二章 災禍
二章 災禍 1
七月四日
呪いの定義とは何か。
古来より日本では、呪いと言えば物理的あるいは精神的に対象を不幸に陥れるために行うものとされてきた。それも物理的手段ではなく、精神的あるいは霊的な力によってそれは成され、悪意を持って災厄や不幸をぶつける。
人が人を呪う事は、昔はハッキリとあったそうで、真偽の程は定かではないが、呪術師などという存在も実際に居たと聞く。こういった明確な悪意を目的とするものを
例えば
草木も眠る丑三つ時に、神社の御神木などに憎い相手に見立てた
白装束で頭に蝋燭を立て、丑三つ時に行う、という様式と呪術道具を用いた呪法で、打ち込まれた相手は打ち込まれた場所に何らかの異変をきたすそうだ。主には、七日後に死ぬと言われている。七日間続けてこれを行わなければならず、途中で誰か他の人に目撃されると呪い返しをされ、呪った本人に呪詛が返ってくるらしい。
丑三つ時とは午前一時から三時あたりで、こんな真夜中にそんな行為をしていると想像しただけで身の毛がよだつ。実際に打ち込まれた相手は死なないにしろ、ただでは済まないのではないかと思えてくる。
他にも、四国の方に伝わるいざなぎ流という民間信仰もある。これは
悪意による祈祷を太夫に秘密裏に頼み、相手を呪う。するとその相手が地球の何処にいようが、何らかの病気を発現するというものだ。きっとこれも最悪の場合死ぬのであろう。
いざなぎ流には他にも、犬神信仰や生霊などのワードも出てくる。しかしそのどれもが
現代こそスピリチュアルな物事は徹底的に科学で説明出来てしまうが、このように呪いといいうものは、人間心理の奥深くに根付く、言わば信仰の一種なのではないかと小麦は思う。
呪いの儀式というものは、様式めいたものを執り行うという事自体に意味があるのではなく、もっと根源的で簡潔な、誰かを殺したいほど憎むとか、周り全てが恨めしいとか、その根を
オカルティックに考えを巡らせば、なんとなくそんなような気がしてくる。
では、今世間を騒がせているこの「さやかの呪い」、これは何なのだろうか。
小麦はタブレットを取り出し、SNSやニュース記事などを改めて調べた。欲しい情報は簡単に出てくる。今や呪いと検索するだけで、この話ばかりが出てくるからだ。
取り分けSNSは体験談の宝庫だった。本当かどうかは疑わしいものから、普段は真面目な事を言う人物なども霊体験をしたと豪語していたりする。
それら曰く、さやかの呪いはとある人影の目撃から始まるのだそうだ。
視界の端に、そこにいないはずの人影が一瞬だけ写る。なんだろうと目線をそちらにやるともういない。誰もに共通する事象としてまずそれがあるそうだ。しかしそこから先の派生した話はまるで共通点がない。これが実に奇妙だった。
曰く、人影は女の形を成して部屋の角に立ったまま俯く。しかし何事か呟きながら壁を引っ掻くばかりで何も実害はない。
曰く、人影は窓の外の景色にだけ現れ、そこに点在する屋根の上に立つのを目撃する。見たら死ぬらしい。
曰く、人影を見ると周りに葬式が増える。しかし出席したなら何故か悲しんではいけない、悲しむ素振りもしてはいけない。そうすればたまとりに遭う。(たまとりは魂取りと書くのだろうか?)
このように様々な話が乱立し、かつて途絶えたと思った
だがもう一つ。人影から始まること以外にも共通点はあった。それはその影を「人」だと認識した時、何故か頭に浮かぶその怪異の名前にもなったもの。
小麦自身にも覚えがあるもので、やはりSNSで騒がれている目撃情報のどれも、「さやか」という名前を記してある。
「何でかはわかんないけど、この人の名前はさやかだって頭に浮かぶ」
「中学だか小学校だかの影の薄い同級生に同じ名前の子が居た。そして調べたら死んでいた。その子の呪いじゃないか」
「いや、さやかというのは人名ではない。きっとなにかの暗号だ」
と、ネットでも憶測や議論が飛び交い、結局それが何なのかまでは誰も理解していないようだった。
怪談的にこの現象を解釈するなら、と小麦は誰にともなく議論の続きを一人で始める。
きっとこの「さやか」という人物がトリガーになっているんじゃないだろうか。そしてこの人の怨念が何らかの方法で拡散し、浸透している──。
感覚でそう思っただけなので、確証などは何もない。ただオカルトな考え方をするならそれが妥当だと感じたからだ。何かが起こる事象は、その原因無しでは起こり得ない。人が涙を流すのは、悲しいという感情を持つからだ。
──では、何故その人は悲しいのだろう?
