二章 災禍 3
七月七日
目の前にいる祖父母は、もう祖父母ではなかった。祖父母の形をした、別の何かだ。
あゆみが
あゆみが来ると知っていて、祖父母はここを選ぶ。現実にも存在する、水の公園と通称で呼ばれたそこは、中央に大きな噴水があり、休み時などは家族連れで賑わう大きな公園だった。
中央の噴水の周辺には水遊びの出来る空間があり、子どもたちはそこでワイワイと遊ぶ。
噴水を取り囲むように芝生が広がり、ジャングルジムやブランコなど遊具が広がる区域と、ベンチや自動販売機、ちょっとした東屋などが点在する憩いの区画と分かれていた。
あゆみは祖父母がお気に入りのこの場所が、やはりお気に入りだった。
遊び回る子どもたちの笑顔は純粋で無邪気で、憩いの広場で本を読んだり鳩に餌を上げるお年寄り達は穏やかな顔をしている。全てが優しい空間だったからだ。
ところが、今は誰一人としてこの公園には居なかった。茜色の黄昏のみが支配する、静かな空間。
代わりに祖父母だけが居て、その祖父母はもう祖父母ではない。あゆみは再び戦慄する。
先日、
祖父母は、人の形ですら無かった。
英字のSという文字がさらに伸びてさらに歪んだような、細くて真っ黒の歪な曲線が二本並び、その曲線のようなものから影が伸びている。
その影にはかつての祖父母を思わせる腰の曲がった人間の姿形が見て取れるのだが、その影の表面で白と黒が混ざりあったノイズがひたずらに蠢いている。
その影は陽光のような紫の光を浴びて出来ており、曲線の物体を中心に素早く円運動を繰り返している。その影があゆみの近くを通り過ぎる度、言葉が一言ずつ頭に響く。
「 」
「 」
「 」
「 」
「 」
忘れない? どういうこと?
この光景の中、あゆみは先程からそれをずっと繰り返し聞かされている。数分と絶えられなかった。それに、まるで金属が激しく擦れ合うような大きな音に混じって聞こえてくるので、不快感が尋常ではない。だが耳を塞いでも聞こえてくるので聞くのを辞められない。
駄目だ、もう耐えられない。右耳の裏、リンクスに意識を移し接続を解除しようとした時、曲線の物体の影が二つとも動きを止めた。しばらく何の音もしない時間が訪れた。
耳に痛いほどの静寂の後、突如その曲線の物体が、強烈な音量で破裂音のようなものを発し、同時に鮮血のようなものが吹き出した。
赤黒いその中には固形のぬめっとした物体も見て取れ、生理的な嫌悪感を催す。そして、もうここに居てはいけないと本能が悟る。
だがやはり、ここに居なければいけないような気もしてくる。ここにこのまま留まり、祖父母の死を看取らねば。次は自分なのだから。
そんな気がして、あゆみは地面に座り込む。今自分は何を思った? と、混乱すると同時に唐突に押し寄せる倦怠感があゆみを襲った。もはや指の一本も動かしたくない。
「 」
声が聞こえる。誰の声かは分からないが、さやかなんじゃないかと思った。
「 」
もう一度聞こえる。やはりさやかだ。彼女が誘っている気がした。行かなくては。あゆみは立ち上がった。
「 」
嫌だ! 三度目にそれが聞こえた時、あゆみは自分が喋っていたと気付き、はっと一瞬我に返る。そして驚きのあまり、膝から崩れ落ちた。
痛みはない。右足は義足だから、と思い、宏親の顔が思い浮かぶ。
「
あゆみは何故か悲しくなる。向こうに行かなくてはいけない。曲線の物体から溢れた鮮血は地面に広がり、よく見るといつの間にかそこは穴のようになっていた。広がった黒点、深い深い深淵の奥。自分はそこへ行かなくてはいけない。でも──。
それでも、あゆみは接続を解除する。視界は一瞬で閉じた。
目が覚め、ここが現実だと実感するとどっと恐怖が押し寄せた。身震いが止まらず、ダイビングチェアから倒れ込み、地面で
その視界の端に、人影が立っていた。それに驚く暇も無く、人影はあゆみの眼前まで顔を伸ばした。さやかの顔だった。先日と変わらない、完成され過ぎたその人為的な顔。冷たい目でこちらを凝視している。
何故だ。ここは現実のはずなのに。
あゆみは思わず悲鳴を上げ、フロストガラスの向こうへ飛び出る。長く続く廊下の先、自動式の大扉を出る時、精算の認証に手間取ってしまう。目線の高さにあるパネルから声が響く。
「虹彩認証で精算をお願い致します」
間抜けな機械音が腹立たしい。今すぐにでもこの場を出なくてはならないのに。
「早く! 早くして!」
目線を合わせ、認証され扉が開く時もう一度振り返ると、さやかは先程まであゆみが居た部屋から歩いてこちらへ向かってきていた。
すぐに追いつかれる。早く出なくては。そう思い、振り向きざまに走り出すと、右肩から何かにぶつかった。
