一章 焦眉 8
七月三日-四日
肌を容赦なく刺す紫外線から逃れ、空調の効いた喫茶店にて
本来ならば依頼者には事務所に来て貰うことになっているのだが、最近になって事務所の空調の調子が悪くなり、運転させても何故かちっとも涼しくならないので、修理業者に頼もうと思っていた。
しかし修理予定日より先に今回の依頼人から連絡を貰い、それがなるべく急ぎでと言う事だったので、暑さで不快感に
朱音は依頼人が来るまで、中と違って暑そうに汗を流して歩く人々を目で追いながら、ふと思案に暮れていた。
私立探偵という職を選んだ朱音の背景には、これと言って特に大きな事件等は無い。
人間ならば誰しも暇を持て余した時、街行く人々の様子を眺めて観察をする事があるのではないだろうか。
道を歩く男性の歩き方の特徴を見つけたり。携帯電話を片手に誰かとの雑談に花を咲かせるそこへ耳を傾けたり。電車で向かいに座る婦人が読む本をめくるたびに変わる表情の様子を見たり。
傍から見れば無関係な人間を凝視し続ける怪しい人に他ならないだろうが、朱音はそのような他人の特徴、つまり見た目や振る舞いから、その人の性格を読み取る能力が人一倍長けていた。今でこそ、そのどれもが心理学の本などで紹介されている内容だろうが、朱音はこれを子供の頃から無意識に行っていた。
やがて子どもから少女へと成長していくと、周りの雰囲気や場の状況を認識し、良い空気の時はより良く、悪い雰囲気の時は改善を、自分が積極的にその場の空気感を上手いこと取り繕い、雰囲気を一新させられるようになっていた。
例えば両親がたまに喧嘩などをし、家庭内が険悪な雰囲気に包まれた時などは、お互いの機嫌が直るような事──例えば両親共に動物好きだったので、飼い猫を喧嘩の場に連れ出したりしていた。飼い猫の可愛さを目の当たりにし、張り詰めた緊張は一旦解される。そうすると両親ともども、何をあんなに怒っていたのか、と冷静になった。下らない喧嘩はどうでも良くなり、次の日にはもう両親は仲直りしていた。
喧嘩別れした友達の間を上手く執り成したりするのはもちろん、好きな子に代わりに手紙を渡してくれ、ついでに気の利いたことを添えてくれと頼まれることも多かった。
誰がどの男子を好いているのか、情報を集めに集めてクラスの相関図を勝手に作っていたこともあった。これは主に好きな給食のおかずや、掃除当番の交代などの交渉材料として使った。
そうして歳を重ねていき、中学、高校生頃になると、仲の良い友達から恋愛の相談をされることが多くなった。そうして必然と、浮気調査紛いの事もやらされていくようになった。
対象の怪しい様子を追い掛け、いつ誰と会ってどこで何をし、何故、どのようにそれをしたのか。その5W1Hさえ明確にしてしまえば、浮気相手を割り出すのは意外と簡単だと気付いた。付け加えると、依頼を受けたうちの九割は黒だった。
尾行調査だけでなく、時には自分が体を張って──実際に身体の関係は持たずにすぐ逃げたが──友達の彼氏を誘惑しに行ったり、足を使って聞き込み調査をしたりと、本格的に調査を行うようになってくると、そのうちに友人からは畏敬の念を込めて「新堂探偵」と密かに呼ばれるようになっていった。
反対に、朱音の中では調査の一環なのだが、事情を知らずに彼氏になってしまった者達の悲鳴が波紋となって噂は広がり、男子たちの間では淫売だなんだと尾ひれの着いた悪名が広まった。
朱音は自分の恋愛事情にはあまり興味が無かったので、別にこれと言って困ることはなかったが、噂というものの力が存外に強いことは小学生の時分より知っていたので、噂の根を調べ上げて最初に言い出した者にちょっとした警告をすると、もう次の日には朱音を罵る言葉は聞かれなくなった。
そうやって探偵の真似事をしているうちに、自分は本職で探偵をやったほうが良いのではないかと本気でそう思うようになっていった。
人の素行などを読み取る能力には長けていたが、人と実際に話すとなると上手くコミュニケーションが取れないのが難点だが、実際彼女の評判は在学中には物凄いものだった。離れた街の他校の生徒からも依頼が飛び込んでくることもあったほどだ。
朱音はこの探偵の真似事を楽しんでいたし、問題が解決した依頼者からの感謝も嬉しかった。何よりも、間違っていることを正していく事に、自分の生きる意義を見出していた。
