二章 災禍 5

三上俊明みかみとしあき

六月二十六日


 またか、と三上俊明みかみとしあきは思った。これで何度目だろうか。

 鏡に映った自分の頬を改めてまじまじと見つめ、深くなってきた皺と皺の間に、ぷっくりと出来上がったミミズ腫れのようなものを指でなぞる。

 その感触は指先を伝って、僅かだが確かに感じれる、実際に存在するものだった。

 俊明はこのところ何度もこの現象に悩まされていた。

 意識して引っ掻いたわけでも、顔に枝か何かが引っかかったという事も無いのに、いつの間にかこのようにミミズ腫れが出来ているのだ。

 初めは自分も遂に痴呆が始まったかと自嘲じちょうしたものだが、しかしそうではなかった。俊明は原因を知っている。

 今ではすっかり億劫になってしまった記憶の引き出しを開ける作業を始め、事の始まりをゆっくりと手繰り寄せた。


 まず思い出せるのは妻とのことだった。

 妻の葉子ようこは故人だ。今ではYOMIヨミというサービスでのみ会うことが出来る。俊明にとってそれはどんな事よりも優先すべき時間で、かけがえのないものだった。

 置換細胞による再生治療の限界と医者が並べ立てていたが、要するに妻は老衰で亡くなった。医療の進歩で寿命が延ばせる社会、などとお偉方がふんぞりかえっていても、所詮人間はいつか死ぬ。個人差はあれど人は死ぬのだ。

 葉子が黄泉人よみびととなってからは長いが、老いてなお自分は矍鑠かくしゃくたる老人であると自負する俊明は、毎週欠かさず決まって日曜日に妻に会いに行った。まだ現役で働いていた頃、自分の仕事の都合との兼ね合いで、一番妻との時間を過ごしたのが日曜だったからこそ、今でも習慣として根付いている。

 そんな葉子はある時から「影を追っているの」と話していた。

 お互いに機械やハイテクな事象には無頓着であるから、何故そんな事が起きるのか詳しいことは理解出来ないが、たまに視界に現れる動く影を追って暇を持て余しているのだそうだ。

 黄泉の国の中では自分の好きなことがいくらでも出来るのに、わざわざそんなことをしているのかと俊明は呆れた。

 しかしよくよく聞いてみると、それは少しばかり不気味な話だった。

「影の中にねぇ、顔が見えるの。なんだかそれが千里ちさとに似ていてねぇ……」

 葉子は薄笑いでそう言った。

 千里とは孫の名前だが、葉子は孫を溺愛していたし、今でも家族三世帯で住んでいるのでよく一緒にYOMIヨミを利用し会いに行くこともあった。

 両親が居ない休日などに俊明の飯の面倒を見てくれたり、俊明が補聴器の調整で通っている、デバイス工房のなんたらショップという所への予約などをしてくれたりと、お祖父ちゃん思いの良い孫だ。

 だが孫は既に成人しており、会社努めもしているので俊明ほど良くは来られない。だから始めは、孫が恋しい故に変なことを言っているのだとまともに相手にしなかった。

 数日後に訪れた時、葉子は以前より一層ぼんやりとしていた。

 黄泉の国では、葉子と一番長く過ごした自分の持ち家──今では息子夫婦の家に邪魔しているが──を背景としてよく設定していたのだが、公園に設定しようと商店街に設定しようと、葉子は件の顔の影を追い掛けているような素振りばかり見せた。

 何もない空間を見上げ、瞳だけを左右に不規則に動かし、そのうちに周りのことなど愚か、俊明のことすら見もしなくなった。

 いい加減その奇妙な行動はやめて趣味でもやったらどうだと促すが、一向にやめようとはしなかった。俊明はその様子が日に日に過激になるに連れ、なんだか不気味に思った。

 そしてそのうち、影の顔は怒るようになったらしい。目で追い掛け続けないと、怒って頬を引っ掻いてくる、という。

「引っ掻かれる前に、千里の声で、お婆ちゃん見てよって言われるのよねぇ……」

 仮想現実でもボケが起こるものなのかと、俊明はカクリヨというYOMIヨミを運営する会社に苦情でも言ってやろうと思ったが、その時、そう言って目線を止めた葉子の頬に、すぅっ、と白い一直線が浮き出てくるのを確かに認めた。

 葉子の言っていたことは本当だったのかと驚嘆きょうたんしかけたが、直ぐに見間違いか何かの異常だろうと思い直し、深くは気にかけなかった。そんな事よりも、葉子にもっと楽しい時間を過ごさせてやろうと考える方が俊明にとっての急務だったからだ。


 数日後の朝に俊明が鏡を見ると、自分の頬にも白い線が出来ていた。

 一瞬面食らったが、あんな様子の葉子をずっと見てきていたのだ。自分もいつの間にか葉子の話を真に受け、思い込み過ぎて自分で無意識に引っ掻いたのを忘れているだけだ。そう無理やり思うようにした。

 しかし日に日に事態は不穏になってきた。俊明の視界にも、影の顔は現れるようになったのだ。

 俊明の目にも映ったそれは、言われてみれば確かに千里に似ていて、だが千里では無かった。長い黒髪、恨みがましい目線、顔つきこそ若い女のそれだが、その表情は鬼気迫るものを感じさせた。

 恐ろしくなり、思わず目線を逸らせば、途端にそれはひゅっ、とどこかに消え、その代わり頬にはチクリと軽く鋭い痛みが走る。猫に引っかかれた時の痛みが一番、感覚としては似ていた。