衝撃で視界が揺れ、体制が崩れて膝をついてしまったが、あゆみはそれどころではなかった。瞬間で跳ね起きて階段から入り口へ落ちるようにして下り、センターの入り口に体当りするようにして外へ飛び出した。
その一瞬前、さやかを確認するために振り返ったセンターの中。階段の上、先程認証を終えた大扉の前で、真っ黒い何かが立っているのを見る。
それはさやかの影ではなく、恐らく先程あゆみが右肩をぶつけた人物だった。それはスラリとした長身の、全身を黒色の服で統一した男性だった。
奇妙なことに、男はぶつかってしまったあゆみを責めるでもなく怒鳴るでもなく、ただただじっと、冷ややかな表情で見つめていた。
その佇まいにはどこか底知れない寒気を感じた。この男はどこか、さやかに似ている。だが、さやかから感じる恐怖とはまた違った感覚を覚えた。
この男からは恐怖というより、何も感じない。それが逆に恐ろしかった。
つい足を止めてしまったが、その男の背後でさやかの影が蠢いたのを見て、再び駆け出した。
早く、小麦さんに
あゆみの頭の中はそれだけだった。もう街は夜になり、がやがやと大勢の人たちが騒がしい景色に溶け込んでいく。道沿いに並ぶ居酒屋から油料理の香りが舞い、道行く人々は既に酒気を帯びている。夜の匂いがあゆみを包んでいた。
オートスケーターを信じられない速度で飛ばし、何人かぶつかりかけたが気にしない。喧騒と街の光を置き去りにしたまま、あゆみは小麦の居るであろう占いの館へと一直線に走った。
途中の住宅街でオートスケーターの充電が切れてしまい、うんともすんとも言わなくなったそれを乱暴に投げ捨てると、今度は走った。走るなどいつぶりだろうか、右足の義足接合部が軋むのを感じるが、痛みはない。まだ走れる。
祖父母は死んだ。死なないはずの
これは、さやかの呪いだ。小麦さんに報せなくてはいけない。
この街で、この世界で、何か異常な事が起こっている。小麦さんならそれが少しでも分かるかも知れない。あの影をきっとなんとかしてくれる。
小麦さんだけじゃない。宏さんも、
「 」
突如、耳に張り付くように声が聞こえた。前に祖父母の口から聞いた言葉だった。今度は、透き通った淀みのない、源泉の泉から聞こえてきそうな綺麗な声がそう語りかける。それがさやかの発しているものでなければ、きっと心地よい声色だったことだろう。
容姿だけでなく声までも完璧な印象を抱かせる。恐ろしい呪いを引き起こしている元凶とは思えない。だからこそその不釣り合いな印象が不気味さを加速させた。
視線の右横、走っているせいで横線のように景色の中に顔の凹凸が現れる。真っ直ぐに伸びる鼻筋。こちらに振り向いた目は氷のように冷たい。その瞳は深い闇を見つめているような、いや、闇そのものなのかもしれなかった。
さやかの口がもう一度何かを言いかけたその途端、あゆみは何かに躓いた。
関節部の局所的な熱さと、痺れるような痛みがあゆみの全身を襲ったかと思うと、コンクリートを舐める格好で地面に叩きつけられていた。
重い耳鳴りがしだして、側頭部から汗が流れるのを感じる。それが滴るのを手で拭うと、それは赤かった。血だと気付くと途端に視界が真っ黒に、霞がかったように曇っていく。
そうして思考までもがぼんやりとベールがかけられたように判然としなくなってきた。鼻腔の奥に鉄の臭いが流れてきて、それがまた思考の妨げになるほど不快な感覚だった。
身体は一歩を踏み出す度に軋み、もはや呼吸までまともに出来ない。息を吸った所で、鉄の臭いしか入ってこない。それでもなんとか動かせる右足を頼り、ゆっくりと身体を起こす。
通らなくてはならない道の真ん中、目の前にさやかが立っていたが、もう視界に入れる余裕はない。それをなんとか躱すように前へ前へと進んでいく。目指す場所はもうあと少し、目と鼻の先にある。
鬱蒼と茂る林間の奥に佇んでいるその場所、見覚えのある暖かい光が漏れる一軒家。小麦の占いの館。
その玄関が開き、誰かが出てきたような気がした頃、もうあゆみの視界はほぼ無かった。自分が歩いているのか這っているのかすらももう分からなかった。
もう消えてしまいたい。疲れてしまった。一刻も早く解放されたい。
また地べたを舐める。アスファルトと鉄が混じり合った臭いがするが、それもやがて感じなくなってきていた。
「宏さん……」
薄れゆく意識の中、最後にあゆみがぼんやりと見たのは、見慣れたツナギ姿で自分の元へと駆け寄ってくる、大切な人──。
と、その隣から両手を広げて飛び込んでくる、さやかの姿だけだった。
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