一章 焦眉 6

葦澤聡臣あしざわさとおみ

七月二日


 義眼の無い生活には中々慣れなかったが、それでも数日経てば取り立てて問題無く過ごせるようになっていた。視界の左側に何か危険になるものを置かなければ良く、常に右側で警戒していればさほど不便な事は無かった。

 聡臣さとおみは自室でデスクに向かって何時間も仕事に没頭していた。

 身体的な負担は特に無く、長時間座していることによる腰の痛み以外は特にこれといって目立つ支障はない。左目が見えずとも、効き目が右である聡臣にとっては、義眼が無くとも生活にそこまで困窮こんきゅうすることはなかった。

 それでも仕事はこなさなければいけなかったので、聡臣はここ数日の間で少しばかり溜めてしまっていた業務を片付けることに集中していた。

 Webデザインの仕事というものは、ただ機械的にこなせばいいというものではない。クライアントの要望に沿って、作りたいページのレイアウトを構成し、ユーザーインターフェースの快適さも追求する。

 ページ内に表示するロゴやアイコンなど、画像系統のものにもセンスが必要だ。雰囲気なのか分かりやすさなのか、どちらに重きをおくかでデザインの趣向も当然ながら変わる。

 だから決められたルーティンワークを淡々とこなす事には決してならず、常に変化を求められるから、思考は常に柔軟でなければならない。

 聡臣は、いつも脇に用意するコーヒーには砂糖をたっぷり使うことを習慣にしている。こうしたクリエイティブな事に没頭していると、脳みそが常に糖分を必要とするからだ。

 不思議と、糖分が不足している時はいくら頭を捻ってもアイディアが降ってこない。それどころか意識は散漫とし、注意力や判断力も僅かに落ちてくる。

 作業がなんとか節目を迎えた時、聡臣は休憩をしようと半身を伸ばした。同じ姿勢でずっと居たせいで凝り固まってしまった肩が伸びていくのが気持ち良く感じた。

 コーディングを続けすぎて、画面から目を離してもHTMLやCSSと言った機械言語が宙に浮いては消え、また浮かぶ、そんな錯覚を覚えた。手首も凝ってしまっている。

 グルグルと手首を回転させて凝りを解しながらふと時計を見上げると、作業開始時にはまだお昼を回ったぐらいだったはずが、短針はいつの間にか十九時を差していた。

 飲み干してしまったコーヒーを淹れ直そうとマグカップに手を伸ばし、ついうっかり左目で捉えようとしてしまい距離を測り間違えた。しまったと思う前に、反射的に飛び退いてそれをかわす。直後、大きな音が響いてマグの破片と残っていたコーヒーは地面に散らばった。

 途端に落胆と煩わしさ、何をやっているんだという自責の念に苛まれ、お気に入りだったマグカップの破損により心底気が滅入ってしまう。それは随分前に霞美かすみと一緒に買った、ペアマグだった。

 お互いの名前のロゴを聡臣がお洒落にデザインし、作ってもらったものだった。シンプルにそのロゴのみを入れた素朴なものだが、それが良かった。

 霞美は聡臣がデザインする全てのものを好きだと言って肯定してくれていた。自分では出来の良さに満足行かないものであっても「自分は好きだ、なら他にも好きになる人はいる」と言ってよく励ましてくれた。

 良き妻であり、良き理解者でもあった。その存在は仕事柄独り善がりになりがちな聡臣にとっては何物にも代え難いものだった。一人ではすっかり広くなってしまった自室だったが、聡臣はいつか帰ってくる妻のために引っ越しはあえて考えなかった。

 物は壊れてしまうが、思い出は消えない。真っ二つに割れたロゴの部分を拾い上げて、大きな破片の上に細かい破片を乗せていく。その度に霞美との思い出が一つずつ浮かんでは消えていった。

 あらかた拾い終えて、細かい破片は掃除機で吸ってしまおうと立ち上がったときだった。

 聡臣が住む1LDKのリビングには西を向く形で仕事机を据えており、南側には大きな窓があって、机と真反対の東側に寝室がある。そこは寝るためだけの部屋なので、スライド式になっているドアは普段から開け放している。

 寝室には大きなダブルベッドがあるのだが、リビングと同じように南側に窓がある。そこは常に締め切っていてカーテンもここ何ヶ月か触っていない。

 日も暮れて外は薄闇に包まれ、部屋の中にあるのはパソコンと間接照明の光だけ。寝室には僅かにしか光が届かず、ぼんやりとしかその様子は見えない。

 その寝室、東側の窓がある更に奥の角の場所に、何かが居た。

 丁度身体を斜めに向けており、項垂うなだれた頭のせいで、直立の人影と呼ぶには少々歪な格好だったが、明らかに人であるとわかる。垂れた頭から長い黒髪が一直線に下へ伸びていた。

 両腕はだらりと投げ出したようにしており、力の全く籠もっていないお辞儀のような印象を受けた。

 それは一瞬の事で反応すら出来なかったが、影を認識した刹那、その項垂れた頭がぐいっと上を向いた。

 ──霞美? 