小麦に分かるのはそこまでだった。原因があって結果があるのは何となく肌で感じ取れる。占い師の直感と言っても良かった。
だが、その原因が起きる理由が分からない。さやかという人物に何があって、もしくは起こって、何故怨念を持ったのか?
「すみませーん」
小麦は室内に突如響き渡ったその声に驚き、肩を竦めた。どうやら客のようだった。
営業時間内にも関わらず勝手に妄想の世界に行ったのは小麦自身だったが、脅かさないでよ、とその訪問者を何故か責めてしまう。タブレットを片付け、一息
扉を開けると、その隙間から可愛らしいポニーテールがぴょこんと飛び出した。
「あ、こんにちは。すみませんいきなり……。今って営業してますか?」
ポニーテールの主は声も可愛らしく、そう尋ねてきた。
快活な印象を抱かせる女性で、女性というより少女と言ったほうが良いほど若く元気に見えた。
「はい、どうぞ。上がってください」
小麦はそう言って、いつものクロスが敷かれたテーブルまで案内する。途中、彼女が歩く足音が左右で違うことに気付く。振り返って改めて見てみると、ホットパンツを履いたその脚の片方、右膝以下が義足だった。
しかし、足音が違わず脚が全て隠れていたなら気付かない程に自然な歩行、自然な仕草で案内された席によいしょと声を出して彼女は座った。
この人は義足であることを常人とのハンデなどとネガティブな考えは持っていない。そう小麦が思うほど彼女の動作は自然で当たり前だった。見てくれも活発で、その様子はとてもではないが何かに悩んでいるという風には見えなかった。
「占い師さんってご職業、珍しいですよね。長いんですか?」
「よく変だって笑われますよ。まだ四年の若輩者ですし」
「いやいや、充分凄いと思うなぁ。こんな素敵な場所にお店を構えて……私もこういう静かな所に住んでみたいって思っちゃいました」
その太陽みたいな笑顔を見せる子は
二十六の小麦より三つ下というので、同年代みたいなものですねと言うと、あゆみは物凄く驚き、二十代に見えない貫禄だと、褒めているのか貶しているのかわからないことを言った。が、まぁ彼女の持つ雰囲気から察するに褒めているのだろう。小麦もそれを聞いて特段と悪い気はしなかった。
「今日は何かを占って欲しくて来たんですか?」
「うーん……まぁそんなところですかね」
煮え切らない答えだったが、そんなものだろうと小麦は思う。昨今占いと言ってもピンと来ない人もいる。昔はこういう年頃の女の子はこぞって占いに行く、ということが流行っていた時代もあったと何かの本で読んだ事があるのだが。
姓名判断、手相、人相を始め、色々それっぽい事も出来るし、タロットを使った占いが一番得意だと言うと、あゆみは目を輝かせて、昔に少しだけ聞いて興味があったというタロット占いをして欲しいと頼んだ。
タロットには様々な「スプレッド」と呼ばれる占い方がある。相手の相談内容に合わせて、適切なスプレッドを用いてカードを置き、その順番やカードの種類、正逆の位置で詳しく見ていくのだ。ケルト十字やスリーカード、ワンオラクルなどその種類は多岐に渡り、自分でスプレッドを編みだす占い師もいる。
「それで、何かお悩みごとがあるのですか?」
小麦がタロットのデッキをテーブルの中心に置いてからそう問いかけると、あゆみは目を伏せ、先程とは違って陰鬱さが垣間見えるような表情をした。何かを言い淀んでいるように口を開いたまま止まり、一瞬迷ってから恐る恐る喋りだした。
「えっと……うん、はい。悩んでいることがありまして。この先私はどうすればいいんだろうって」
「分かりました。内容は言いづらければ言わなくても結構ですよ。……ではスリーカードスプレッドを使って見てみましょう」
あゆみは目を丸くしたまま、シャッフルを始める小麦を見つめる。それだけで占いが出来るのかと問いたい顔だった。この表情はよく見るもので、対応には慣れていた。小麦は微笑んで続ける。
