二章 災禍 6

杉山浩一すぎやまこういち

六月二十七日


 降りしきる雨の中、角を曲がった先にあった街路樹の下に逃げ込み、びしょ濡れになってしまった杉山浩一すぎやまこういちは、手に持った財布を拭って汚れを落としていた。

 ──何も無言で受け取ることはないじゃないか、折角あの人が拾ってくれたのに。

 そうは一瞬だけ思ったけれども、今はただ急ぎたい。心の中でだけでも詫びればそれで十分だろうと思い直した。

 早くしなければ、娘の身が危ない。ただその一心だった。


 娘の麗華れいかは、二十代で急死してしまった。

 どちらかと言えば内気な子だったので、身体の不調を隠していたのは仕方ないのかも知れない。

 医療が進歩したこの時代に病死するなんてとこの上ない理不尽さを感じたが、本人が何もしなかったのだから諦めるほかなかった。

 唯一の救いは、YOMIヨミへ娘を登録しておいたことだろう。

 過保護な親と思われようがいくらも気にしなかった。麗華が生まれて間もなく、他に男を作って出ていった母親のせいで、ただでさえ子育てには慎重だったのだ。

 周りから娘の終活はいくらなんでも早すぎるのではないかと諭されても、浩一は娘の登録を半ば強引に行った。そもそもこれは終活の類ではなく、保険のようなものだと浩一は考えた。後で振り返ってみれば、それが功を奏したのだ。

 姉の奈美恵なみえからも、ちょっと過剰すぎやしないかと心配はされていたが、麗華の死後は姉もそう口うるさく言わなくなった。しかし、どこから仕入れてきたのか、仮想現実依存の心配を今度はするようになったのでいよいよ煩わしく、浩一は姉とあまり連絡を取らなくなっていった。


 麗華はドライブが好きだった。生前も良くそうしていたように、浩一と二人であてのない旅を楽しむのが趣味だった。

 仕事でストレスを抱えてしまったりすると、麗華はよく浩一を誘って車を走らせた。昼間のドライブも景色が楽しめて良かったが、麗華は夜のドライブが格段とお気に入りだった。

 車窓から飛び込む色とりどりの光、それは時に対向車のライトで、時に街のネオンで、時に月明かり。走る度に表情を変える、色彩豊かな光の景色がとても幻想的で、いつまで見ていても飽きないから好き、と麗華は言っていた。遠くからそれを見下ろす夜景は特にお気に入りのようだった。

 親子水入らずの時間、それが麗華にとっても浩一にとっても何物にも代え難いかけがえのない時間だった。

 黄泉の国でも、膨大な街をまるごと一つ再現した場所をよく選んで、そこで走っていた。浩一がログインすると、いつも娘が運転する車の助手席で目覚めた。

 だが、ある日にいつも通りログインすると、その日の麗華は神妙な面持ちだった。

 どうかしたのかと問いかけても、ううんと首を横に振るだけ、浩一はこんなとき、いくら無理に問いかけても娘は応えてくれないことを承知していた。だから娘の方から話す気になるまで黙っているのが常だった。

 内気な子に無理に話を引き出そうとするのは良くなかった。余計に話そうとしてくれない。そう長年の経験で知っていたのだ。

 しばらく車を走らせていると、信号待ちになった時に麗華は口を開いた。

「お父さん、私との面会権限を承認しているの、お父さんだけだよね?」

 もちろんそうだった。麗華の友人からは良く面会させてほしいと頼まれたが、今はただ家族だけで居させて欲しいと断っていたからだ。

 いずれ麗華と話し合い、友達にも会いたいと言うのであればそうしようとは思っていたので、ああきっとその事だろうなと浩一は思う。

「そうだよ。でも麗華が友達にも会いたいなら、何人か承認しようと思っているところだ。誰かいるかい? 会いたい人は」

 ようやく娘も気持ちの整理がついたのかと内心安堵し、そう聞いてみた。

 だが麗華は、そうじゃないの、と首を振る。

「いや、友達に会いたいのはそうなんだけどね。そうじゃなくて……つまり今は私達以外、ここには居るはずがない……って事でいいんだよね……?」

 そう言う麗華の口元は、僅かに震えていた。

 目線だけはまっすぐ進行方向に向けたまま、浩一の返事を待っているようだった。しかし娘は、自分から質問を投げかけておいて何故か答えを知りたくないような、逡巡しゅんじゅんしている様子だった。

 目線が泳ぎ始め、進行方向とバックミラー、そして浩一の方、と順番に目をやっている。いくらかそれが繰り返されていくと、麗華は明らかに怯え出した。息遣いが荒くなる。

 どういう意図の質問かと自分の中で整理していた浩一はすぐに返答しあぐねる。すると突然、ひっ、と小さな悲鳴を上げて、娘は急ブレーキをかけた。慣性の法則で身体が前方へ飛ばされそうになるが、シートベルトがなんとか受け止めてくれた。

 幸いにも信号機手前だったので、どちらにせよ止まって良かった場所だ。それにここは仮想現実で、命の危険はないはずだった。しかし現実での防衛本能が働いているのか、浩一は肝を冷やしきっていた。

 いくつかの街灯のみが地面に弱く光を降ろしているだけ、周囲にはまばらに人家があるだけで、郊外の二車線道路が闇に浮かぶだけの静かな場所だった。光も音もそれまで騒がしかったのが一気に静まり返っていた。

 浩一は娘の様子を見るが、麗華はハンドルを握ったまま、進行方向に目線を固定していた。だが、やはり何かに怯えているのか体ごと震えだしていた。

「一体どうしたんだ」

 浩一がそう聞くと、麗華は震える声で必死に声を絞り出した。

「少し前からなんだけど……私達以外に、誰か居ると思うの。私一人の時も、お父さんが来る時も」

 娘によれば、それは決まって運転時にだけ現れるらしい。らしいと言うのは、姿を見たのは今が初めてのようだったからだ。それまではただ、感覚だけでのみ存在を朧気ながら感知していただけだという。

 というのも、ある時にいきなり、運転席のシートを何かが押している感覚に気付いたのだそうだ。シートの柔らかさの奥に、固い何かがハッキリと形を成していたそうだ。

 麗華の車は軽だったので、後部座席は狭い。友達を一杯に乗せた時、後部座席の友達が動くたび、その膝が運転席のシートに支え、運転席を挟んで麗華の腰に当たる感覚を思い出した。

 これはその現象ととてもよく似ていた、いや、そのものだった。

 恐る恐るバックミラーを見ても、後部座席には誰も居ない。当たり前だ。自分しかいないし、父と同乗しても父はいつも助手席にいるのだから、後部座席に人なんか座りっこない。なら今確かに当たっているこれは一体なんだろう……。麗華は続けて言う。

「でね、気の所為せいだって初めは思ったの。ほら、これ全部、言っちゃえばプログラムでしょ? だから何かの異常でそう錯覚しちゃってるだけだって……そう思ったの。でも……」

 つい先程、またその感覚に襲われた時、ブレーキを踏む一瞬前、その現象に進展があったという。

 運転席のシート越しに膝が当たるいつもの感触を覚えてから何度目か、バックミラーに目をやった時、後部座席に黒い塊が揺れるのを微かに見た気がした。

 えっ、と思って目を凝らすと、次の瞬間塊は消え、入れ違いで視界の左端に、ゆっくりと鼻と口のような凹凸が現れた。追って真っ黒の長い髪の毛が、麗華の頬に僅かに触れた。顔だ。

 そう理解した瞬間、その凹凸が麗華の方へゆっくりと向いてから、口のあたりがもごもごと動き、何事か囁いて──。

 声のようなものを聞く前に反射でブレーキを踏み、次に気付いたらもういなくなっていたという。

 浩一は娘の話を聞きながら、僅かに鳥肌を立たせた。娘は助手席まで身を乗り出して聞いてきた。

「ねぇ、本当に誰も居ないなら、これって何なの……?」

 それに明確な答えを出せるほど、浩一は全知の存在ではなかった。麗華もそれは分かっていたようで、答えにきゅうした浩一を見て、はぁと息を吐き、「いや、やっぱただの気の所為だよね」とそう言って、青になった信号を見てアクセルを踏んだ。

 浩一はただただ黙って、陰鬱な雰囲気を纏った娘を見つめるだけだった。


 数日後の雨の中、センターへ急ぎ過ぎていた浩一は自分が財布を落としたのに気付かなかった。

 背後から声を掛けられ、うだつの上がらない若者が財布を差し出してきた時、切羽詰まっていて感謝の意も述べられなかった。浩一はそれどころではなく、麗華がただただ心配でならなかったのだ。

 やっとの思いで駆けつけたセンターで、麗華が何故かアクセス拒否を行っていたのには心底驚き、怒りにも似た感情が湧いてきた。

 冷静になってみると、それは裏付けのための行動であったと分かった。全アクセスを拒否すれば、麗華のYOMIヨミには誰も入れないようになる。そこでもし例の奴が現れたのなら、確実に存在の証明になるからだ。

 浩一はより焦った。自分の見ていないところで、娘は危険に晒されるかも知れない。思わずセンターの受付係に当たり散らしてしまいながらも、さっさとその場所を後にする。帰り際、財布を拾ってくれた男性がセンターに居る事に気付いたが、やはり感謝を述べる暇はなく、見て見ぬ振りをした。彼も気まずそうだったし、そうするのが良いだろうと思ったが故だった。