 咄嗟にそこに居るはずのない妻を連想し、そう思った事に驚いて瞬きをした瞬間、もう影など無かった。

 遠くから間延びした車のクラクションが聞こえてきて、我に返る。思わず左目を外そうとし、いつもの義眼を点けていないことに気付く。そうだった、と思い直すと同時に、全身が粟立つ。

 義眼は、宏親の元で修理中だ。今は左目は機能のない見た目を補助するための義眼でしか無く、視界は存在しない。気の所為せいなどではない。薄闇で見えにくかったが、確かに居た。はっきりと見た。しかも、生身のはずの右目で。

 信じられないことが起きたのだった。聡臣の飛蚊症は右目には発症しておらず、人影どころか硝子体しょうしたいの影すら見えることはなかったはずだった。

 例え飛蚊症だとしても、今のようにはっきりと特定の形をなして現れる影などあるはずもない。さらにその影が動いたのだ。自分は目を逸らせず、一瞬の事で目線を泳がせることも出来なかった。なのに動いた。はっきりと。

 頭の中で今の現象をなんとか説明しようと奮闘するが、それは徒労に終わる。どう考えてもありえない。

 ただ一つだけ確かなのは、あの影の現象は、機械の異常では無かったのだ。

 聡臣は先日の父の話を思い出し、胸騒ぎを覚えた。何かおかしい。あの時掴めなかった違和感が徐々に大きくなっていく。泥濘でいねいをまさぐるも形すら捕らえられなかったものが、あちらから指先に少しだけ絡みついてきたのだった。

 心臓が脈打ち、どこか予感めいた不吉なものを感じた。聡臣は手に持っていた破片を勢いよくゴミ箱に放り投げ、車の鍵を引っ掴んで外へと飛び出した。


 リユニオン・センターは24時間開放されている。聡臣は駐車場に荒く車を停めると、受付へと急いだ。外はもうすっかり夜の帳が下りている。心しかいつもより静かで、静寂がこもった熱気と共に肌に張り付いてくるようだった。いつもなら気にする程の事でもないのだが、何故か今はそれが妙に心許なく感じ、不安は一層募る。

 センター内に駆け込んでいつもの手順を済ます。時刻は二十一時に差し掛かり、人手はゴールデンタイムを過ぎたせいかそれほど多くはないが、いつもは見慣れない真っ白い装束に身を包んだ男女二人組が入り口の脇に佇んでいることが気になった。

 詳しくは知らないが、あれは「伊邪那美いざなみの声」と呼ばれている宗教団体だ。手にした本にも描かれている、逆三角のシンボルが教団のロゴマークのようになっており、町中でこのシンボルを見かけることも少なくない。

 彼らは死後の救済を信条に、YOMIヨミ、ひいてはそれを管理するAIイザナミへの信仰を主としている。まだYOMIヨミの誓約を終えていない人々へ誓約と入信を勧めており、YOMIヨミのサービスが広まるとともにその勢力を拡大しているようだった。

 彼らは男女ともに小綺麗な顔だが、揃って二人共上から貼り付けたような笑顔を常に浮かべているのがどこか不気味だ。

 今時珍しい紙で出来た分厚い本を抱え、二人共こちらをずっと見ている。他に受付に客がいない為か、必然的に聡臣だけが視線の対象になっているようだが、どこかバツが悪いような気分になる。

 二人は特に話しかけてくる様子はなかったが、視線を背中に浴び続けているのはあまり気分の良いものではない。それに聡臣はそれどころではなく、今は急いでいた。一刻も早くダイブを行わなければならない。大扉の前まで階段を登ってから一度だけ恐る恐る振り向いたが、二人組は依然こちらを見続けていた。慌てて視線を逸らし、扉を開けて通路を急いだ。

 一つの部屋へ飛び込むように入ってダイビングチェアにすぐ腰掛けた。AIの声を半ば無視する形で両親の元へ急ぐ。

 すぐさま意識は途切れ、次に目覚めた瞬間、視界には異常なものが飛び込んできた。あまりの様子に聡臣は面食らってしまった。不安は、正に的中してしまった。

 場所は前と同じ、実家のダイニングだった。風景だけは見慣れたものだが、その他のものが圧倒的におかしかった。

 まず、この場所自体の物の色相が全て狂っていた。

 三原色から構成される色の表現法にRGB値というものがあるが、これで表せばRとBを最大まで振り切り、しかしGは最小値まで下げたような雰囲気で、目に強いピンク色のベールをかけられたようだった。

 その景色の上で、さらに物体の一つ一つの配色がどれも狂っており、食卓の上の食器は真っ赤、周りに置かれた家具などは全て真っ青に染まり、天井や壁の色は黄色や緑が混じる、まるで極彩色そのものに視界を包まれたようだった。

 両親も酷く変だった。虚ろな目で真っ直ぐに着座したきり微動だにしていない。顔も無表情で、マネキンのように固まっている。しかもその表面の色がおかしいのだから余計に不気味だった。