「大丈夫ですよ。知りたいことはカードが教えてくれます。タロットはあなたの内面に語りかけ、深層心理を浮かばせるものです。それを偶然性で占うのです。……あ、先に言っておきますが、私には超能力はありませんよ」
あゆみは口を
シャッフルを終え、カードを扇状に並べる。小麦のその一挙手一投足をあゆみは目を煌々と光らせて眺めている。
「好きな場所から、直感で三枚選んでください。直感が重要です。偶然性ですからね」
あゆみはそうは言われたものの、目線が泳いでいた。頭ごとキョロキョロと振り回し、しばらくカードと睨み合いを続けた。そして、小さな隙間から覗く三枚を指差した。
小麦はそれを受け取ってあゆみの方へ向け直し、彼女から見て左から、「原因」「結果」「アドバイス」だと告げた。
「ここに出るカードの種類で占います。では開きますね」
あゆみが生唾を飲み込む。全て裏返したそれは、中々面白い結果だった。
原因の位置に「恋人」、結果は「月」、アドバイスは「女帝」、全てあゆみの方を向いた、正位置。
「あゆみさんは何かに強く魅了されてますね……それは何でしょう」
あゆみはそれを聞いて、ええっと大きく驚いた。みるみるうちに頬が紅潮していくのが分かった。思わず席を立ち上がって大きな声で言い放った。
「何で恋愛の悩みが分かったんですか!? やっぱり超能力じゃないですか!!」
小麦は「なるほど恋愛相談か、ならば人に対しての魅了という解釈で合っているな」とほくそ笑んだ。
この最初の問いかけは
落ち着いた彼女がゆっくり座ると、どこかさっきよりも小さくなっていると錯覚しそうになるほど縮こまっている。何だか妙に可愛らしい。
「ふむ、でもそれはあまり良くないかも知れませんね。他のことに手がつかなくなったりはしませんか? どこか夢見心地のような気分になったりしますか?」
あゆみはそれを聞いているのかいないのか、紅潮したままこくこくと黙って頷くだけだった。
「仕事が手に付かないだとか、ミスをしてしまうだとか? ……なるほどなるほど」
あゆみはもう目を合わせようとしない。小麦は彼女の様子が面白く、もっと愛でたいとは思ったが、可哀想なので話を進めることにした。
「あなたがどうすればいいかを知りたいんでしたね。この恋の行方は……そうですね。不思議な着地を迎えるかもしれません。それはロマンティックとも言えますが、まだ不明瞭で、なんともミステリアスな結果です」
あゆみは目をパチパチと瞬いた。紅潮は大分収まってきたように見える。
「そ、それは……つまり?」
「主にはあなたの行動次第ですが……どうすればいいのかはこの女帝のカードが示しています」
あゆみは目線を女帝のカードに落とす。
「この女帝が司るのは愛、美、そして実りです。実りとは生命のサイクル。あなたの持つ愛を存分に相手に伝えて、相手を受け入れる包容力を持つと良いでしょう。きっと恋は上手くいきますよ」
あゆみはそれを聞いて、落ち着いたと思っていた紅潮を再び取り戻してしまった。
しばらく一人であたふたとしている様子を微笑みながら見守っていると、こほんとわざとらしく咳払いをして、あゆみは机に向き直した。
「あの、ありがとうございました。頑張って伝えてみようと思います。……出来れば」
「あなたならきっと大丈夫ですよ。もう決心はついているのでは?」
それを聞いて、後頭部を恥ずかしそうに掻く仕草をする。えへへと恥ずかしそうに笑う彼女を見て、小麦はやっぱりそうだったかと思う。
タロット占いは、言ってしまえば悩み相談みたいなものだ。その人の深層心理を暴き出し、実はどうしようかもう決まっているのだけど、なんだか勇気が出なくて決めかねている、という心のその後押しをしてあげるのだ。