 しばらく後、再び娘に会うためにセンターを訪れた。勝手な思い込みだが、時間を置けば今度こそ会えるはずだと思っていた。その予想は正しく、今度はログインが可能だった。

 黄泉の国で目覚めた時、いつものように助手席から始まったのだが、麗華はどこか虚ろだった。

 場所も今までと打って変わって、光のない暗い森の中を走っているようだった。

 なにか雰囲気がおかしい、そうは思っても、とりあえず娘の無事を確認できてほっとした。

「麗華、大丈夫だったかい?」

 そう声を掛けても、娘は上の空で返事をしなかった。しかし良くあることではあった。深く考え事をしている時、娘は自分だけの世界へ行くことが多かったからだ。

 やはり今は様子を見て、娘の方から話す気になるように努めよう、浩一はそう思い、自分もしばらく黙った。

 しかし麗華は一向に話そうともせず、ただ森の中を無言で走り続けるだけだった。その様子はどこか普通でない印象を抱かせ、不安感が募る。

 分岐のある道に差し掛かるたび、麗華は迷わずにハンドルを切っていった。

 何か変だった。

 娘はいつもあてのないドライブを楽しむ。だから分かれ道に来れば、少し迷ってどっちが良いか決める事がよくあった。後続車が居なければいっそ止まってしまって、浩一と相談して決めたりもした。だが今は、もう行く場所は既に決まっているように見えた。

 どこか判然としない違和感を覚えつつ、それでも浩一は麗華が何があったのかを話し始めるのを待った。

 進むにつれて分岐の数は減っていき、街灯も道幅も無くなっていった。あるのはただ、ガードレールと擁壁ようへきと崖、あとは無数の木立のみになった。気がつくとそこはもうどこかの山の上だった。

 ぐねぐねと曲がる山道を蛇行して進んでいくと、少し視界の開けた小高い場所に見晴らしの良い広場の駐車場があった。麗華はそこで車を止めた。

 広場の奥には眼下に見下ろす夜景が広がっていて、虫の声とアイドリング音だけが響く空間になった。情緒的な景色ではあるが、隣の娘だけが異質だった。

「おい、麗華……一体どうしたんだ……?」

 もうこれ以上、娘の言葉を待っては居られなかった。何かがおかしい。

 恐る恐るそう聞いてみても、娘はやはり答えようとしなかった。目線は真っ直ぐ据え、瞬きも、息すらしていないのかと思うほど微動だにしなかった。

 嫌な予感がする。隣りにいるのは本当に娘なのか? 降って湧いた奇妙な疑問を払拭するように、もう一度娘の名前を呼ぶ。が、一切の応答をしない。

 鼓動が早くなる。冷や汗が額を伝っているのが分かった。何か良くないことが起きる気がする。このままではいけない。再び娘の名前を叫ぶように発する。

 その途端、麗華は突然アクセルを乱暴に蹴った。エンジンが轟音を上げ、タイヤが地面を削り取る振動が伝わる。景色が一直線に横に飛ぶ。正面は──崖だ。

 もう一度娘の名前を呼んで止めろと叫び、強引に運転席の下のブレーキペダルへ手をのばそうと、娘の方を見る。と、麗華はこっちをみていた。

 その真横、自分と麗華の間、後部座席の方から身を乗り出す人影、ヘッドレストの真横から顔を覗かせた真っ黒な髪の女が、麗華と共に浩一を見つめていた。

 二人共色のない目で無表情のままこちらを見ている。いきなり女の名前が頭に浮かぶ。さやか──?

 それが誰であるかを考えるより先に身体が動いた。浩一は運転席の下へ上半身を無理やり潜り込ませ、全体重を掛けてブレーキペダルを手で押し込む。

 車は減速したが、その途端いきなり激痛が走って腕を引っ込めざるを得なくなった。麗華が物凄い力で腕を掴んでいた。顔は無表情のまま、信じられない力で浩一の腕を掴んで離さない。

 よく見ると、それは麗華ではなかった。浩一の腕を掴んだのはさやかの方だった。いや、腕は娘のものだった。しかしそれはさやかだ。……違う! 娘のはずだ。

 いや……この娘は、本当に麗華なのか?

 気の所為などではなかった。居るはずのない者が居たのだ。それも、恐ろしい存在が。この女は何者なんだ。

 次の瞬間、胃がふっと浮く感覚がした。ただ内臓だけでなく、実際に浩一の身体も少し浮いていた。

 前方に目を戻すと、もうそこは宙だった。眼前には切り立った岩肌が見える。

 娘を返してくれ。もう一度麗華を見ると、もうそれは娘ではなくさやかだった。顔が重なり、きっと中身も──。

 金属が激しくぶつかり合う音が耳を支配し、揺れる視界の中で鉄の味が口腔を覆い、やがて全ては赤く包まれていく。

 真っ赤に染まり切ってあとは閉じていくだけの景色の中で、浩一が最後に目にしたのは、娘が好きだった、色彩豊かな遠くの街の光たちだった。

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