 弘成ひろなりの顔の右半分は真っ黄色に染まり、残った左半分は頬から上、目の周りが紫のようになり、頬の下からは真っ黒に塗りつぶされている。美奈みなの方も色と区切りは違えど、同じ様な塗り分けがされている。

 来ている服の色も顔と同じ様子で、ランダムに色が散りばめられている。そのどれもに法則性がなく、見ているだけで色彩感覚が狂っていくようだ。

 そんな景色に包まれている中、一際目立って異常だったのは、聡臣の隣の席、弟の友星ゆうせいの席であるはずのその場所に、知らない女が座っていることだった。

 その女だけは色彩を正常に保ち、真っ黒な長い髪が目元を隠し、目鼻立ちだけが覗く。鮮血が飛び散ったような濡れた赤のワンピースを着て、両親と同じようにまっすぐ椅子に座っていた。

 何なのだ、これは。

 今までこんな異常に出くわしたことはなかったし、YOMIヨミにこういう事が起きるなど全く予想していなかった。

 恐怖よりも呆気にとられ、聡臣は自分の席に着座したまま、ただ動けなかった。

 すると弘成が突然凄い勢いで首だけを水平にぐるりと回し、聡臣を見据えた。同時に、美奈と謎の女の首も回り、聡臣は三つの首に睨まれる。

「聡臣、友星が遊びに来たぞ、遊んでやれ」

 聞き慣れたはずの父の声、だがその時の声は全く違った。スロー再生のようなこもった声と、逆に早送りした時の巻いたようなキュルキュルという音が一緒になって、父の声と重なって聞こえた。嫌に耳の中に残り、反響して聞こえてきそうだった。

 言っている内容もおかしい。そこにいるのは弟の友星ではなく、知らない女なのに。

「サトオミ、ユウセイガアソビニキタゾ、アソンデヤレ」

「さとおぉみぃゆうぅせいがぁあぁそびにきたぞぉあぁそんんでやれぇ」

 実際にそれは頭の中で繰り返され、低い声と高い声が交互に聞こえ、耳がおかしくなりそうだった。

 声を発する父はゆっくり聞こえる声と違い、口の部分だけが早送りのようになり、物凄い高速で色々な発音の形を繰り返しているようなふうだった。それはそのままを維持し続け、喋っていない時も止まらずに高速で動き続ける。

「兄貴、ただいま」

 次に聞こえたそれは、間違いなく友星の声だった。聡臣の記憶の中に確かにあった弟の声だ。少し高めの声色で、ハッキリとしており、それでいて透き通るような、聞き取りやすく心地の良い声だった。声と同時に弟の顔が蘇ってくる。自分とは違い、極めて端正な目鼻立ちのしっかりとした顔。

 思わず隣の女を見ると、その顔面は全てが赤黒く染まり、陥没していた。そこから、顔らしきものが濁った粘性の液体と共にゆっくりと迫り出してきていた。

 それは眼球も舌も膨張して飛び出ており、弟なのかすらも分からないほどおぞましい変貌を遂げていた。

「兄貴、なんで一緒に死んでくれなかったんだよ」

 友星の顔らしきものは、聞き取りづらい濁った発音で、しかしはっきりとそう言った。

 飛び出た眼球が地面に落ちて潰れ、それが収まっているべき眼窩がんかの中から赤い液体がどろりと流れてきたと思うと、今度は口角が釣り上がっていく。

 そしてそのまま上がり続けた口角は目の横まで歪んでいき、今度はゲラゲラと下品な笑い声を発した。もはやどこが口なのか分からなくなった場所から粘性の液体が飛び散り、笑い声なのかも分からなくなった甲高い耳鳴りのような不快な音を出し続ける。

 両親もいつの間にか同じような顔で笑っている。奇妙な笑い声は空間に響き渡り、反響し続けてずっと耳を支配する。気づけば、三人の顔は渦を巻くように、顔のパーツが中心に向かって凄い勢いで回転し始めた。

 限界だった。もうこれ以上この場に居続けることは聡臣には出来なかった。留まり続ければ、きっとこの空間に取り込まれてしまうと思った。出来ることはもうたった一つだけ。

 震える手でリンクスに意識を移し、ログアウトを要請した。視界が閉じ切る一瞬、女の顔が目に入った。その時には既に悍ましい弟の死に顔ではなく、全く違う整った顔立ちの女になっていた。

 それは一瞬、霞美のように見えたが、しかし霞美ではない人物だった。その名前が何故か、頭の中に浮かび上がる。

 ひらがなで三文字──。

 


 目覚めた時、無事に聡臣は帰ってきたが、頭の中にはまだ笑い声の残響がある気がした。冷や汗で着ていたシャツが肌に張り付いている。

 震えが止まらなかった。いくらなんでも、こんな事が起きるなんて異常過ぎる。

 そう思った聡臣は下の受付へ向かおうとして、やはり立ち止まってもう一度考える。頭の中にはもう一つの疑念が浮かび、焦燥感が沸々と湧き上がっていく。

 向かわなければならない場所があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る