二章 災禍 7

江藤智美えとうともみ

六月二十八日


 江藤智美えとうともみは、どんな友人をも大切にする情け深い人間であった。

 だから同級生の一人、栗本くりもと由佳ゆかが三十歳でくも膜下出血を起こしこの世を去った時も、他の誰よりも泣きはらした。

 その当時はとても落ち込み、他の人を思いる余裕など無かったが、心配性の遺族がYOMIヨミに登録させていたお陰で、由佳とは仮想現実の黄泉の国で再び出会えるようになった。遺族の方が友達にもYOMIヨミの認証を許可したからだ。

 それから智美は徐々に前の調子を取り戻していった。

 仮想現実で会う由佳は本当に生きていた頃と本当にそっくり同じで、素晴らしい時代に生まれたものだと感嘆した。

 友達複数で訪れる時もあったし、そんな時は本当に現実に由佳が居ると錯覚するほどだった。

 黄泉人よみびとになった由佳自身も、「死んでも会えるなんてまるで幽霊みたいだね、化けて出ようかな」と冗談を言えるほど元気で、面会に来るみんなも気を遣わないで良かった。


 おかしいなと違和感を感じ始めたのは、それからしばらく経った最近のことであった。

 その日単身で訪れた智美は、由佳の様子がおかしい事にすぐ気が付いた。

「わたし自殺すればよかった」

 由佳が突然、そんな事を言ったのだ。

 確かに、この黄泉の国は自由で、何をしようとどこに行こうと好きなことが出来る。好きな本を飽きるほど読めるし、好きな映画だって疲れずにいくらでも観れる。

 由佳が冗談好きな性格なのは智美ももちろん承知していたが、だからといっていつもの冗談と比べると流石に性質たちが悪すぎる。

 しかもその時は、別に由佳が好きなことをしていたわけではない。何もせずソファに座って、ぼーっと自分の部屋で何もない壁を見ているだけだった。

「そんな事、両親とか他の友達の前で言わないでよね……」

 智美はそう言って、由佳の手を握った。感触はあるが、これは仮のものであって現実ではない。由佳のぬくもりも、ただ由佳の体温というデータがYOMIを通し、智美に感じさせているだけのものだ。実際に触れるのとではやっぱりどこか違った。

 当然生きている方が良かったに違いない。由佳の場合は急な病気だから仕方ないことではあるのだが、自分から望んで死ぬようなことを推奨するのなんてとんでもなかった。ましてや自分自身でそんな事を言うのは。

「自殺するべきなのよ」

 由佳はまだそう続けた。声色は少し落ち込み、冗談では無いのかと思わせるほどだった。さすがにこれには智美も怒った。

「いい加減にしなよ。遺族の皆さんとか、私達の気持ちにもなってよ。そんな事言って良いわけないじゃん」

 すると由佳は目を剥いてこっちに向き直り、鬼のような形相でいきなり叫んだ。

「しなきゃいけないの!」

 しばらくその言葉が頭の中で繰り返され、目の前でストロボの明滅のようなものが起きるようだった。あまりにもショックで、智美は瞬いて由佳を見つめ直す。

 由佳はそのままの表情で数秒間睨み、しばらくするとゆっくりと無表情になり、始めに見ていた壁の方をまた向いた。そしてまた、ぼけっと壁だけを見続ける。

 智美は冷水を背中にかけられた気分になった。こんな友人の姿は今まで見たことがなかった。小学校からの仲なので、お互いつまらない事で喧嘩することもあったにはあったが、こんなにヒステリックにはなったことがない。

「あなた、誰……?」

 すぐに口をいて出た言葉だった。由佳はそれには反応せず、ただ黙って壁を見るだけだった。


 それからは妙に由佳が恐ろしく感じて、面会には行けなかった。

 由佳に会わない日が続き、しばらく後に友人伝いに由佳が自死行為を繰り返してると聞いた。

 黄泉人は死ねない。そもそも自殺という行為そのものが不可能だと聞いたが、何かの異常で自死を続けているとのことだった。それも毎日。

 システム上一度データは消され、前日のバックアップから再構築されて再び覚醒されるらしいが、それでも何故か自殺を繰り返しているらしい。

 やがて精神はすり減り、今では最早廃人のようになっているという。

 智美は居ても立っても居られず、変わり果てた由佳を見るのが怖かったが、それでも大事な幼馴染の事だからと勇気を振り絞り、すぐに面会に行った。

 由佳はその日、智美の目の前で自殺した。ログインした瞬間、お風呂場で聞こえた物音を確認しに行くと、既に手首を切り落としていた。

 智美は絶叫し、慌てて手首をなんとかしようとするが、もうどうしようもなかった。くっつきなんかしない。それならと腕の方をどうにか止血しようとするが、何故か溢れる血は止まらない。脇の下にタオルを丸めたものを突っ込んでも止まらなかった。まるで由佳本人が止めたくないから止まらない、といったふうに。