学校を卒業すると同時に、近所にあった興信所で働き出した。修行期間と考えての行動だった。
その時の所長はおおらかな人で、探偵業の傍らで社会のルールや常識など、探偵に必要だったが朱音には欠けていた社交性を補うような指導もしてくれた。
そうやって濃密で充実した年月を過ごし、数々の様々な依頼をこなしていき、朱音が二十六になる年に遂に彼女の独立は叶った。
構える事務所は小さいものだったが、学生の時からの馴染みの友達を始め、実際に解決してもらった依頼者達の口コミで、徐々に新堂探偵事務所は知る人ぞ知る名所となっていった。
そうして先日、杉山
テーブルに置かれた中身の無くなったグラスの中で、氷だけが溶けてカランと音を立てる。
それまで目の前を浸していた追憶は消え、同時に客の来店を告げる入り口の鐘が鳴る。入ってきたのはそわそわした様子で周りを見渡す中年の女性。
朱音はひと目で分かった。杉山奈美恵はあの人だろう。店員に何名かと聞かれ、待ち合わせなんですけどとキョロキョロしている。
朱音は席を立ち上がり、こちらですと手招きをする。それに気付くと女性は、あ、と声を上げそそくさと駆け寄ってくる。やはりそうだった。
「すみません、お待たせしまして」
「いえいえ。コーヒーが美味しくて良い待ち時間になりましたよ。杉山さんもどうです、一杯」
単純な常套句、「いえいえ今来たところです」を使った方が良かったかと一瞬思ったが、空になったグラスに嘘つきと証明される。これで良かったはずだ。
それでは、と返事をし、彼女は朱音の心配を
「あの、初対面ですのに、どうしてお分かりに?」
「待ち合わせをしていそうだなと思っただけですよ。改めまして、探偵の新堂朱音です。杉山奈美恵さんですね? この度はご依頼ありがとうございます」
ははぁと感心している彼女に対して、大して感心するような事はしてないけどなと心の中で笑って、本題に入った。
「お兄様が亡くなった事についてでしたね?」
「そうなんです。最近のことで私も整理がついていなくて……。それでもやっぱりどこか変でしたので」
「変死だとお聞きしましたが、それはつまり……どういう事なのでしょう」
「あの、仮想現実の故人に会えるというサービスはご存知ですか?
朱音は頷く。自分は利用してはいないが、今や世間に浸透しきったサービスで知らない人のほうが珍しい。
「多分、その中で死んだんです」
朱音は一瞬、奈美恵が何を言っているのか理解出来なかった。剥いた目で奈美恵を見ると、彼女も信じてもらえないのは当たり前だという風に、不安げな顔をしている。
「待って下さい、亡くなったというのは現実でのお話ですよね?」
「そうです。先日には葬儀も執り行っております」
「ではその……死亡の原因が、仮想現実の中にあると?」
「私はそうなのではないかと……」
朱音は当初予想していた内容と全く違うことに混乱を覚えた。
例えば誰かの変死というケースの依頼では、密かに作っていた愛人による他殺という愛憎渦巻く背景があるものや、高齢者を狙った保険金詐欺だったりと、そういう事件的な事しか受けていなかった。今回の内容とはその本質から根本的に違うものだ。ただの個人の素行調査ではない。
それから疑問に思ったことをいくつか聞き、あらかたの内容は聞き出せた。
杉山奈美恵の兄、杉山
兄夫婦の雲行きが怪しくなってきた頃から様子を見て心配はしていたのだが、頑固な兄は大丈夫だからと奈美恵の心配を煩わしくしていたそうだ。
片親で仕事も忙しかった浩一氏は、それでも娘の事は人一倍愛していたそうで、その娘が致死性不整脈で急死したときの悲しみようは、それはそれは痛ましいものだったそうだ。
浩一氏は一方で
「私も最初は心配で連絡を取ってはいたんですが、そのうちに段々と返事が無くなってきて……うるさくしすぎたかなと思っていた矢先に亡くなってしまったので……」
奈美恵はそう言って肩を落とす。
朱音は頭の中で仮想現実依存症という言葉を繰り返した。
確かに、大切な人を失う辛さを経験した人がまたその人に会いたい、会えば心の痛みは軽減するというのは納得出来るし、
それでも過度な利用は確かに推奨されていなかった。仮想現実に入り浸るのは精神衛生上良くない、と。行き過ぎた利用は依存症を引き起こし、
これによる離職率や、それに伴って支払えなくなった