「……無視……る……だね……」

 いきなり聞こえたそれは、補聴器を通して聞こえた気がした。思わずつけていたそれを外してみたが、やはり声は聞こえなくなった。千里のような声だが、やはり違う声色だった。肝を冷やしていると、みるみるうちに頬には一直線のミミズ腫れが出来あがってきていた。

 この現象を論理的に説明し、原因はこうだと自分に言い聞かせることは俊明には出来なかった。ただただその時は恐ろしく、戦慄するばかりだった。

 補聴器を改めて見てもらう、ついでにリンクスというこの体に埋め込んだ機械も見てもらおう。これにも異常が出てるのかも知れない。そう思って千里に頼んだ。

 その時に改めて千里の顔を凝視してみるが、やはりあの見える影の顔とは違うように感じた。


 次に葉子に会った時、そこに居たのはもはや妻ではない何かだった。

 布団に横になって目を見開き、口はぽかんと開けっ放しで、何もない空間を今度は目も動かさず見ていた。話しかけても返事すらしない。

 何かただ事ではないと思ったが、その場で俊明に出来ることは何もなかった。ログアウトしたら下にいる受付を呼ぼう、それでなんとか対応してもらおう。妻がおかしくなってしまった、と。

 そう思っているうち、葉子は突然上半身を起こした。いきなりの事だったので俊明は声を上げて驚いた。

 そのまま俊明が怯んでいると、葉子は凄い勢いで立ち上がり、そのまま玄関まで駆けていき、止める間もなく家を飛び出してしまった。

 慌てて俊明が追いかけて外へ出ると、風景は変わって、どこかの橋の上になった。YOMIヨミは利用者の希望で好きな場所へすぐ飛べる。しかしこの橋は俊明の知らない場所だった。

 ふと前方の欄干らんかんに、長いロープのようなものを持って立ちすくむ人影が見える。葉子だった。

 振り返った葉子の首には、輪っかになったロープが掛かっていた。その顔に表情は無く、虚ろなまま俊明ではなく虚空を見つめている。遠く遠く、首を上の方に向けてあんぐりと口を開けたまま。

 そしてゆっくりと前に向き直したかと思ったら、俊明が駆けつけるよりも早く葉子の身体は欄干から消えていった。

 咄嗟に駆け寄り、真下を覗くも、激しく揺れ動く葉子だったものが橋の下から見え隠れするだけだった。

 茫然自失で呆気にとられてしばらく固まっていたが、はっと思い立って即座にログアウトを施し、受付に逃げ込んだ。妻の様子がおかしい、どうすればいい、と助けを請うたが、受付は本社と連絡を取るから少し待ってくれの一点張り。

 俊明自身、突然のことでパニック状態だったが、とりあえず落ち着いたほうが良いとその日は家に帰った。

 そして工房へ苦情の電話を入れた。電話口の対応をした娘はあたふたとしていたが、こっちはそれどころではなく、異常が無いと言われていたのにこのザマだったと怒りが収まらなかった。こんなこと、機械の異常に違いないのだ。

 そして近い日に予定を入れ、自身が怒鳴り込むつもりだった。


 翌日カクリヨ社から掛かってきた電話に出ると、担当から、奥様の抽出された脳のデータが存在しませんと言われた。

 説明を受けても全て理解は出来そうになかったが、YOMIヨミの特性上、仮想現実内での自死行為は有り得ない事なので、ログの確認の為立ち会ってくれないかとの事だった。

 仮想現実内での自死行為や過激な行動は、管理するAIイザナミというものが禁止しているようで、それを行おうとすると行動を阻害させるのだが、何故か今回はその枷が外れていたらしい。だから原因を特定させたいので話を聞かせてもらえないかとのことだった。

 ワークショップの予約と被らない日に予定を入れ、協力を申し出てから電話を切った。

 妻に何が起きたのか、自分も知りたかった。自分の知っている妻は、あんな過激なことをしない温厚な優しい人物だったはずだ。

 機械のことは難し過ぎて分からないが、きっと妻が見えた影に関係がある。俊明はそう確信していた。


 それから数日後の夜。床に就こうとした俊明は、自分の意識が強く酩酊めいていしている感覚に突然襲われた。

 視界はぼやけ、天地が分からない。聴覚もおかしくなり、補聴器をしていないのに甲高い不快な音が聞こえ、さらに脳内で反響する。

 床に就こうとしていたことが幸いし転倒は免れたが、立ってはいられなかった。そのまま横に激しく倒れ込み、混濁する意識の中、家族を呼ぼうと手を伸ばし、大声を出そうとする。が、強い倦怠感がそれを許さない。伸びた腕が力なく床に落ちた。喉からは掠れたような僅かな音しか出ない。喉の振動を声に出来なかった。

 やがて視界にあの影の顔が現れた。それは今度こそ明確に姿を持ち、また顔ではなく全身像が見えた。

 その女は俊明の顔を覗き込むように座った。所々に白が残る、赤く染まったワンピース姿だった。

 薄れゆく意識の中、なんとなく女の名前が頭に浮かぶ。が、それをはっきり文字にして理解出来るほど俊明の意識は明瞭では無くなっていた。

 女の顔面が迫るにつれ、俊明の心拍は高まる。心臓の音が聞こえるようだった。目の前まで迫ったその顔は、余りにも恐ろしい、恐ろしくて悲しいものだった。

 最後に一層激しく心臓が脈打ったと感じた後、もう何も感じなくなり、視界は閉じていった。直後、強烈な睡魔が俊明を襲う。

 意識が途切れる最後、自分を呼ぶ孫の声が聞こえた、ような気がした。これは千里か、それとも──。

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