 パニックになり、泣きながら由佳の無くなった手首を繋げようとしていると、彼女は切れていない方の手で智美の腕を掴んだ。

 見上げると、彼女は満面の笑みだった。そうして笑顔のまま、瞳の光だけが消えていくのが見て取れた。最後まで掴んでいた腕が力なくだらりと垂れて、それでおしまいだった。

 その途端、お風呂場は端の方から景色の崩壊が始まった。いつかどこかで見た、ヨーロッパとかの外国の公園で撮影された、ポプラの綿毛を焼き払って処理する光景を連想させた。

 ゆっくりとだが徐々に境界の端から、その映像で見た一定の速度で燃え進む火のようにノイズはこちらへ向かってくる。

 綿毛焼きとは違い、床だけでなく壁も天井からも進行は進んでおり、既にお風呂場の中にノイズは侵入してきた。

 智美は慌てふためき、余計なことを考えている場合じゃないと即座にログアウト要請を行った。しばらくしてからAIの無機質な声で確認の声が聞こえ、絶叫に近い形で要請を叫んだ。

 押し寄せるノイズの波に呑まれかけながら、智美はすんでのところで崩壊する仮想現実から逃れることが出来た。


 その日から智美は、寝ても覚めても由佳に呼ばれているような気がしていた。

 間違いなく現実の世界のはずなのに、もう居ないはずの由佳が視界の端に最後の笑顔で映り込む気がした。気を抜くと、しなきゃいけないの、というあの叫び声も聞こえる。

 挙句の果てには掴まれた腕の感触も蘇る。そうなる度に智美ははっと反射的に腕を振り払おうとした。だが、何もない。

 智美が自分の寝室で寝ている時も現れた。恐ろしい形相で睨み、枕元に立って見下ろしている。恐ろしいけれども目を逸らすことも出来ず、気絶するように意識を失うと、次に目が覚めれば朝だった。

 だけど何故か、寝室に出た彼女を見た時、由佳、という名前が出てこなかった。違う名前だった。智美の友人には居ない名前。さやか、という、知らないはずの他人の名前で彼女を認識した。

 これだけは不思議だった。幼馴染なのに、名前を間違えるなんて事があるだろうか? それだけ自分が憔悴しょうすいしているということなのだろうか──。

 昔古い本に書いてあった、幽霊という単語が思い浮かんだ。この世に未練を残して死んだ人間の霊魂が現れ、生者に怨念という障りを起こす。

 子供の頃は教訓めいた御伽噺おとぎばなしだと本気にはしなかったが、今になって智美はそうだと信じるようになった。

 これは由佳の霊じゃないだろうか。死に際にそばに居た私に取り憑いているのかも知れない。そう思った智美は、巷で噂になっていた占い師のもとへと向かった。

 自分でも馬鹿らしいとは思ったが、肯定されるにしろ否定されるにしろ、この現象の説明が出来るならばどちらでも良かった。

 が、原因は分からなかった。畑川小麦はたかわこむぎという占い師は当たり障りのないことしか言わなかった。

 現れる幽霊はきっとあなたに関係のある人間だとは言ったが、それ以上のことは分からなかった。深層心理を探るだのと言われて、なにやらカードを三枚引かされただけだった。しかも凄く悪い意味で出たらしい。

 釈然としないその雰囲気に、ただ不安を煽られただけだったと落胆した。去り際に、気を強く持ってくださいとかなんとか適当に言われたが、それすら智美の耳にはあまり届かなかった。


 肩を落として帰ったその日の夜、また寝室にさやか……いや、由佳が現れた。

 由佳──さやかはやはり血走った目でこちらを恨めしそうに睨み、枕元に立った。

 智美はもういい加減にしてくれと半ば諦めたような気になった。

 もういい、なんでもいいからこんな事はもう辞めてほしい。私はもう疲れた。もう好きにして構わないから、満足いくまでそうしていたらいいじゃない。さやかがそうしたいなら続けていればいい。どうだっていい。私──さやかは疲れたの。もう休みたい──。

 そこまで思って、さやか──智美ははっと息を呑む。今、私なんて思った? 私は私──智美の事をさやかだと言っただろうか。

 目の前にいるさやかは依然見下ろしている。白い……いや、今はもう赤く染まったワンピースを着ている。

 と、何やら視界がぼやけだし、疑問に思った事も次第にやはりどうでもよくなってきた。

 まぁいいや、どうでもいいや、死のう。それがさやか──私の意思なのだから。

 さやか──智美はそう思って、おもむろに寝室の窓を空けた。六階に位置する部屋の窓からは、いくらか強い風が吹いている。

 強烈にやってきた倦怠感と喪失感、それが義務であるかのような自死への強い衝動。そして、自分は果たして誰だったかという疑問。

 考えているうち、風が顔を勢いよく通り抜けたかと思うと、次第に吹きすさぶ様に変わっていった。後ろになびいていたはずの髪は真下の方向に張り付き、ようやく自分が宙に舞っている事に気づいた。けれどこれで良かった。

 激しく空を切る音の中、断続的に由佳の悲鳴が混じって聞こえる。微かに開けた視界の中、枕元にいたはずのさやかが眼前に現れた。いや、それはさやかではなく由佳の死に際の笑顔だろうか。もう何を思うのも煩わしかった。

 次に見上げたらもうそこはコンクリートで、肉のひしゃげる鈍い音が聞こえると共に視界も閉じた。

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