二章 災禍 8

 原崎要はらざきかなめ

 七月二日


 始めに襲ってきたのは強い頭痛、それを追って激しい吐き気と目眩も覚える。思わず座っていたダイビングチェアから崩れ落ち、激しく咳き込んだ。

 こんなにも過酷な経験になるとは思いもよらなかった。

 潮の満ち引きのようにぶり返しては収まり、収まったかと思ったらぶりかえす、その耐え難い苦痛に何度も繰り返し見舞われながらも、それでもしばらくすると段々と落ち着きを取り戻していく。

 自分が何者で、一体何処で何をしていたのか、それがまともに思い出せるまではそう時間はかからなかったが、それでも酷い混乱の渦中に居たために、意識の混濁は想像以上に激烈だった。

 原崎要はらざきかなめは、未だ鈍痛が響き続ける頭を抑え、壁を背にして座り直した。天井を仰いだ視線をそのまま泳がせていると、自分の部屋だった事に今更ながら気付いて安堵する。そしてたった今自分が行い、経験したことを改めて再確認する。

 今しがた要が行っていたのはプレイバックと呼ばれる、YOMIヨミの利用者の記憶を仮想現実に再現し、それを実際にダイブした仮想現実の中で追体験する、という技術だった。

 連日続いていたYOMIヨミ利用者の不可解な死のしらせを受けて、上層部から要のもとに詳細の調査命令が出ていたので、最近出来上がったばかりのこのプレイバックの運用テストも兼ねて、死んだ者たちが会っていた黄泉人よみびとの記憶に潜り込んでいたのだった。

 公にはまだされていないこの技術は、カクリヨ社に身を寄せている要だからこそ使えた技術であったが、そんな立場にいることを後悔してしまう程強烈な体験だった。

 三上俊明みかみとしあき杉山浩一すぎやまこういち江藤智美えとうともみの三名がそれぞれ会っていた人物のプレイバックを終えたところだったが、とてもじゃないがもうこれ以上続けるのは無理だった。

 三上の記憶はまだマシで、杉山、江藤の所では死を体験したようなものだった。未だ要を苦しめているこの頭痛が、プレイバックの強烈な体験で及ぼされた精神的なストレスから来ているものなのか、実際にどこかにぶつけたものなのか、はたまたYOMIヨミから受けた情報のフィードバックを脳が処理し切れていないからなのか、判然とはしない。確かなのは、この上なく不快極まりない、ということだけだった。

 未だ収まる気配のない頭痛どころか、リンクス付近にもズキズキと痛みを覚える。とうとう嫌気が差し、何か別のことで気を紛らわせるしか無いと判断し、その辺にほっぽり出してあった煙草を手に取り、窓際まで千鳥足で向かいながら煙草に火を点けた。

 紫煙しえんが立ち上り、嗅ぎ慣れた煙草の香りを肺一杯に取り込んでからしばし耐え、大きくゆっくりと吐き出す。主流煙が空気に溶けていくのを見ていると、頭の中も時間を掛けて次第に明瞭になってくる。煙草の煙は血管を収縮させるそうで、更に頭痛は血管の膨張で起きると聞いたから、これで帳尻は合うだろう。実際にどうなるかは知った事ではないが、少なくとも要はそう信じていた。

 よりクリアになった脳内で、要は先程の出来事を改めて思い返していく。

 にわかには信じ難い事が起きていた。通常では起こり得ないはずの、仮想現実での死が成立してしまっている。

 これだけでもう充分過ぎるほど異常と呼べる事態ではあるのだが、それよりも存在しないはずの人間が居ることが考えられなかった。

 ──。

 死んだ人物は軒並み、さやかという人物の姿を実際に目にし、声を聞き、存在を認知していた。起きた事象を鑑みても、彼らの死には十中八九さやかの存在が影響していると見ていいだろう。だが、そんなことが本当に起こり得るのか、改めて考えてみても疑念は払拭されない。だが、彼らが死んだという事実はどうしたって揺るがない。事実はただ受け入れるしかない。

 そして何よりも、さやかという人物に要は心当たりがあった。

 厳密に言えば心当たりがあるどころではない。さやかという名前、そしてプレイバックで実際に視たあの姿を照らし合わせてみても、間違いなく要が知っている人物──いや、かつて仲間だった人間だった。

 彼女は、既に死んでいるはずだった。


「そろそろ落ち着きましたか?」

 不意に背後から呼びかけられ、要は思わず仰天し、持っていた煙草を床に落としてしまった。慌ててまだ火が点いたそれを拾い上げ、すぐさま灰皿に押し当てる。

「驚かすな……。こんなつまらん事でボヤ騒ぎはゴメンだぞ。煙草の不始末で家が焼けるなんて何時代の話だと言うんだ」

 そのまま灰皿を台所のシンクへと持っていき、水をいくらか入れてまだ少し燻っている火を鎮火させてから、ゴミ箱へと放り投げる。

「要さんがいつまで経ってもベイプに切り替えないからでしょう。今時、紙巻煙草を吸っているなんて時代錯誤もいいとこです」

「黙れ、俺はニコチンが含有されていないものを煙草とは認めない」

 要はそう言って、声の主の方へ振り返ってこのプレイバックから得た情報を整理し、話し始めた。

「……視ただけではまだ何とも言えないが、恐らく彼女の仕業だとみていいだろうな。まだ信じられないが、これでは彼女が殺したようなものだ」

「でも、あの人は……」

「分かっているさ。これじゃ巷で呪いだと呼ばれていても無理はない。今の俺ですらそうなんじゃないかと疑っている」

 要は大げさに息を吐き、頭を抱える。割れそうな程では無くなったが、未だ微かな頭痛は続いていた。

「火のない所に煙は立たずとはよく言ったものだな。最初は俺も只の噂だと思っていたが……本当にこんな事が起きるとはな。だが、物事には必ず原因と理由がある。何とかしなくてはいけないな」

 要はそう言って、目線を前へ向ける。そこにはテーブルに置かれたモニターがあり、先程から会話を交わしていた声はそこから聞こえていた。

「協力してくれるか」

「俺が出来る範囲ならもちろん」

 若い男が何もない白い部屋に佇んでいる映像がモニターには映し出されている。そこから、再び声が届いた。

 彼の目はどこか憂いを帯びており、それが中性的な整った容姿と相まって淡い輝きを放っていた。

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