二章 災禍 2.5
この角度から見る霞美は、いつもそのベッドから窓を見ていた。籠の中の鳥だったのだ。少なくとも霞美自身は自分をそう思っていたのだろう。今見る霞美の横顔は、いくらかいつもより明るかった。
何故だ。彼女はもう影が見えている。それは、聡臣が見た家族の
だとしたらあれほど恐ろしい何かを、彼女は喜んで受け入れているというのか。
そう思いながら、押し寄せる感情の波をなんとか制し、聡臣は椅子に腰を落とす。そのまま霞美の肩に触れると、彼女はこちらを向いてまた微笑んだ。
この触れた感覚も、視覚も嗅覚も聴覚も景色もやり取りも何もかも、全てが記憶の中のまま、いや実物そのものと言っていいほどにここは現実なのに、現実ではなかった。
そう実感するのが嫌だった。嫌で仕方なかった。彼女が現実では既に死んでいるという事は認めたくはないからだ。
それでも、目の前の霞美は生き生きとしている。現実でもそうしていたように。
「霞美……」
すまない、と続けるはずだった。続きが絞り出せないのは何故なのか自分でも分からない。
彼女は死んだ。この病室で。
聡臣にとってせめてもの救いは、霞美がYOMIへの登録をしていた事だけだった。
初めは覚醒させる事を拒んだ。けれども、遺言にも似た彼女の言葉がこびり付いて頭から離れなかった。
「聡臣は私がいないとダメだから、すぐに起こしてね」
たったそれだけの言葉だったが、聡臣の全てを見透かしたようだった。その通りだ。彼女が居ない日々は何もかも空っぽで、虚無だった。
そして耐え切れなかった聡臣は、彼女を
けれど、そこで自由になるはずだった彼女は、何故かこの病室から動こうとも、歩こうともしなかった。
自分自身が死ぬ間際の、この時間だけに囚われてしまったのだ。強いトラウマや、本人の思い込みなどによりこういう事例は少なからずあるのだと言うことは、後に知った。
聡臣は霞美を自由にしてあげたかった。せめてこの黄泉の国でだけでも。現実で出来なかった色々な場所に行ったり、好きなことをさせてあげたりしたかった。
しかしそれは叶わなかった。いつ来ても霞美の黄泉の国はここだった。ここでしかなかった。まるでこの世界だけしか知らないように。ここにしか居場所が無いのだと言わんばかりに。
すまない。そこから続けるつもりだった言葉の羅列を、他のどんな言葉で補完しようと思っても、それ以上紡ぐことが出来ない。単純に謝って仲直りするなどという普通の喧嘩ではないのだ、これは。
霞美という個人、アイデンティティを、黄泉人にしてしまったことで、殺したも同然だった。二度目の死を彼女に与えたのと同義だった。
「さやかちゃんが来て、私がここに居る理由が出来た気がするの」
その言葉を聞いて、聡臣は霞美の目を見る。一瞬何を言っているのか分からなかったが、その目線は、部屋の角に向けられた。
すぐにそれを追うと、そこにはあの影が居た。聡臣が部屋で見たものと酷似した、人の俯く影。
あの時は思わず霞美を連想した。が、そうじゃない。俺が見ていたものはこれだった。そう思って聡臣はその影を見つめる。
ちょっと待て、と思考を一旦止める。今、霞美が口にした名前。
「さやか……?」
「そう、さやかちゃん。聡臣にも見えるのね。だったら彼女はやっぱり、本当にそこに居るんだね」
背筋が粟立つのを感じる。目線が影から外れない。「さやか」だと?
今部屋の角に立つ人影を見据え、頭の中でお前の名前は何だ、と問いかける。すぐに名前が浮かぶ。やはり「さやか」だ。ひらがなで三文字。間違いない。
同時に、どこかおかしな連想のされ方だと思った。何故こんなにハッキリ名前が浮かぶのか。
知る限り自分にさやかという名前の知り合いは居ない。子供時代の友達や近所の人、親戚に至るまで心当たりはない。自分の記憶の中から引っ張り出された、消えそうな記憶の中にその名前はない。
しかしその影を見ると、全く馴染みのない名前が何の疑問も無く浮かび上がる。本当にその影の名前が「さやか」だと言うように。
それは、聡臣が先程両親の元へ行った時に現れた、弟の席に座っていた「この場に居てはいけない人物」の名前だった。
そして、奴はこの場所にも居てはいけない。両親の
付け加えて、先程の自宅で見た、霞美と勘違いしたあの影。あれも恐らくさやかなのではないか。だがそこは現実だ。
その時不意に、霞美の目線がとろりとした。その表情は今まで見せたことのない、恍惚に似たものだった。
今までは悲しみの色が塗られた微笑みばかりだったのに、その顔は嬉しくて堪らない、といった様子だ。
「おい、霞美。霞美!」
肩を掴んで揺するが、反応はない。ふふふ、と笑みが溢れる。
「私も、向こうに行けるかなぁ」
霞美はそうポツリと言った。
──魅入られている。何故だが聡臣は直感的にそう思った。
さやかの影が一歩、霞美の方へと歩き出した。同時に、聡臣の身体には鳥肌が立つ。近づいてはいけない。本能がそう警告していた。不思議と自分も立ち上がり、一歩下がる。
来るな。
聡臣は自分が震えているのが分かった。この影はただの人影だ。しかし居てはいけない。ここに現れることが異常なのだ。居てはいけない影が、居てはいけない領域までやって来てしまう。それがとてつもなく恐ろしかった。
まだ
さらにもう一歩進んだ影は、窓から漏れる陽光に照らされる。そこに浮かんだこちらを見下ろす顔は、一切の感情を示していない。まるで人形のようだった。
その顔を見てすぐ視界は途切れ、全てが闇に包まれた。
起き上がった聡臣は、自分だけ逃げてしまう事への自責の念、抗いようのなかった恐怖と焦燥感、入り乱れた複雑な感情を必死に抑え、センターを飛び出した。
あの影は……。自分が見ていた影は、ただの影ではない。
自分の車まで辿り着き、乗り込んだあとで深く深呼吸をし、いくらか落ち着いてきた頭で思案を巡らす。
いつか
「さやかの、呪い──?」
聡臣はそう呟いて、あの時のあゆみの言葉を思い出す。あの「ナントカの呪い」その欠けた部分には、さやかの名前が入るのではないか? そう思うと再び寒気を覚える。
自分だけじゃない。この影を見ているのは複数人居るということなのだろうか。
だとしたら、一体、この街で何が起きているというのか。
霞美の顔が脳裏をよぎる。それはかつて聡臣の全てで、何を犠牲にしても守らなければいけないものであった。なんとかしなくてはいけない。きっといつか霞美も両親のようになってしまう。そうなれば行き着く先は──。いや。
黄泉から行き着く先とは、一体どこなのだろう。
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