そして行き場の無くなった依存者はそれでも安らぎを求め、自らも仮想現実へ行こうと自殺未遂を繰り返す。これが仮想現実依存症の行き着く果てだ。
それでも
朱音はこのサイクルに、どこか大きな闇を感じている。
しかし今回の浩一氏の事件とは少し毛色が違う。浩一氏は娘への会いたさで依存症になり、現実で自殺したわけではないのだろうか。
「検死も行われたらしいのですけど、急性心不全による突然死としか言われなかったんです。亡くなったのも自宅だったそうなんですが……警察の方が言うには、亡くなる日にセンターに行っていたそうなんです」
最後に彼が目撃されたのはリユニオンセンターで、亡くなっていたのは自宅。順当に考えれば
「でも、そのセンターで見かけたという目撃情報が、センターに訪れた時だけで、帰る時の様子を知っている人は居なかったそうなんです」
朱音はそこで妙な違和感を感じた。
「亡くなっていたのは自宅なんですよね?」
「はい。警察の方からはそう聞かされました。でも最後に目撃されたのはセンターを訪れる所だった。って」
「では、死体を発見したのは誰だったんですか?」
「警察の方です。近所の通報があったとかで」
何か変だ。
浩一氏は死亡の直前に目撃されただけで、その遺体の発見は自宅。近所の通報で訪れた警察官が発見した。
自宅へ帰る時、周りに人が居なかったならば目撃談がないのはまぁ頷ける。だが、遺体の発見状況がそれを上回る奇妙さだ。
通常こういった近隣からの通報というのは、隣近所の人が異変を感じて行うものだろう。随分前に亡くなっていて、遺体から出てしまう腐臭などによる通報があって発覚。
もしくは会社勤めをしていた者ならば無断欠勤を疑い、会社の者が訪問した所で発覚したりする。
それを、亡くなったその日に誰かが何かを訝しんで警察へ通報をするだろうか。
温度条件の程度にも依るが、一日も経っていないなら遺体が腐臭を発しない可能性もあるし、会社でも一日の無断欠勤程度ならサボりの方を疑うだろう。
自殺しようと思っていて、首吊り時の準備などで音が漏れていた、と言うなら分かるが、急性心不全による突然死ならば、聞こえるのはせいぜい卒中で倒れる時の物音くらいだろう。わざわざ通報するほど怪しい物音がするわけでもないのではないか。
少し不可思議な発見時の状況に、人為的な何かを朱音は感じた。
──もし家に帰っていないまま死んだのだとしたら、帰りに見かけられることもない。そう考えるのが一番しっくりと来た。
「そう、そうなんです。私も最初はまさかなと思ったんですけど、兄の住んでいた家の周りの人に聞いてみたんです。そしたらやっぱり、通報なんてしてないって誰もが言うんです」
朱音が思わず考えを口走ると、奈美恵は目を見開いてそう
それならば先程立てた仮説が立証されつつある。そもそも周囲の住民に異常を感じているものは居なかった。だとすれば、この通報はどこから来たのだろうか。もしもそれがフェイクであるなら、死の隠蔽をするためにわざと誰かがそうしたというのか。
「帰りの目撃証言が無く、この通報というのも何者かの偽装だとするなら、浩一さんが亡くなったのは──」
仮想現実の中、少なくともセンターの中だ。
自分でも突拍子の無い考えだと思ったが、奈美恵は少なくともそう確信しているらしい。うんうんと頷いている。
「確かに有り得ない話だとは思うんです。でも、もし違ったとしたら兄の死因は病死という事で確定します。それならそれで納得は出来ますし……」
「ええと、お兄さんには元々持病があったりはしましたか?」
「いえ、特には……。元気だけが取り柄のような兄でしたので思い当たりはしませんが……」
「ふむ。どちらにせよ裏付けを取れれば、奈美恵さんも安心してお弔いが出来ると」
「はい……。それで、なんとか調べられないかと思ったのですが、私のような一般人ではとても……」
そう話す奈美恵は本当に残念そうに肩をがっくりと落とす。その様子は悲壮感が実体を持っているようだった。
「分かりました。私にも出来る範囲でですが、調べてみます」
朱音はそう言って、改めて奈美恵の連絡先を控える。
「それと、これは余談になってしまうんですけど……。兄が亡くなってからというもの、変な人達の訪問が増えてきた気がするんです」
「変な人達?」
「はい……。
朱音はその名前に多少聞き覚えがあった。確か、比較的最近に立ち上がった宗教法人団体だったと思う。街角での勧誘やWeb広告などでもよく見かける。
