二章 災禍 2

葦澤霞美あしざわかすみ


 ふわり、とまた風が吹く。しかし窓からの風ではなかった。室内の気流が乱れて起きる風。それが起きる時は、大抵彼が部屋に来る時だった。

 そう思い、カーテンが切り取った光芒こうぼうへと置いていた目線を、霞美かすみは病室の入り口を向ける。そこには誰も居なかった。

 おかしいなと思い、確かに感じた流れの残りを追い、カーテンへ目線を戻していく途中、この前も見た影が視界に入る。

 変わらず、部屋の角にそれは在る。あれから大分存在感を纏ってきたと思う。目の前に佇むそれは確かな実体を持っている。五感で感じるものでも、物理的な事象によるもので成り立っているわけではなく、霞美という観測者をもってそこに在る。

 では、霞美が彼女を認識出来なくなれば、彼女はそこに存在しなくなるのだろうか。

 ──たぶん、そうなる。

 観測者から完全に独立した存在など成立しない。誰かがあの角に立つ彼女を認知するから、彼女は彼女としての存在で成り立っている。

「私も私として誰かに認知されていなければ、あなたと同じだね」

 霞美は彼女に言うでも自分に言うでもなく、そうなんとなく口に出す。

 彼女は自分の名はだと教えてくれた。耳で声を聞き取ったというわけではなく、頭に直接浮かぶのだ。

 不思議だが、不思議な事など何もない。起こり得る可能性が少しでもあるならばそれは起こるのだ。特にこの世界では。

 さやかは一歩ずつ霞美へ近寄る。現れる度に、一歩ずつその姿は霞美へと近くなってきていた。

 それの意味するところは霞美には分からない。彼女がこちらへ歩み寄り何をしたいのか、その結果最後には何が起こるのかは不明だ、全ては霞に包まれている。

 それでも、きっとそれは悪いことではないのだろうということだけはなんとなく分かっていた。

 近づいてくる度に、彼女の意思のようなものが明瞭になっていく。

 ズレていたピントが合っていくように、最初は抽象的だったそれはやがて明確になり、感情の共有が始まり、今では言葉にして彼女の内心を汲み取れる。そして、共感出来る。

 霞美にはそれがどうしようもない程悲しくて、それでいてしかし心地良くて、だから悪い気はしなかった。

 私も同じだよ。そう言って彼女を励ますと、心しか流れ込む感情の濁流はその勢いを弱める。その時、霞美は初めて思った。彼女は、分かって欲しいだけ。自分の事を認知して欲しいだけなのだ。

 私は、確かにここにる、と。

 空気が動き、さやかの影は溶けるようにして見えなくなる。それと同時に、振り返った入り口には聡臣さとおみが立っていた。

「霞美──」

 彼は肩で息をしている。急いで訪れたのだろう、薄っすらと額に汗が滲むのが見て取れた。

 そんなに急いでどうしたのかと聞くと、彼は物凄い剣幕で詰め寄る。

「影を、見ていないか。俺が見たのと、同じ」

 霞美はその質問に、あっさりと答えた。何か言い訳して取り繕おうかとも思ったが、もう既に聡臣はそれを確信している様子だったので、何を言おうと無駄だと思ったからだ。

「さっきも、来てたよ」

 すると、聡臣の顔色が突然変わった。傍らのテーブルを叩きつけ、クチナシの花瓶が揺れた。

「どうして教えてくれなかったんだ!」

 見えだしたのは最近の事だったし、それが悪いものではないと思ったから。

「いいや、今ここに来て分かった。お前は様子が変だ。それはあの影のせいなんじゃないのか?」

 そんなことないよ。私は元々こうやって夢想に耽って、現実から逃げ出していたから。

 そう、彼女は私を夢想の世界に誘ってくれる。この退屈な病院の景色からも、歩けないという忌々しい枷からも、何もかもから、私を解放してくれる。そんな気がする。悲しい気もするけど、その方が私にとっての前進になる。

 霞美はそう思い、微笑みを聡臣に向ける。聡臣は怒っているような、それでいて悲しいような複雑な表情で、ただそれを見ていた。

「私は今のままでいい? この病室に囚われたままで」

 その問いかけに、聡臣は何も返事をしなかった。

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