占い師という泊のついた役職の人からそう言われると、お墨付きをもらったと勇気が出る。そうして迷いを吹っ切るのだ。まるでおまじないをかけてあげるように。
そう思った小麦の顔から笑みが自然と消える。
御呪い。
それは書く字の如く、呪いと同義だ──。
小麦は人の幸せを強く望む。その人物の思いを手助けし、その人が笑顔になれるように。それが嬉しくて占い師を目指すようになった。目の前で赤面を作り、ご機嫌そうに揺れているあゆみのような人たちの為に。
しかし呪いは全く逆の位置から生まれてくる。タロットの正逆で意味が変わるように。人の幸せを願う正の感情が生むのがおまじないであれば、激しく人の不幸を望んだ負の感情で生まれるのが、呪い。
それはまさしく表裏一体のものではないか。
さやかの呪いのトリガーになった人物は、やはり激しい憎悪を抱いていた……。
「どうかしましたか?」
あゆみが覗き込むようにして言った。小麦はそれで表情を取り繕い、なんでもありませんとかわした。
「他に占って欲しい事はありますか?」
再び営業スマイルを浮かべてそう聞いて、しかしあゆみの言葉で取り繕うのは限界を迎えた。
「あの……こんな事言うと変に思われるかも知れませんが……霊視みたいな事って、出来ますか?」
小麦は冷水を浴びせられたように感じた。まただ。以前にも同じ頼みがあった。
しかしそう聞いた彼女は死んだ。この問いかけは不吉だと小麦は身を持って実感しているが、それでもなんとか平静を保って問い返す。
「どういう事でしょう」
「数日前から、変な影みたいなものを見るんです。それと昨日、祖父母に会ってきたんですけど、それも何か様子がおかしくて」
小麦は何も言わず、あゆみの話に真剣に耳を傾ける。この子も同じ現象に見舞われている。影を見るという、いわば呪いの初期症状のようなもの。小麦は耳をそばだてて聞き入った。
「なんか、祖父母が祖父母じゃないんです。顔は祖父母なんですけど、振る舞いとか、喋る言葉もおかしくて……」
「それはどういう……?」
「言葉は凶器、って。うわごとのようにそう繰り返すんです。まぁ教訓めいた説教と言われればそうなんでしょうけど、おじいちゃんもおばあちゃんもあんなに怖くはないし……」
「怖い、とは?」
「あんなに、虚ろな眼差しじゃない……。あんなの自分の知ってる祖父母じゃない気がするんです」
小麦は顔の知らない老夫婦を想像し、あゆみから聞いたその様子を当てはめてみて、寒気を覚える。
「それで、今日もここに来る途中、昼頃かな? オートスケーターっていうので来たんですけど」
昔あったスケートボードとキックボードという乗り物が合体したような、簡易電動バイクのようなものだ。街中でもよく見かける。
「住宅街に入って、ブロック塀から飛び出してきた人影を避けたんです。危ないな、文句言ってやろうってもう一度見たら、それ、祖父母だったんです。えと、二人が一人になったような、なんていうか……。正面の顔はお祖父ちゃんで、本来は後頭部のハズの場所に、お婆ちゃんの顔があるっていうか」
頭の中でぼんやりと姿が浮かび上がってくる。完全に異形だ。人間ではない。
「で、混乱してたら、視界にノイズみたいなのが出て。空間の歪みみたいになって、目を閉じたんです。そしたらもう消えてました。それで、消える一瞬前……別の人の顔になったんです」
あゆみはそこで言い淀む。一度生唾を飲み込んでから小麦を見据えて続きを言った。
「さやかって女の人でした」
小麦はそこで、頭を殴られたような衝撃の錯覚に襲われた。目の前を光点がチカチカと飛んでいるような気さえする。思わず目をギュッと瞑り、目頭を押さえた。
「あ、えっと、さやかって人は知らないんですけどね。あれ……? 何か変ですね、知らないのに名前は知ってるって……」
でも、と一声置いて、あゆみは目頭を抑えたままの小麦を差し置いて続けた。
「綺麗な人だったなぁ」
これは、確実にさやかの呪いだ。名前を認識しているから間違いない。その後のパターンはやはり他の体験談と同じく人それぞれのものだろうが、特徴は一致する。
こんなにも身近に呪いの毒牙が侵食しているということに身震いする。が、あゆみの呟きを
千載一遇のチャンス。今目の前に呪いの体験者が居る。言い方は悪いのかも知れないが、これ以上の参考資料は無い。その呪いの一端に触れることが出来るかも知れない。
「それ、どんな顔だったか覚えてますか?」
「ええと……凄く綺麗でした。とにかく。目はくっきりとした二重だけど、そんなに大きすぎない流し目みたいな。鼻筋も真っ直ぐに伸びていて、口は小さめですけど、唇が厚かったと思います。人形とかアンドロイドとか、完成されたような印象でした。……あれ、何でこんなに覚えてるんだろう」
あゆみはその詳細な様子を覚えていることに不思議そうに首を傾げていたが、小麦としてはありがたい事だった。咄嗟にスマートウォッチで録音を開始しておいて良かったと思う。
「でも、その完成された美人さが逆に怖くて、作られた感覚というか、顔が人形に張り付いていると言うか。生身のものでない感覚も覚えました。これって本当に、幽霊だったりするんですかね? 最近色々変な話が噂になってるし……」
その語尾はほとんど聞き取れないほど沈んでいった。自信が無いのだろうが、それも無理はないと思った。何せこの時代、幽霊と言えば眉唾ものの存在だからだ。誰も信じない。
しかし小麦は違った。それを幽霊と呼ぶのか呪いと呼ぶのか、名称はどうでもいいが、きっとこれは悪意のある何者かの仕業だと考えた。故に、幽霊と仮定しようがそれ自体の現象は確実に存在する。あゆみの話で確信に至る事が出来た。それに何より、自分自身にもある種超常的で不思議な力があるのだから。呪いが存在することもあり得る。
しかしそれは暗に、あゆみもまた危険であるということでもあった。この呪いが実在するのなら、あゆみはこの後確実に死を迎えることになる。
「あゆみさん、私は超能力者でもなければ霊能者でもありません。だからお祓いや祈祷なども出来ません。そもそも多分、そういったものは効果が無いと思います」
あゆみは不安そうに小麦を見つめる。頭の中で今自分が言った言葉を反芻し、自分自身が本当に無力だと改めて気付かされる。
──私には本当に何か出来ることがあるのだろうか。
少しでも気の利いた事を言えば良かったとは思う。こんな誰に頼れば良いのかわからない内容で、それでも
しかしだからこそ、小麦は彼女を呪いから開放してあげたいと心から願った。誰かを想い、純粋に赤面出来るような心の清い彼女の救いに、少しでもなりたい、と。
「でも解決出来る方法はあると思います。それはきっとまた現れるかもしれません。その時に出来れば、そのさやかという女性を観察してみてください。物事はきっかけがなければ起きません。きっと何か、あゆみさんの元に現れる理由があるはずです。それさえ分かれば、私にも打つ手が出来るかもしれません」
「わ、分かりました。そうしてみます。でも……」
あゆみはそう言って、眉の端を下げる。その身体が震えだしているのが見て分かる。
「……とても、怖いんです」
絞り出した力の無い声で、あゆみはただそう言った。小麦はそれに返事をせず、あゆみの手を強く握った。願わくば、無責任に頼むことしか出来ない自分の、せめてもの勇気だけでも彼女へ与えれるように。目を瞑ってそう強く願いながら、震えるあゆみの手をぎゅっと握り続ける。
目を開けると、全く知らない場所に居た。茜色に染まった、黄昏時の公園のような場所だった。だが雰囲気がおかしい。遊具は錆付き、人っ子一人おらず、何よりさっきから、キーンと高い耳鳴りがずっと一定の音量で聞こえている。
しまった。不意に「潜行」してしまった。小麦は自分の鼓動が激しくなってくるのを感じる。
通常、小麦が思念潜行する対象は物体や空間なのだが、人物そのものを対象としてこの力を使うことはまずかった。
小麦が潜行するのはそこに残留した僅かな思念であり、それだけでも深く潜りすぎると小麦自身にも影響を及ぼしてしまう。悲しい記憶なら涙し、怒りの記憶なら腸が煮えくり返りそうになる。
だが人物そのものとの接触で潜行してしまうと、あまりにその影響が強すぎる。小麦に流れ込んでくる感情の波が制御しきれないのだ。だから対象の思念が強ければ強いほど危険なのだ。
小麦はこれを、母に対して使ったことがある。幸いにもその時潜った母の記憶は幸せの記憶であり、重大な影響は受けずに済んだ。だがそれでも、感情の波が去ったあとで「こんなに幸せでいいのかな」と今度は強い強い罪悪感に苛まれる事になった。
幸せな記憶でも、自身への影響は計り知れない。
なら、たった今、怯えているあゆみ自身の記憶に潜行してしまったということは──。
突然、金属が激しく擦れ合う耳障りな音が途轍もない音量で聞こえてきた。思わず耳を塞いで蹲ってしまうが、音は止まない。
音はどんどんと激しさを増していく。必死に顔を上げるとそこには、言葉では形容し難い「何か」が在った。
目線がそこへ向けられた瞬間、全ての時が止まった。目に見える空間全てにある物体の動きは止まり、音も聞こえなくなった。
傍らにはいつの間にかあゆみが座り込んでいた。絶叫するような悲痛な表情を浮かべたまま、ピタリと止まっている。
今しかない。早く潜行から戻らなければ! あゆみは目を閉じ、必死に目を覚まそうと念じた。
次の瞬間、耳元で風が吹いたと思ったら、誰かが囁いてきた。
「 」
「小麦さん? 大丈夫ですか?」
あゆみの声で小麦は深く息を吸い込んで目を覚ました。呼吸まで忘れてしまう程深く潜ってしまっていたのに気づいた。
思わず呼吸を激しくしすぎて、むせ返ってしまう。そんな小麦の背中を擦りながら、あゆみが心配そうに覗き込んでくる。
「すみません……」
「良かったぁ……。ずっと返事しないから、どうしちゃったのかなって思って」
「すみません、えっと、持病みたいなものなので気にしないで下さい」
たった今見たあの記憶は何だったのだろうか。恐ろしく嫌な予感が胸に残って消えない。あんなに無機質な恐怖を覚えたことが無かった。どう足掻いても、何をどう抵抗しようと絶対に助からない、希望などと言う言葉が一切出てこない。そんな理不尽で絶対的な、深い絶望。
あれは記憶ではなかった。あゆみという人間の「恐ろしい」「怖い」と言った感情に共感するという事が全く起こらなかった。人の記憶や思念に潜行しているのなら、そこに存在するはずの感情への共感が起こらないというのはおかしい。記憶に潜ったのではないのだとしたら……。
「あゆみさん」
「はい?」
「次に変なものを見たら、直ぐに私に連絡して下さい。出来ればこの場所まで来て欲しい」
「わ、分かりましたけど……大丈夫ですか? 小麦さん、顔色が……」
「とにかく、本当に……気をつけて下さい」
思念潜行は他者の記憶に潜り、その記憶を垣間見て、そこに存在する感情に共感出来るという不思議な能力だが、今の潜行による感情の変化は小麦には起きていない。
そのような外因的な感情の影響ではなく、小麦本人の感情が、「さやか」を恐れた。
前に江藤智美の記憶に潜った時に見たさやかの声は聞こえなかったのだが、今回は打って変わってはっきりと明瞭に聞こえた。いや、恐らく「聞かせられた」のだろう。
「はやくでていけ」と。
今、小麦が偶然あゆみの記憶に潜行したのではなく、さやかに呼ばれたのだとしたら。
これは……間違いなく警告だ。
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