奈美恵にも同じ様に聞き返してみると、やはりそれで合っているようだった。
「兄は、娘の例がありましたから、
朱音は宗教知識には明るくないが、それでも噂を聞いている限りではあまり良い評判があるとは思えない団体だった。その教義は覚えている限り、「死後の救済」だとか「現世で犯した罪の赦しが得られる」とかだった気がする。
そもそもは
その「死」すら超越したと言えるこの現代では、その考え、もとい宗教や神と言った概念自体がもはや古い習慣としてしか残っていないということなのだろう。事実、死人が出ても葬式を行う家など現代では奇異の目で見られる事が多い。皆、形式張っただけの葬式などよりも
だが、家族が亡くなって間も無いのに勧誘を毎日のように続けるとは、少し異常な気もする。配慮が足りない……と言うより、どこか強制するような印象さえ抱かせる。
伊邪那美の声という団体の評判などはあまり詳しくなかったが、何となく朱音はこの宗教は好きにはなれない、むしろ、不気味だという印象を抱いた。
「すみません余計な話をして……」
その後、何度もお願いしますと頭を下げる奈美恵を見送り、自分もまた帰路についた。
翌日に加賀美工房を訪ねたのは、浩一氏の死亡原因を、まず真っ先に機器の異常から来る何かのショックかも、と疑ったからだ。
死亡時の状況がどうであろうと、死因が急性心不全ならば死亡場所との関連性はまず省き、それを引き起こした原因そのものを先に調べたかった。
脳神経を読み取るリンクスに何か異常が起きれば、それを元として心身への影響が出ることはあるのだろうか? そう思い至ったからだ。
そして
そこで、何かが起こった──?
同様に宏親から聞いた、調整に来ていたがこちらも浩一氏と同様に急に亡くなった
年齢も住んでいる場所も違うが、どちらにも共通する事としては、亡くなる前にリンクスの調整をしていた事。無関係とは思えないが、関係があるともまだ言い切れない。
考えを張り巡らせながら朱音は事務所に戻り、タブレットを使ってとあるデータベースを照合する。これは興信所に居た時にお世話になった所長からアクセス権を貰った、非合法すれすれの個人情報データベースだった。朱音はこれを「辞典」と呼んでいた。
どのような経緯でこれを自由に使えるようになったか、朱音は詳しいことは聞かないままよく使っている。これからもその経緯は聞かないことにしている。触らぬ神に祟りなし、と思って。
そこで、杉山浩一、三上俊明両名の個人情報を探す。するとどうやら、三上俊明には息子夫婦と孫娘がいるらしい。三世帯で住んでいるとの事だった。遺族からなら詳しい話を聞けるだろうと思い、早速連絡を取ってみた。
電話に出たのは
朱音は近く予定の空いている日を確認し、それではその日に伺いますと言って電話を切る。
もちろん弔問はするのだが、朱音の目的は調査だ。三上俊明の死に関して、詳しく聞く必要があった。もしかしたら、杉山浩一との共通点を何か見つけられるかもしれない。
切ったあとで、杉山浩一の死亡日を思い返す。六月二十七日だった。今日が七月四日なので、丁度一週間後に奈美恵からの依頼があったということだ。三上俊明の死亡日はと「辞典」で照会すると、六月二十六日の事だった。
加賀美工房にて調整を行った日は、それぞれでズレはあるが、死亡する一週間ほど前の事だった。
二人共、同じようなタイミングで調整を頼み、その後に亡くなっている──。
他にも同じタイミングで亡くなっている人が居ないかと調べてみると、もう一人、六月二十八日に亡くなった
記録にはしかし、機械の異常は無かったとしか記載されていない。死ぬ前に調整をしていたという記録しか分からないが、今はその裏付けだけでも欲しかった。
江藤智美もリンクスの調整をしていたということは、先の二人も含めて合計三人が、リンクスを調整した後に亡くなっているという事になる。それがもしも、全てリンクスではなく、
朱音はタブレットを持つ手が僅かに震えているのを抑える。こうなると規模は個人の素行調査などで済む話では無くなる。もはや
まだ見えない因果関係だが、それは確かに、少しずつ形を成していく。
何かは分からないが、それは朱音の知らない場所で確実に広がっている。そう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます