪んだ。視界に映し出されたものにノイズが走り、激しい頭痛が起きる。立っていられなくなり、膝をついた時には頭痛は治まり、代わりに耐え難い睡魔と虚脱感が襲いかかってきた。

 何かされた。CDTを経由されて、リンクスを直接弄られたようだった。やがてまともに声も出せなくなり、視界はゆっくりと閉じていく。小麦が自分を呼んでいる声が遠く遠くなっていく。

 霞む視界で最後に目にしたのは、近づいてくる男のタグ。そこには「原崎」と書いてあった。

「荒っぽい手段を取ったことは謝ろう。とにかく君等にはうちへ来てもらうよ」

 男の喋る語尾を聞き取る直前で、朱音の意識はやがて闇へ沈んでいった。

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